川端商店街を北に抜けて明治通りに出ると、通りの北側に新しい商業施設ができていますが、その博多川沿いの片隅に「鏡神社」と呼ばれる小さな神社があります。
ここは平安時代の西暦901年に、京都から大宰府に流された菅原道真公が博多に上陸された第一歩の地とされています。

当時この辺りは「渡唐口」と呼ばれ、遣唐使船の発着する港でした。

「遣唐使を廃止させた菅原道真公」にとっては皮肉な歴史のめぐり合わせですね。
一方、那珂川を西に渡った明治通り沿いの天神にもう一つ天神様があります。

こちらも菅原道真公を祀る「水鏡神社」で、由来は「鏡神社」と同じです。

水鏡神社の大鳥居扁額は元総理大臣広田弘毅が小学生の頃揮毫したものだそうです。

城山三郎著の「落日燃ゆ」を読むと、その理由がわかりました。

彼は地元の石屋の息子で、昭和の激動期に総理大臣や外務大臣を歴任した「平民」出身の政治家でした。
「博多区御供所町辺り(2)聖福寺」には「東京裁判」中、判決を待たず先に自決した妻と一緒に埋葬されています。
ここは平安時代の西暦901年に、京都から大宰府に流された菅原道真公が博多に上陸された第一歩の地とされています。

当時この辺りは「渡唐口」と呼ばれ、遣唐使船の発着する港でした。

「遣唐使を廃止させた菅原道真公」にとっては皮肉な歴史のめぐり合わせですね。
一方、那珂川を西に渡った明治通り沿いの天神にもう一つ天神様があります。

こちらも菅原道真公を祀る「水鏡神社」で、由来は「鏡神社」と同じです。

水鏡神社の大鳥居扁額は元総理大臣広田弘毅が小学生の頃揮毫したものだそうです。

城山三郎著の「落日燃ゆ」を読むと、その理由がわかりました。

彼は地元の石屋の息子で、昭和の激動期に総理大臣や外務大臣を歴任した「平民」出身の政治家でした。
「博多区御供所町辺り(2)聖福寺」には「東京裁判」中、判決を待たず先に自決した妻と一緒に埋葬されています。