こんばんは、白黒茶々です。
波狛日記はようやく4月に入りました。その最初の日曜日となる2日は、晴天とまではいかなかったのですけど、お出かけ日よりとなりました。 そうしたら前回の日記で意思表示した通り、正真正銘の今年最後のお花見に行きたいですね
とはいっても、桜の花が残っている場所は限られているので、その中から選ばなければなりません。
当初、私は愛知県にあるお城の跡に行くつもりだったのですけど、その日そこではマルシェなどがおこなわれることになっていました。
できたら混むところは避けたくて、そのような中で私が選んだところは………
候補となったN城とは逆方向の、袋井市にある久野城跡でした。 ちなみに私にとってこちらのお城は、ン十年前に1度訪れて以来となります。
久野城は、駿河(現在の静岡県中部)を本拠地としていた今川氏が遠江(現在の静岡県西部)に侵攻する拠点とするために、明応年間(1492年~1501年)に築いたとされています。 久野宗隆が初代城主となり、北条氏重の代の正保元年(1644年)に廃城となりました。
中世の平山城が、改築や増築をされつつも江戸時代初期まで存続していたなんて、スゴいことです
私たちは、お城の正面入口となる大手口から入っていき………
城跡を舐めるように散策していきたいので、北側に回りました。 その遊歩道を上っていったら………
大土塁が見えてきました。 そこの桜も見事ですね。
北の丸跡は、道路を造るために大部分が削られてしまいました。 それでもある程度は残っていて、こちらでも桜を眺めることができました。
歴代城主の館があったとされている南の丸跡。 麓の広い空間となっていて、桜の並木がいい感じですね。
「久」「野」「城」「址」という看板があるのは、登頂部に当たる本丸跡です。 そこに至る坂道にも、城跡の雰囲気がありますね。
私たちはその途中にある高見に行き着きました。 こちらは南側の見通しのいい場所で、久野城が街道を監視する目的のお城だったことがうかがえます。
そうしたら、いよいよ本丸跡に向かいますよ
その入口には、井戸がありました。 柵に囲まれているのですけど、今でも水が沸いているそうです。
籠城の際には、こちらは城兵の貴重な水源となりました。
そして………
私たちは頂上の本丸跡に行き着きました。 麓からよく見えていた看板を近くから見たら、このようになっていました。
こちらは独立した丘ということもあって、見張らしは抜群でした 東名高速道路の袋井ICから掛川ICの間を走っていると、北側にお城の全景が見えるので、運転に余裕のある方はぜひチラ見してみてくださいませ
その本丸跡は、広い空間となっています。 波と狛の後ろが北側で、やや高い地形となっています。
こちらで発掘調査をしたら、北条氏の時代に破却した跡が確認されたそうです。
これまで、久野城跡の桜と全体像を堪能することができたのですけど、せっかくこちら方面に来たので………
お城から近いといえなくもないところにある、可睡斎にも寄っていきましょう こちらは法多山、油山寺とともに遠州三山に数えられる名刹でもあります。
私たちが4年半前の前回に訪れた時には、総門は台風で倒壊していたのですけど、立派に再建されていました。
その年の春に先代犬の箔が亡くなっていたので、私と波だけでお寺の紅葉を見に来ました。 しかし、今に至るまでの間に………
ワンコ連れのマナーの問題もあって、お寺で協議した結果、ワンコ禁止となってしまいました。 この注意書きの文面からすると、ワンコだけではなく、ニャンコやフェレット、オウムの類いもダメみたいですね。
………なので今回は、本堂への景観を私1人だけで臨むことに。 その間、波と狛には駐車場の車の中で休んでいてもらいました。可睡斎は応永8年(1401年)に、恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師によって開山されました。
山号は萬松山。聖観世音菩薩を御本尊とした、曹洞宗の寺院であります。
輪蔵堂の中には、大きな輪蔵があります。 これは人力で動かすことができて、時計回りに1回転させると、大蔵経を読んだことと同じ功徳を得られるとされています。
お寺にあって、思わずグルグル回したくなる摩尼車にも通じますね。
しかし「✕遊具ではありません」という注意書きもあるので、ついやってしまった人がいるのかも知れません。
こちらは僧堂(坐禅堂)です。 可睡斎は、東海髄一の曹洞宗の修行寺でもあります。
多くの雲水(修行僧)が日夜厳しい修行に励んでいるのですけど、そんな彼らを、以前は近くに済んでいるスピッツ仲間の空君が癒していました。
彼のもふもふで、心が折れそうになった雲水たちを救ってきたのに、出入り禁止になってしまうなんて……… ううっ
さらに、秋葉総本殿の御真殿を仰ぎ見ながら、坂道を上がっていったら………
お寺の伽藍を俯瞰することができました。 実は、可睡斎は徳川家康ともゆかりがあるのですよ
11代住職の仙隣等膳和尚は、幼少のときの家康を教育をしたことがありました。
そのことが縁となって、浜松城主となった家康は和尚をお城に招きました。
ところが、そこまでの長旅に疲れたこともあって、あろうことか和尚は家康の前で居眠りをしてしまいました。
家臣たちは「なんて無礼な
」と怒ったのですけど、家康は「和尚にとっては、今でもわしは可愛い子供さ。その気持ちが嬉しいじゃないか……… ゆっくりと眠るがいいさ」と諭したそうです。
その故事から、それまで「東陽軒」という名だったこちらのお寺は「和尚、睡る可し(ねるべし)」から来る「可睡斎」と呼ばれるようになりました。
さらに、境内の山道を上っていったら………
「家康公出世六の字穴」という洞穴に至りました。 こちらは武田勢に追われた徳川家康が、身を隠して難を逃れたところと云われています。
他県で防空壕の事故があってから立ち入り禁止となっていたのですけど、最近になって開放されました。
もちろん、私と同じように洞穴好きな(?)皆さまのためにも、中に入っていきますよ
自然の地盤を素掘りして造られたのですけど、中はしっかりとしていました。 穴はまさに「6」の数字のようになっていて、LEDの照明でカラフルにライトアップされていました。
さらに、御本尊の聖観世音菩薩や徳川家御霊屋が祀られている本堂、中央の観音様に見守られている大東司(トイレ)などもご案内したかったのですけど、それらの有料ゾーンの拝観時間は終わっていました。 なので、またのお楽しみということで。
可睡斎は桜の木はあまりなくてお花見には向いていないのですけど、紅葉のほうは見応えがあります。 私が波と来たのは、その時季でしたし。
いきさつ上、最後は桜で締めることはできなかったのですけど、波狛日記のお花見シリーズはこれにてお仕舞いとなります。
ちょっと遅めの春の宴の報告に最後まで付き合ってくださり、ありがとうございました。