震災直後に「朝鮮人が放火した」などのデマを信じた住民らに虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する追悼式典に対し、小池百合子都知事は昨年に続き、式典に追悼文を送らなかった。
「民族差別が背景にあるような形で起きた悲劇について、追悼文を送ることに特別な意味はないのか?」という問いに対し、小池氏は「民族差別という観点というよりは、わたくしは、そういう災害で亡くなられた方々、様々な被害によって亡くなられた方々への慰霊をしていくべきだと思っております」と答えた。
つまり、すべてひっくるめて震災の被害者であると言いたいらしい。確かに震災は恐ろしい悲劇であったが、朝鮮人虐殺はもっと恐ろしい惨劇であった。誰かが無責任な流言飛語を飛ばし、それに扇動された人々は殺人鬼となった。その他大勢の人も殺人を傍観していた。そのほとんどの人々は、普段は温厚な仮面をかぶった一般人ではなかったか。こんな恐ろしいことがあるだろうか。惨殺された朝鮮人犠牲者を追悼することは単なる慰霊ではなく戒めの意味もあったはずである。
虐殺に加担した人々を自分とは無縁な人と思うべきではない。誰もがそのような獣性をどこかに持っているという想像力が働かないのは鈍感だからだろう。常に戒めていないと人はどんどん鈍感になっていく。差別を差別とも感じない、ヘイトをヘイトとも思わない、昨今はそんな鈍感な人間が増えてきているような気がする。