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今日の写真は、モーダレン・カレッジのアディソン・ウォーク入り口そばの花壇の花です。巨大
昨日、某所で「『ロード・オブ・ザ・リング』の主人公は誰なのでしょうか」という質問を見かけて衝撃を受けました・・・(汗)
「皆が主人公だと思うけれど、誰か一人決まった主人公もいるのでしょうか」というものだったのですが、いや、「フロドが主人公」という大前提のもと、「でも皆が主人公とも言えるのでは」というのならわかりますが、この方は本気で「皆が主人公」と思っていたようなのですね(汗)
それに対する答えの中にも、「アラゴルンがもう一方の主人公だと思う」とか・・・
うーん、これPJ映画のかなりの悪影響なのではないでしょうか・・・
原作では、仲間たちが分かれた当初から、常に皆フロドのことを思っていました。角笛城の戦いのあたりからもう、「戦うことでサウロンの目をフロドから逸らす」という考えはもう示されていましたから、アラゴルンは、ゴンドールの復興や人間の世界を救うためと同時に、フロドのためにも戦っていたのですよね。
メリーもピピンも、自分たちのことに必死になりながらも、フロドのことを思っています。メリーが、自分のことで必死になっていてフロドとサムのことを忘れていたことに気づき、「僕はあの二人のことを忘れてた! 僕たちすべての中で一番大事なのに」と思う場面なんかとても好きなのですが。
常に物語の中心にはフロドと指輪の運命があって、登場人物たちはフロドとサムへと思いを向けながら、それぞれに頑張っていたのだと思うのですが・・・
PJ映画ではこのあたりが、おそらくわざとだと思うのですが、TTTラストからRotKでようやく現れ、RotK最後で収束して来ます。映画の見せ方としてそれもまたありかなあとは思いますが、このために「皆が主人公」というイメージができてしまったのなら、困ったことだなあと思います・・・もちろん、「フロドの影が薄い」というのが一番の理由なのでしょうが(汗)
「アラゴルンがもう一方の主人公」という見方もどうなんでしょうか。原作だけ読んでいてそういう印象は、少なくとも私はなかったのですが・・・
原作のアラゴルンは、本来なら英雄物語の主人公になり得る人物なのに、フロドを助けるため、敢えて脇に徹していたような印象があります。偉大な王であるアラゴルンが見せるホビットたちへの思いやりが、原作のアラゴルンの最大の魅力だったと思うのですが・・・(私がホビット贔屓だからかもしれないけど(汗))
という訳で映画の「アラゴルン主人公化計画」にはもううんざりしていた私なんですが(汗)だってそのためにセオデンもデネソールも貶められてしまったのではないんでしょうか・・・セオデンはRotKで挽回したとは言っても・・・
そして、セオデンのことはまあいいとして(汗)やはり問題は、アラゴルンがあまりに主人公然としてしまったために、フロドの影が薄くなってしまったことなのではないでしょうか・・・
映画として作る上で、やむを得ない変更というのはあるでしょう。でも、そのために、原作の「指輪物語」のイメージまでも変えられてしまったのだとしたら、やはり深刻だなあと思うのでした・・・(映画を見てから原作を読んでも、映画のイメージのまま読んでしまう人も結構多いようなので・・・)
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