波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

天空の?赤木城と街中の松坂城、あと丸山千枚田も(熊野紀行その4)

2017-04-05 01:36:04 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
私・の白黒茶々家の1人と2頭は、3話前から白黒茶々地方から遠ざかった三重県南部の熊野地方に来ております。 へげ家に1晩お世話になったあとは、さらに人里離れた山の中に入っていき、民家が1軒も見当たらないような道を進んでいきました。 ということで、今回は電車やバスのような交通の便がないような、マイカーやレンタカーなどでしか行けないところにある名所旧跡に、皆様をご案内いたします。 それから間もなくして………



熊野古道の登り口の1つが見えてきました。 熊野古道は世界遺産に登録されているのですけど、その入口は至るところにあるみたいですね。しかし、探求しだしたらかなりの時間と体力を使いそうだったので、今回はスルーさせていただきました。
さらに私は、車1台がようやく通れるような細く曲がりくねった山道を上っていきました。 対向車が来ないことを願いつつ、向かった先で私たちが行き着いた先には………



「丸山千枚田」なる看板がありました。というよりは、それは最終目的地に行く通り道にあったので、ぜひ見ておこうということになっていました。 ちなみに、こちらには車2~3台を縦列駐車できるスペースがありました。千枚田とは棚田のことで、名前からするとそいつが千枚もあるってコトですよね?しかしそれは、いくらなんでも誇張し過ぎではないでしょうか? 以前、プロ野球の観客動員数が3万人と発表されていたのが、実際には2万人にも満たなかったということがあったように、こちらも数百枚ってトコではないでしょうか?とにかく、まずは箔と波にフレーム内に入ってもらって、その棚田の風景を撮ってみることにしましょう。 そうしたら………



こうなりました。う~む……… ガードレールなどがあって、両方いっぺんに写すのは難しいですね。 そんな私たちの目の前に、広がっていた風景は………



こうなっていましたよ 綿密に数えなくても、千枚以上はありそうですね。気になるので調べてみたら、実際には1340枚もあるそうです。 それだけでも驚きの数なのに、丸山千枚田は慶長6年(1601年)の最盛期には、2240枚もあったそうです。しかし、過疎化や農家の高齢化によって棚田は衰退していき、平成に入った頃には530枚にまで減少してしまいました。それでも、その後地域住民によって、保存会を結成。棚田オーナー制度も導入されて、現在は1340枚まで復活しています。

さらにもう少し先に行ったところには、棚田を歩いて廻れる遊歩道も整備されています。 今回は春先の休耕田の状態でしたけど、これから田植えに備えて水を湛え、初夏には稲が青々と成長し、秋には黄金の稲穂が広がる風景が見られることでしょう。丸山千枚田は日本の棚田100選にも入っていて、その中でもかなり上位にランクインされているものと思われます。 実は、私は棚田と呼ばれるものは今回初めて見たのですけど、こちらは絶景でいきなりハードルを上げてしまいました。
ついでに寄ったところでついテンションを上げてしまいましたけど、これから私は、以前から気になっていたお城に向かいます。 丸山千枚田からさらに細い山道を進んでいったら………



赤木城跡が視界に入ってきました。 こちらのお城は道から見える看板だけではなく、見学者用の駐車場やトイレなども整備されています。 私は赤木城のことは少し前に、お城好きの咄家でもある春風亭昇太さんが出ていたNHKのお城の特番で初めて知りました。 彼によるとそのお城は、築城の名手として知られている藤堂高虎の城造りの原点になったところだそうです。



そうしたら、箔波ちゃと一緒にお城に登りますよ 赤木城は標高の高いところにあり、山城の部類に入ります。そういうこともあって、条件が合えば城跡は朝もやに浮かんで幻想的な天空の城となるそうです。 それでも、駐車場からは簡単に登れるので、強靭な肉体でなくても大丈夫ですよ。



間もなくして、山頂部の主郭の石垣が見えてきました。 赤木城は、天正17年(1589年)頃に先述の藤堂高虎によって、反対勢力を抑える目的で築かれたと云われています。 主郭を中心とした三方の尾根上と、裾部に曲輪(土塁や石垣によって仕切られた空間)を設ける構造となっております。



こちらは、主郭から眺めた西曲輪ですね。その一角のある尾根部分には、中世城郭の名残りがあるのですけど………



高く積まれた石垣や虎口(こぐち)があるこちらの主郭部分には、近世城郭の要素が見受けられます。 城跡は、平成元年(1989年)10月に国の史跡に指定。平成4年(1992年)から保存活動が始まり、平成16年(2004年)に城跡整備が完了しました。 以前は樹木に覆われて鬱蒼としていたそうですけど、木々が伐採され、石垣が積み直されたこともあって、現在はお城の構造が見やすくなっています。



せっかくなので、城址碑が見える虎口の石垣の上に箔と波を座らせて、写真を撮っておきましょう。 う~む、いかにも歴史犬(略して歴犬)ですね。とかなんとかやっていたら、他の見学者から「写真を撮ってもいいですか?」と聞かれました。「どうぞとうぞ」さらに「わぁ~ カワイイ」とか「白くてフワフワ 」とかいう声も聞こえてきたものですから、私はすっかり舞い上がり、天空の赤木城で天空の白黒茶々さんとなってしまいました。

赤木城は、立地だけでなく縄張りまでもなんとなく元祖天空の城の兵庫県朝来市にある竹田城に似ているのですけど、規模は小さめです。なので、ミニ竹田城と認識してくださいませ。

あとは、来た道を引き返していくだけです。 途中で大紀町にある道の駅奥伊勢木つつ木館に立ち寄ったりしながら、私たちは松阪市内に入りました。 2日目の朝に同市内にある松坂城に寄りたかったのですけど、その時は時間的に厳しかったので、帰りに余裕があったらということにしました。ちなみに現在、時間的余裕は……… もちろんありますよ



ということで、やって来ましたよ 松坂城に。 ちなみに箔波ちゃが並んでいるのは、表門跡を入ったところです。



その外側の、二の丸の石垣も高くて迫力がありますね。 今から430年以上も前の天正12年(1584年)に、蒲生氏郷はこの地方を領有することとなり、松ヶ島城に入りました。しかしそちらのお城は手狭で、立地も統治するのには向いていなかったこともあって、四五百森(よいほのもり)と呼ばれるこの地に城を築き始めました。このようにして、天正16年(1588年)に完成したのが、松坂城であります。



今度は私たちは、裏門跡にまわってみました。こちらの石垣も、見応えがありますね。



二の丸跡からは、眼下に御城番屋敷の長屋を眺めることができます。 こちらの建物は、江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷であります。現在でもそのほとんどは住居となっているのですけど、一部は見学できるように開放されています。



さらに、私たちは本丸に至る石段を上がっていき………



きたい丸と呼ばれる一角に来ました。高い石垣の上に、桜はまだですけど梅がいい感じで咲いていました。



お城の中心となる本丸の片隅には、天守台の石垣が残っていました。この上には、金箔瓦で飾られた3層の天守があったそうです。お城の完成から2年後に、氏郷は会津若松に移封となり、さらに元和5年(1619年)には、一国一城令の制度のもとで、松坂城は紀州徳川家の管轄となりました。その後、正保元年(1644年)に、台風で天守が倒壊したのですけど再建されず、他の建物も瓦葺きが茅葺きに改められるなど、簡素化。石垣は築城当時のままだったのですけど、実質お城に準じた陣屋として存続しました。



箔ちゃ、落ちないでくださいよ。
明治以降に城跡は公園となり、園内には江戸中期の国学者の本居宣長の旧宅こと鈴屋が移築された、本居宣長記念館が開設されました。さらに平成23(2011年)には国の史跡に指定され、現在に至ります。

松坂城を堪能したあと、私たちは高速道路に乗り、帰路に就きました。途中の亀山JCTで渋滞に巻き込まれ、10㎞進むのに1時間近くかかったりしたのですけど、そのあとは順調。21時過ぎには自宅にたどり着きました。
今回の旅のレポートは、当初は3話でまとめるつもりだったのですけど、4話となってしまいました。それだけ見どころ満載で地元の方たちも温かく、充実した旅だったということでご了承くださいませ。 長々と語ってしまいましたけど、読者の皆様は最後までお付き合いしてくださり、ありがとうございました。


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コメント (2)
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