「心はどこにあるのか?」と問われると、たいていの人は脳にあると考えているのではないでしょうか。でも、これは医学・生理学が普及してからのことで、昔の人は心臓にあると考えていたようです。私はラテン音楽が好きでよく聴くのですが、歌詞の中にやたら"コラソン"という言葉が出てきます。この単語は、心臓という意味と心という意味を兼ねているのです。だからラテン系の人々にとっては、今でも心は心臓にあるんですね。
心が心臓にあると考えられたのは、感情が高ぶった時に心臓の鼓動をより強く意識するというところにあるんだと思います。現在脳にあると考えられるようになったのは、科学的知見もさることながら我々の意識に占める視覚と聴覚の比重が大きいからではないでしょうか。もし膝の前面に目が、そして膝の外側に耳があったらどうでしょうか? 足を前に出すと、上の方に自分ののっぺらぼうな頭が見えるのです。たとえ脳がそのまま頭の中だとしても、意識の中心は両膝の中間あたりに感じるのではないかと想像します。
意識の中心は常に一定ではなく、その時の状況によって変わります。空手の試合において、相手に激しく突きと蹴りを繰り出す時、意識はこぶしの先とつま先に集中します。その時、手や足に意志があるかのように感じます。いくら「手よ動け」と念じても手は動かないはずです。手を動かすのは実は手自身なのです。
読書に没頭している時、考えているのは実は読んでいる本の字だったりします。あなたはぼくの書いたこの記事を読んでいるわけですが、ディスプレイの文字が語っているように感じませんか? そのように感じたらあなたはこのディスプレイ上で考えているわけです。
「人は考えない。考えているのは本のページまたはディスプレイである。」
神秘的なことを言おうとしているのではありません。素朴に反省してみるとそう思わずにいられないのです。
禅の坊さんが木を見れば木が自分であるというようなことを言います。奇妙なもの言いでありますが、自分の心というものが空間上のどこか(例えば頭の中)を占めている、という考えを捨て去れば納得いくような気もするのです。
近所の猫が怒っていました。