2014年3月30日(日)
今回、屋外(屋根付きですが)実物の見学を後回しにしました。実物を取り巻くようにしているギャラリーが少しでも退館して撮影し易くなると思ったからです。が閉館まで20分を切っても車両の周りは人だかりです。とはいえ、早い時間帯はもっと混雑していたと思います。
本日、一番見たかったのはキハ81-3特急型気動車です。タブレット授受の為、運転台の高さが低く抑えられたため電車特急のボンネット車と比べると鼻が短く平たい顔に見えます。<ブルドッグ>というあだ名はうなずけます。1960年生の50年選手ですが、日本初のディーゼル特急として東北線特急<はつかり>として活躍した後、最後は流れ流され紀勢線特急<くろしお>として余生を過ごしました。私は小学生の頃一度だけ和歌山駅で走り去る姿を目撃しました。今でもその時のことを鮮明に覚えています。その特異なスタイルはインパクトがありました。うれしい事に、今日は室内に入れます。
現在の水準からみると野暮ったく、またリクライニングもせず、座席間もせまい窮屈なシートで、この座席で上野-青森間を10時間以上過ごすのは、現在の私から見れば<勘弁してよー…。>という感じですが、デビュー当時は<超デラックス!>という感じだったのでしょう。特筆すべき事に、この車両の客室と入口の間に売店が設置されています。当時の特急列車に対する考え方が、現在とはまるで違っていたからでしょう。この野暮ったくも、愛すべき車両は、おそらく京都の新博物館に移っていくでしょうが、いつまでも美しい状態を保って欲しいものです 。
反対側には湘南電車80系が顔を出しています。旧型国電として最後まで活躍していましたが、先頭車はモデルチェンジじた2枚窓の方がポピュラーで、初期グループの3枚窓は地味な存在でした。皮肉なことに現在保存されているのはこの3枚窓車のみです。とはいえ電車での長距離運転という世界の常識に挑戦したエポックメイキング的車両であることに間違いなく、この電車の成功が後のこだま型特急や新幹線に繋がるのだと思うと、感慨深いものがあります。
他にも観たいものはたくさんありますが、これだけは外せない車両があります。DD54ディーゼル機関車が保存してあるはずです。不運の機関車と呼ばれたり、国鉄の技術開発における黒歴史の一つと扱われたりして本来は、関係者にとっては忘れてしまいたい車両なのですが、数奇な運命でここに保存される事になりました。今回こそ対面したいと思っています。ところが本館横の屋外展示スペースには、朱色の機関車の姿はありません。残り時間は10分を切っています。すぐ傍にいた職員さんに「DD54はどこに置いてありますか?」と尋ねたところ、若い職員さんは「何のことですか?」と要領をえません。おそらく閉館フィーバー対策で他部署から応援に来た方なのでしょう。若い方なら、DD54なぞ知る由もないのでしょう…。若い職員さんは長い沈黙の後、「あのー、ディーゼルの事ですか?それなら第二展示場にあります。ここから専用通路を上がって道路を跨いだ向う側にあります。もう閉館まで時間がないので急いでください。」
忠告に従い、本館わきの階段を駆け上り、専用の陸橋で公道を横断し離れ小島の様な第二展示場に到着します。そこは国鉄ディーゼル機関車のパラダイスと言っていいエリアです。DD13とDF50が仲良く並び、奥にDD54が静かに休んでいます。
小さな屋根の下で窮屈そうです。がドイツ風の洒落た[く]の字のマスクは精悍で惚れ惚れします。この洗練されたデザインは、現在でも少しも陳腐化していません。ここに居る33号機はブルトレ牽引機で、ヘッドマーク取り付け金具と20系客車連結用エアホースが付いています。もし<出雲>のヘッドマークを付けていただけたら、狂喜乱舞するところです。現役時代はあまりのトラブルの多さに<ずっこけ機関車>と揶揄されたDD54です。戦後、様々な分野で日本の技術が発展していきましたが鉄道用ディーゼル機関については、必ずしも世界水準に達してはいませんでした。そんな中、西ドイツの技術と日本の技術とを合わせた亜幹線用機関車として華々しく登場したのですが、製造から平均7年で全車リタイアしてしまいました。明らかな失敗作とされてはいますが、技術面以外の当時の労使問題等の事情も引退を早める要因であったようです。そういう意味では悲運の機関車なのでしょう…。 ここで、閉館の案内が流れ始めます。朱色の機関車達にお別れを言います。<2年後に京都でまた会いましょう…。>
閉館時間となり、さすがに展示車両をを囲む人々は嘘のように消えてしまっています。そして、来週のこの時間にはこの<交通科学館>も嘘のように消えてしまうのでしょう。
さよなら<交通科学館>…。
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