禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

無とは何か? (その5)

2019-09-12 11:20:02 | 哲学
 約半世紀前のこと、紀州興国寺の師家である目黒絶海老師に、「無とは一体何ですか?」と訊ねたことがある。その時、老師は「究極の主体性じゃ。」と答えられた。もちろんその頃の私にそれがどう意味か分かるわけもない。「究極の主体性って、やる気満々というような意味やろか?」とまるで見当はずれなことを考えていた。
 今考えてみれば、絶対理解できるわけのない説明をどうして私にしてくれたのか分からない。それも「主体性」などという哲学臭のする言葉で‥。当時の師家の振る舞いからは外れているような気がする。が、続けてこうも言われた。「言葉で言うと簡単じゃが、なまなかのことではわからん。地獄の窯の淵を覗いてくるんじゃな。」

 禅の第一目標は己自究明であると言われる。「自分とは何者か?」ということである。私はアマチュア哲学者で、ペンネームを御坊哲と言い、毎日ブログを書いている‥‥。そういう意味の「自分とはなにか?」ではない。私は勝手にアマチュア哲学者を名乗っているだけのことで、哲学をやっていてもてなくても私は私である。御坊哲というのも仮の名前に過ぎない。戸籍上の名前だって別にほかの名前でもよかったのである。それらは私にとってどれも本質的ではない、偶然的に私に結び付いたものに過ぎないからである。

 では、思想や記憶はどうだろう? もし私が大やけどをして姿形が変わったとしても、会話を重ねていくうちに私の妻や友人は私を私と認めてくれるのではないだろうか? 人間の脳の中の状態をすべて再現できるほど科学が進歩したと仮定してみよう。私が交通事故で不慮の死を遂げたとする。私の脳をシミュレートするチップにあらかじめコピーしておいた私の記憶を入れ、それを私の姿そっくりのアンドロイドに装てんする。そうするとアンドロイドは私として振る舞い始めるだろう。私の妻も友人もアンドロイドを私(御坊哲)として受け入れるに違いない。アンドロイド本人(?)も自分自身が御坊哲であることを確信している。なにしろ、幼稚園からの帰り道でウンコをちびった恥ずかしい思い出も、妻との恋愛のいきさつも全部覚えているのである。

 ここまで来れば、思想や記憶を私の本質と言ってしまっても誰からも異論が出ないような気がしてこないだろうか?

 たった一人異論を唱えるのは私自身である。このケースでは私が不慮の死を遂げたことになっているが、私が死なないまま私のアンドロイドを作ったとすればそのことがはっきりする。生身の私にとってはアンドロイドがいくら私そっくりでも、私に似ている別人に他ならない。いくら考えが似ていると言っても、私の意識はアンドロイドの意識の中には入り込めない。この世界はあくまでほかならぬ「私の世界」として開けている。見えているものはすべて私の目に見えている、アンドロイドの眼からではない。

 このことから言えるのは、私に付随している対象化できるものをすべて集めても私にはならないということである。では何が私を私たらしめているのか?
対象化できるものをすべて取り去ったら、それは「無」と言うしかないだろう、というのが結論である。

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