禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

嫌韓ムードについて一言

2019-09-07 09:51:37 | 政治・社会
週刊ポストで「韓国なんて要らない」という特集記事が組まれたらしい。当然批判が集中したのだが、それに対して小学館の編集部はあっさりと「おわびするとともにほかのご意見と合わせて真摯に受け止めてまいります。」と謝罪した。
 やくざではないが、「吐いた唾飲まんとけ」と言いたくなった。信念があって主張していることではない。要するに雑誌が売れれば良いのだ。週刊誌は話題になれば売れる。いくら批判されようが、要するに「言ったもん勝ち」の計算が透けて見えて、気分が悪い。メディアが世間を扇動する、そのことの危険性をもっと私たちは自覚する必要がある。
 
 いま日本では嫌韓ムードがかつてなく盛り上がっている。日韓関係は戦後最悪の状態である。このようなときに、メディアが「悪いのは相手であって我が方ではない」と主張することにはなんの得もないと知ることが肝要である。国同士はお互いに嫌いであっても引っ越しするわけにはいかない。いがみ合うより、何とか仲良くする方法を模索するよりほかの道はないのである。メディアは冷静に情勢を分析して、なんとかこの状態をより良いものにする指針とならねばならない、それが言論を生業とするものの矜持というものだろう。
 
 そもそもの発端となった「徴用工問題」だが、「政府間ですでに決着しているものを、いまさら蒸し返すのはおかしい。」というのが日本の言い分である。確かに、そこに一分の理はある、が、あくまでそれは当時の政府同士が徴用工の人々を置き去りにして、自分たちの都合だけで決着したものだ。徴用工の一人一人の側から見れば、賠償問題は未解決のままであることは事実であって、徴用工側が韓国の裁判で勝訴したことには十分な理由があるということは、日本人も知っておかねばならないことである。なによりも日本側には強制徴用したという、そもそもの罪があることを忘れてはならない。そのことを勘案するなら、「国と国の約束を守るように要求していきたい。」という日本の主張は形式的なこだわりに過ぎると言わざるを得ないのである。本来なら、日韓両政府は互いに協力してこの問題に取り組まなくてはならないのである。残念ながら、両政府とも自分たちの政治的基盤を強化するために、率先して自国民をあおっているのが現実である。それは日韓両国民にとって非常に不幸なことだと思う。
 
相手の側の視点から自分を見てみる、それを「自己を相対化する」と言う。普遍的な視点に立つためにはそういう操作が必要である。韓国にいて「問題は日本にある」という人と、日本にいて「問題は韓国にある」という人たちは、お互いによく似てる。おそらくその中の多くは、生まれてくる国が違えば正反対のことを主張していたに違いないと、私は想像している。本当のことを言えば、これは国対国の問題ではない。徴用工にしろ慰安婦にしろ、戦争という狂騒の中で人権やほこりを踏みにじられた人がいるということなのだ。私たちはその人々の心に寄り添い、出来る限りその人達が誇りを取り戻せるよう努力する義務を負っている。それは私たちが自由と民主主義の恩恵にあずかっている以上、その義務は必然的についてまわる性質のものである。
 
韓国をけなすことに一体なんの得があるかを、今一度冷静に考えてもらいたいと思う。おそらく考えられる唯一のメリットは「溜飲が下がる」ということぐらいだろう。隣り合った二軒の家が、お互い悪口を言い合いながらいがみ合っている。はたから見れば、二軒とも了見が狭くてけち臭い、ただそういう話でしかない。両国とも謙譲を美徳とする儒教の国であれば、まずわが方が譲る、ということでなければならない。「日本は譲ってばかりで弱腰だ」というのは当たらない。日本が朝鮮を併合して、朝鮮人を二等国民扱いしたのは紛れもない事実である。とりあえず、相手が納得するまで譲りまくってみる、そのくらいの気持ちが必要だと思う。
 
「哲学は現実には何も役に立たない」ということがよく言われる。役に立つ立たないという意味では本当にそうかもしれない。世渡り上手になるにはむしろそれは邪魔になると言ってもいいだろう。しかし、人が態度決定する際には絶対に哲学が必要である。短絡的な情動に従っているだけの人には品格が伴わない。どうも最近の日本は品格にかけているように私には思えるのである。哲学が欠けているのである。


(記事本文と写真は関係ありません)
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伊能忠敬

2019-09-05 09:53:49 | 雑感
伊能忠敬の名はたいていの日本人が知っている。日本史の教科書に載っているほどの偉人ではあるが、最近、私はこの人は一般に思われているよりももっとすごい人なのではないかと思うようになった。

忠敬の作った大日本沿海輿地全図 と国土地理院の地図を見比べて、ほとんど違わないことに私たちは舌を巻く。しかし、忠敬の時代には国土地理院というような権威はないし、もちろん見本にするような日本地図というものもなかったので、あらかじめどのようなものが出来上がるかもわからなかったわけである。現代なら衛星写真で日本の形というものを確認できるが、江戸時代にそんなことが可能であったはずはない。たいていの日本人には、日本の形がどうなっているなどということは想像の外のことであっただろう。

地図を描き始めて日本を一周してきた時に、その終端が最初の起点と果たして一致するものか、その確信を得ることは普通の人にはとても難しいはずだ。地面の上を歩き回っているだけの当時の人々には、日本そのものを俯瞰するというような視点は持ち得ない。しかし、忠敬には日本を俯瞰すれば「こうであるはず」という哲学用語で言えば超越論的視点というものがあったのだろう。科学的知識はあったとしても、当時の生活様式からすれば、そのような視点はなかなかもてるものではない。

忠敬は子供の頃から算術が得意で知的好奇心が旺盛だったらしい。50歳で隠居しその翌年から、暦学・天文学を学ぶために幕府の天文方である高橋至時に師事している。当時の乳児死亡を除外した平均寿命は大体50歳くらいだったと言われているが、彼はその歳になってから本格的に学問を始めたのである。彼のすごいのは、その学問が単なる老人の趣味に終わらず、それから5年後には10次・17年間にわたる測量という大事業につながったことである。単に知的好奇心と言うだけではない、自分のやっていることの意義を十分理解していた、と見なければその情熱の説明がつかない。忠敬に人並みすぐれた知性があったことは間違いないとしても、佐原という地方の一介の商人がスケールの大きな世界観をもち得たこと、それが驚きである。

伊能忠敬像 (富岡八幡宮境内)
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