禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

アリストテレスかプラトンか

2018-09-25 16:12:34 | 哲学

ある人と議論している時に、「あなた(御坊哲)はアリストテレス的な立場ですね。私はプラトン的な立場です。」と言われたことがある。しかし、私はアマチュア哲学者を名乗ってはいるものの、私の哲学はまったくの我流で、体系的な勉強をしたわけではない。プラトンもアリストテレスも全然読んだことはなかったので、なんのことを言われているのかが全く理解できなかった。

それ以来いろいろと勉強していくうちに、どうやらそれは存在論という分野の話であることが分かってきた。プラトン主義というのは、矛盾なく定義できるものはすべて存在するという立場であるらしい。(ここで言う「存在」は空間的・時間的に位置を占めるというような狭い意味ではなく、例えば、「白さ」とか「強さ」などの抽象的概念も存在するもの【哲学用語で『存在者』と言う】として扱う。) 一方、アリストテレス主義は現実に現象として現れる実例のないものは存在者と見なすことはできないという立場であるらしい。

ここで哲学になじみのない人には、「矛盾なく定義できる」という表現については説明が必要だろう。これはほぼ「想像可能である」ということと等しい。「矛盾がある」とは例えば「円い三角」とか「赤い青色」というような思い浮かべようとしてもできないもののことである。では、空を飛ぶ豚というのはどうだろう。非現実的であると思われるかもしれないが、プラトン的にはこれはOKである。爬虫類に羽が生えて鳥になったように、突然変異により豚に羽が生える可能性がないとは言えない、と哲学者は考える。

で、プラトン主義とアリストテレス主義は具体的にどう違うかである。「白さ」という性質について考えてみると、白い雪、白い白鳥などは実際目にすることがある、したがって「白さ」という性質が存在者であるということに両者に食い違いはない。では、「心臓が三つある」という性質はどうか?

プラトン主義者によれば、空飛ぶ豚があり得るように「心臓が三つある」という性質もまた存在者であると考える。しかし、アリストテレス主義者は現実に「心臓が三つある」ある事例が無いのであるから、それは存在者ではないと考える。

では、禅者ならばどう考えるか?

禅者は考えない。このような議論は禅者にとってあり得ない。プラトン主義とアリストテレス主義は双方とも、この同じ世界にいて、同じ現実を見ているからには同じ現実を認識しているに違いないのである。違うのは言語表現だけである。不立文字を標榜する禅仏教には、現前する事実が言葉によって変更されるということはないのである。

 ( ※参考記事 ==> 非風非幡 )

私のことを「アリストテレス的」と決めつけた人はおそらく勘違いしている。多分その時私は龍樹について語っていたのだと思う。確かに、龍樹の思想はプラトンのイデア論とは対極のものであるが、龍樹はきわめてドラスティックなことを主張している。龍樹に比べればアリストテレスはずっとプラトンに近い。龍樹によれば、言葉は世界を固定する。無常の世界は常に変化しつつとどまることがないのであって、固定しようのないものである。あえて世界を言葉で規定しようとすれば、それは恣意的な境界で世界を分節することに他ならない。

したがって、この世界にはいかなる存在者もない。それが「空」ということである。

いかなる言葉もこの世界を言い当てることはない。(象の鼻パーク) 

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