波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

小豆餅食べたい

2007-12-09 01:40:01 | Weblog
こんばんは、白黒茶々です。
箔の目の前には小豆餅が鎮座しています。 彼はスキあらばそいつを喰らおうとしているので、一時も油断はできません。 しかし、ここでなぜ小豆餅なのか それは………実はこの食べ物には、かの徳川家康公と深い因縁があるのですけど、今回はそのことに触れてみようと思います。



時は今から400年以上も前の元亀三年(1573年)、上洛をするために西に向かっていた武田(信玄)軍2500人の動きを阻止するために、織田のわずかな援軍と合流した徳川軍11000人は、浜松の北部三方が原で激突しました。 世にいう三方が原の合戦です。その結果は徳川軍の惨敗でした。 家康公は単身逃走したのですけど、あまりの空腹に耐えかねてその途中で小豆餅を売っている茶店に立ち寄りました。



ちなみに家康公が小豆餅を食べたあたりは現在、地名で小豆餅と呼ばれています。

 そして出てきた小豆餅はとても美味しそうで、彼は真っ先にそいつをほおばりました。「うまうま………」 と、そこに突然武田の追っ手が迫ってきたのでした。「んがくっく……… 」なんて言っている場合ではありません 家康公は取るもとりあえずその場からさらに逃走しました。ところが………今度は武田軍とは明らかに違う追っ手がすごい形相で追いかけてくるではありませんか。こちらはいくら振り切ろうとしても引き離すことはできませんでした。 「もはやこれまでか……… 」顔面蒼白で立ち尽くした彼の前に現れたのは………
「おいコラ、食い逃げは許さんぞっ 」なんと先ほどの茶店の小豆餅婆さんだったのです。「ま、まさか………」茶店から追いついた場所までの距離は約2キロ。 餅婆さんの体力はもう超人並みといってもいいでしょう。家康公はその場で会計を済まし、食い逃げ未遂の件も万事解決しました。



そして、餅婆さんが家康公に追いつき、銭をぶん取ったところはその後銭取と呼ばれるようになりました。かつては軽便電車の駅名にもなっていたのですけど、現在はバス停にその名が残っています。 この銭取バス停でお金を払って降りると、きっと餅婆さんに小銭を請求されたような気分を味わうことができると思います。 
それから余談になりますけど、家康公はこの逃走劇の途中でお粥をご馳走になった家に感謝の意味を込めて「小粥(おがい)」という姓を、かわやを貸してもらった家には「御手洗(みたらい)」という姓を、それぞれ名乗らせたそうです。 しかし、便所を貸してあげたら「おトイレさん」呼ばわりされるハメになるなんて……… 間接的な言い回しになったとはいえ、断ることはできなかったのでしょうか?
ちなみにこれらは、浜松のほうでは有名な伝説となっています。



そして話は現在に戻ります。私はさっそく、昔から続く小豆餅のお店の御菓子司あおいの支店のほうで小豆餅を買ってきました。 自称グルメレポーターの箔にも食べさせてあげたいところなのですけど、これは人間用の食べ物なので、食べてはいけませんよ~ その代わりに私がいただくことにします。(※箔には代わりのベイトで納得してもらいました ) では待ちに待った試食タイムで~す もぐもぐ………



こ、これは………表面の餅はほど良い感じで柔らかく、餡はくどくない甘さです。さらにまぶしてある黄な粉とのアクセントもよく合っています。 とにかく美味いです ちなみにこの商品は先ほどのお店の店頭だけではなく、ネットでも取り寄せることができるようになっています。 また本店のほうは、毎年東海オフ会の会場になっているドッグラン犬の森POMさんの近くにあるので、そちらに行った際についでに立ち寄るというのも手です。

読者の皆さん、いかがでしょうか、小豆餅を食べてみたくなったでしょうか?
コメント (20)
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