天潼路の一帯は租界時代は「唐家弄」と呼ばれ、共同租界に含まれていたので2度の上海事変の戦火が及びませんでした。
天潼路847弄に慎余里はあります。
1860年前後、農村地帯だったこの地に「唐」姓を持った商人が来て石灰の商売を始めたとか。
天潼路の南側には唐家弄の名前が今でも残っています。
通りから小区へ入ると、頑丈なレンガ作りの石庫門住宅が残っています。
掲示板の下には井戸の跡が残っていますが、井戸が使用された当時は井戸端会議に花が咲いたことでしょう。
黒いレンガに蔦が絡まっています。
夏には緑色の葉が茂り、暑さを防いでくれるのでしょう。
租界が住民と建物を戦火から守ったのですね。
その後太平洋戦争の勃発で、共同租界は日本に占領されてしまいます。
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天潼路847弄に慎余里はあります。
1860年前後、農村地帯だったこの地に「唐」姓を持った商人が来て石灰の商売を始めたとか。
天潼路の南側には唐家弄の名前が今でも残っています。
通りから小区へ入ると、頑丈なレンガ作りの石庫門住宅が残っています。
掲示板の下には井戸の跡が残っていますが、井戸が使用された当時は井戸端会議に花が咲いたことでしょう。
黒いレンガに蔦が絡まっています。
夏には緑色の葉が茂り、暑さを防いでくれるのでしょう。
租界が住民と建物を戦火から守ったのですね。
その後太平洋戦争の勃発で、共同租界は日本に占領されてしまいます。
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