しょぼい毎日

いつも理想はでっかいが、結果はしょぼい・・・。そんな日常を綴ってみました

しょぼい映画日記<ゴーストライター>

2011-12-31 23:05:23 | 映画

2011年12月18日(日)

久しぶりに松山にやって来ました。本日観た映画<ゴーストライター>は、ネットの評判が良いようなので見たいと思っていましたが、気が付けば阪神地区では上映されておらず、近場では岡山、松山まで行かないと観れない状況になっていました。今回は松山市内にあるお蕎麦屋さん<無着庵>の《だし巻き玉子》が食べたくなったので、距離的には岡山よりも遠い松山を選択。濃厚な出汁の効いたアツアツの《だし巻き玉子》をお口にほうばると、厭な事も一瞬忘れられます。味が濃いのでお酒のあてにピッタリですが、車で来ているので我慢・・・・。

映画は松山市中心部の<サンシャイン大街道>。

otello2011-07-13予備知識無しに見た映画でしたが、話がしっかりしており、最後までじっくり見せて頂きました。

冒頭、荒天のフェリーボート車両甲板から物語は始まります。港に着いた船には、運転手のいない車が一台だけ寂しく取り残されるところからスタート。この冒頭シーンが終盤生きてきます。フェリーで本州と行き来した事のある四国で育った私には引きこまれる導入部です

ユアン・マクレガー演じる主人行は、引退した元英国首相(ピアース・ブロスナン=5代目ジェームス・ボンド)の自叙伝を本人になり代って執筆するためにアメリカ東海岸の陰鬱な孤島にやってきます。前任者が居ましたが事故で亡くなったとの事。仕事を続けるうちに元首相の若かりし頃の経歴について疑問が出てきます。現在の首相の周辺にもスキャンダルが発生し、同時進行で閉そく状態の中で主人公は謎が謎を呼ぶ状態に困惑してしまいます。遂には前任者が何かを調べていた糸を辿り、英国・米国現代史の闇に手を入れてしまいます。本人の意思とは別にどんどん深みにはまってしまう姿は、派手なアクションはありませんが、丁寧なつくりで楽しめました。

全体的にヒッチコックの映画へのオマージュが感じられ、一連の映画が思い出されました。でも真実が分り、めでたしめでたしで終わるのかと思えば・・・・。けど、こんな皮肉な終わり方でも私は構わないです。

ここしばらく、癖のある映画ばかり見ています。来年は明るい、映画らしい映画も見ていきたいと思います。そんな映画が来る事を願って・・・・。


J南高校映画部OB会戦場へ!(4)岐阜基地航空祭2011

2011-12-30 23:03:38 | 映画部OB会行事

Photo 2011年11月27日(日)

うす曇り。この季節、美濃地方は荒天が多いらしく、これでも好しと思うべきなのでしょう・・・。宿を出て各務原市にある航空自衛隊岐阜基地へ向かいます。昨日は戦国時代の戦場に。今日は、現在の戦場?にやってきました。本日は航空祭。基地の周辺は来場者で混雑しています。車を基地近くでとめる事は諦め、金目校長と人間ミサイル氏は離れた場所に駐車する為、残りのメンバーを基地近くでおろし去って行きました。車の2人は折りたたみ自転車で基地に駆けつける予定です。車を降りた3人はコンビニでレギュラーコーヒーを入れてもらいました。店の前で朝の一杯をいただいていると、低空飛行のF2が突然、影を落とします。次の瞬間、大音響と衝撃で辺りが揺れます。衝撃でコンビニに駐車していたレクサスの盗難防止装置がわんわん鳴り出し、我々の手にした紙コップからコーヒーが、こぼれる・・・。<これがソニックウェーブ?>

周辺にいた人も、誰もが何故か苦笑い・・・。何か期待出来そうな、何か起こりそうな不安を抱いて、南地区側から基地に入場します。

阿波影、江戸紫褒太郎両氏はシャトルバスに乗って地上展示機がありメイン会場となっている北地区を目指します。私のみ、南地区に残ります。南地区には引退したF104等の懐かしい機体こそ多くありますが、それ以外はほとんど見るものがなく、少々退屈な場所かもしれません。が、このエリアに多くのカメラマンが集結しています。砂糖に群がる蟻のように・・・。光線状態から、飛行中の機体の撮影にはこのエリアが適しているから・・・。そして私も蟻の一匹としてその瞬間を待ちうけます。この基地は航空自衛隊で運用する航空機等の試験を行う部隊、飛行開発実験団を擁している為、航空自衛隊で運用しているほとんどの機種を観る事が出来ます。戦闘機ばかりでなく輸送機や空中給油機等も低空で飛んでくれます。早速に撮影開始・・・。半年前に買ったタムロン望遠ズーム、SP 70-300mm A005の実力を試す時が来ました。ちょうど東方から空中給油機がF15とF2を従えゆっくりと近づいて来ます。シャッターを切ります。が、最初のシャッター音がした後に、軽快なシャッター音は聞こえてきません。連写モードにしているにも関わらず・・・・・。

F1001257  恐れていた事態が最悪のタイミングで起こってしまいました。40Dの液晶モニターには<Err99 撮影できません。電源スイッチのOFF→ONN、またはバッテリーを入れ直してください。>とのメッセージが・・・。ガイドの指示に従い、電源スイッチのOFF→ONNを実行したところ1枚づつ撮影出来る事が判明。気を取り直して先ほどの編隊を追いかけますが、すでに視界から遠ざかりつつあります。そしてさらに恐ろしい事が判明しました。以前から、突然シャッターが切れなくなるトラブルに何度か2_2見舞われましたが、その度に電源スイッチのOFF→ONNで回復してきました。が、現状では、1枚とる度にOFF→ONN操作が必要である事が・・・。これからブルーインパルスの飛行が控えていると言うのに。せっかくの望遠ズームが・・・、せっかくの好天(比較的)が・・・。せっかく、遠路はるばるやって来て、カメラがダメになるなんて・・・・。これは昨日、阿波影氏が関ヶ原で不謹慎な歌を詠んだせいに違いない・・・

Img_9187←嗚呼、せっかくの展示飛行も、シャッターチャンスを逃すばかり・・・。

現在北地区に居る阿波影氏のせいにしてしまいます。あの不敬な歌を詠んでからろくなことがありません。阿波影氏の自転車のチェーンは外れる、車は故障する、江戸紫褒太郎氏は元気を無くす、等々・・・。

とは言え、実際はしばらく前から出ていた小さなエラーを過小評価して、対策を怠った私の責任なんですが・・・。でも、<よりによってこんな大事な時に、これは無いよなア・・・>

と言葉にならない悲鳴を上げます・・・。

最悪の状態でしたが電源スイッチのOFF→ONNを繰り返しで、ブルーインパルスの飛行この難局を乗り切ります。1シャッターの重みをひしひしと感じます。

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正直、連写モードでないと高速で飛行する機体を追う事は出来ません。撮影については散々でしたが、これを機会に機材の手入れにも気を配りたいと思います。嬉しかったのは、北エリアで合流した皆さんがブルーインパルスの飛行を結構喜んでくれた事です。特に阿波影氏は記念パンフやT4のモデル等のお土産げを買い込み、満足感を全身から発していました。

まだまだ展示飛行は残っていましたが、基地をあとにして家路に急ぎます。1泊2日の短い旅ではありましたが、自転車万歳、悲喜交々、美食探求、歴史再発見等、思い出深いものとなりました。帰りの車内では恒例の来年のOB会旅行の旅先について、喧々諤々と議論が交わされていきます・・・。


J南高校映画部OB会戦場へ!(3)岐阜の城下で信長と飛騨牛に出会う

2011-12-28 23:31:04 | 映画部OB会行事

Img_9067 2011年11月26日(土)

いよいよ、陽も傾き始めました。わずか半日程の時間でしたが、駆け足で関ヶ原の戦いをなぞる事が出来ました。まだまだ行きそびれた史跡も多いのですが、自転車ツアーはそろそろお仕舞いです。一同、起点となった歴史民俗資料館に戻ります。

自転車を返却し終えて、皆の所に戻ってみると、皆不安気な表情を浮かべています。我々が乗ってきたハイエースの直下に小さなオイルのしみが・・・・。どうやら車体から漏れ出ている様です。JAFに電話して、見に来てもらう事に。到着まで時間が掛かるようなので一同民俗資料館に入館し、展示物を見せて頂きます。小振りな資料館ですが、結構楽しめます。ここの解説は明らかに石田光成よりで、家康については、辛口な記述が目立ちます。敗者が悪い様に言われるのは、世の常ですので、あながち的外れとも言えませんが、NHKの大河ドラマ史観に毒された私から見れば、多少違和感を憶えましたが新鮮ではありました。展示されていた劇画チックな家康の肖像画からは、どす黒い欲望が滲み出し、背景は悪魔の放つオーラが渦巻いています。一方の光成はそれに対抗する正義の人という画で知性あふれる表情を湛えています。ここまで扱いに差があれば少し引いてしまいます・・・。とは言え、光成の居城佐和山と関ヶ原は距離的に近く、領地経営も上手くいっていたことから、関ヶ原近辺の人は親近感があるのでしょうか?それに、西軍に協力した地元民に対し、戦闘後に東軍がひどい扱いをした様で、その時の遺恨が伝えられているのでしょうか・・・。西軍に対する温かい思いImg_9073と、一方的な肩入れがある様に感じます。

この季節、民俗資料館は4時半閉館してしまいます。まだ明るいので次から次へと何も知らない観光客が訪れ、閉館を知りショックを受けて帰っていきます。よその町の施設とは言えどうにかならないものかと思います。施設は閉館してしまいましたが、外にはたくさんの女性たちが武将姿の若者たちを取り巻いています。武者姿をした若者達は<関ケ原東西武将隊>と言い町?の観光事業の一環としてイベントや観光ガイドに活躍している様です。我々も昼間、いくつかの陣跡で活躍する武将たちを目撃しました。各武将イケメンをそろえている様で 各武将ごとに追っかけする熱心なファン達で宝塚状態です。各武将たちも記念写真やらサインやらファンサービスに務めています。またファン同士での情報交換なんかで、異常な熱気があたりを覆っています。そんな賑やかな状態も武将たちが自転車で帰宅?すImg_9080 ると同時に潮が引くImg_9084 ように静かになりました。

気が付けば広い駐車場には我々の姿の他は見えません。あたりが暗闇に染まる直前、JAFのトラックが到着。我々すべてがサンダImg_9091 ーバード<救援隊>到着とばかり喜びますが、JAFのおじさんはハイエースのシートを上げてエンジン廻りを確認し<レッカーで移動して、調べてみます・・・>との無常の宣告。金目校長と阿波影氏は、ハイエースにつき添い自動車工場へ。残る3人はJAFのトラックに乗りきれないので電車で移動する事に。やがてハイエースの巨体はウインチでトラックの荷台に引き上げられ、売られて行く黒牛の様に我々の視界から消えていきました。

Img_9104 電車組がJR岐阜駅についた頃、ハイエースの応急処置が済んだのでこれから合流するとの連絡が。JR岐阜駅前でハイエース組を待ちます。駅前広場には当地の英雄<信長>の立派な黄金像がライトアップされています。戦国の世を終わらせた関ヶ原に至る道筋の始まりには、この人がいました。信長は本能寺以降の流れをどう思っているのか?直系の子孫は遂に歴史の主流に乗る事が出来なかった事?自分の部下達が争い、自分の考えたのとは違う歴史をつくった事をどう思っているのか・・・・。聞いてみたい事がたくさんあります。今にも黄金像が口を開きそうな気がしてきました。が、返ってくる言葉は<このうつけ者!手打ちにいたす>と言われそうな気がしますが・・・・。やがてハイエース組との合流が叶い、我々5名はそろって本日のお宿、長良川温泉<きんか>に向かいます。到着予定に相当遅れてしまいましたが、宿のスタッフは温かく迎えてくれました。早々にImg_9125 Img_9130 夕食をいただきます。まずはビールで乾杯の後、次から次へと出される前菜をいただきます。それらのグレードの高さに圧倒されてしまいます。おかげでメインの飛騨牛が出てきた頃には満腹状態でしたが、ステーキ一切れを頬張ってみると、その脂と肉の絶妙のバImg_9137 ランス、風味、柔らかさに思わず笑みが浮かびます。口の中でお肉が解けていく感じが何とも言えない・・・。これは凄いぞ!心の中で叫びます!中居さん曰く<肉質は5等級に匹敵します>との事。皆さん、昼間の疲れも忘れて、おそらく今年食べた中で最高の牛肉の味を楽しんでいます。

こうして、色々あった岐阜の夜も更けていきます。


J南高校映画部OB会戦場へ!(2)関ヶ原で男の友情とそば湯を知る

2011-12-23 23:11:41 | 映画部OB会行事

2011年11月26日(土)

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空は晴れ、我らの北東方向には、うっすらと雪化粧した伊吹山がそびえ立ちます。少々寒いですが、絶好のサイクリング日和です。他の参加者の高性能な自転車に負けないようにレンタルのママチャリで追いかけます。

【第六の跡】宇喜多秀家の陣跡

Img_9041

Img_9038自動車の通れる道を折れ、森の中の落ち葉に敷き詰められた未舗装の小道を行くと小さなお宮の傍に西軍副大将宇喜多秀家の陣跡がありました。町が立てた小さな解説の札を見て私が

意外に感じたのが、<敗走中に村人に助けられ、八丈島に流され八十三歳まで生き延びています>との一文でした。「西軍の大名で敗走した大名は島津以外は全員捕えられで刑死したんじゃなかったの?」と呟くと、江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「助命してくれた人がいましたから・・・。」こういう時私のiPadより素早く知りたい事を教えてくれる江戸紫氏です。恐るべし・・・・。実際、旅行から帰って宇喜多秀家の関ヶ原以降の人生を調べてみると、私が知らなかった事実ばかりでした。秀家が敗走後に伊吹山山中で地元の猟師矢野五右衛門に出会い匿われ、大坂に脱出し、さらに薩摩に逃れ、遂には徳川に身柄を渡され、最期は八丈島に流されて行く話はドラマチックです。ドラマ化すれば大河ドラマ<江>よりは面白いものになるかも・・・。でも1年間は持たないでしょうね。特に八丈島に流されてからの50年間はしょぼい話になるでしょうから・・・。

【第七の跡】大谷吉継の墓と陣跡

宇喜多秀家の陣跡から大谷義継ゆかりの場所は直線距離では近いのですが、自転車では通れないという事でかなり遠回りとなりました。私的には、東海道本線と並走しながら自転車を漕ぎましたので、楽しいひと時であり、貨物列車と遭遇した際は、このまま同行者に別れを告げ<僕は、これから写真を撮るので、別行動します>と口に出してしまいそうな気分でした。市街地からだいぶ西方に目的の大谷義継ゆかりの地があります。が、そこは自転車では近づけない場所になっています。一同、馬ならぬ自転車を下り、急な坂道を徒歩で登っていきます。

Img_9045この先に何が待っているのかよく分らないままひたすら前進する江戸紫褒太郎氏の後をついて行くと、突然視界が開け何かの史跡が現れます。立て札には大谷吉継の墓とあります。病ゆえの異形の戦国大名として知られる大谷吉継がここで自刃したとあります。大谷吉継自身は、聡明で石田光成に勝ち目の無い事は充分承知していましたが、親友(戦国時代にはあまり無かった概念みたいですが)三成が起つのに殉じ、行動を共にします。そんな大谷吉継の墓には、現在でも花が手向

けられ、彼の生き様がImg_9049 人々の心を打ち続けている事が分ります。お墓から少し南に山道を行くと大谷吉継の陣跡に出ます。木々が生い茂り、必ずしも眺めは効きませんが、近くを走る新幹線の走行音だけが、風に乗り陣跡を通り過ぎます。大谷吉継は、この丘で正面に東軍主力と対峙し、南面にはあらかじめ裏切りを予想していた小早川を睨んで闘いに臨みました。家康に鉄砲を打ちこまれ裏切りを促された小早川は、大谷の陣に襲い掛かりますが、兵力では劣る大谷勢ではありますが、怒りという最強のモチベーションを持った大谷軍により、跳ね返され、甚大な被害をこうむります。ところが本来は小早川に対抗する為に前衛に陣した脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、突然反転し、大谷勢の側面に襲いかかってきました。これを境に大谷勢は、壊滅状態となり、善戦していた西軍は総崩れとなります。もし、脇坂らの予想外の裏切りが無ければこの関ヶ原の戦に関しては、違った結末になっていたかもしれません。皮肉なことに裏切った4人のうち、2人は戦後改易にされています。。戦後の論功行賞の際、家康は裏切った朽木に対して<あんな(小さな)奴、裏切っても大勢に関係ない>と言い捨ててています。けれど、後の眼から見ればこの人たちの功績大なんですが・・・・。裏切り者の運命はデビルマン?もそうですがろくなものではない・・・。けど小心者の私には、彼らの気持ちも分らなくは無いし・・・・。歴史は奥深い・・・。

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大谷吉継の陣を下りると、大きな碑を発見。平塚為広の碑です。脇坂ら小心もの達の裏切りにより敗死を覚悟した為広が、大谷吉継に送った辞世の句<名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば>が刻まれています。この歌を受け取った吉継は「私も自害して、あの世で再会しようぞ」と言い、次の様な歌を返したそうです。契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも>。この生々しくも、美しい句を前にして、J南映画部の面々はそれぞれが、物思いに耽っておりましたが、阿波影氏が突然「一句浮かんだ!」と自作の歌を詠みあげます・・・。それは残念なことに何十年・何百年と語り継がれるべきものではなく、冷えた関ヶ原の大地に5人の渇いた笑いを響かせただけでした。「先輩!それって川柳ですよ・・・・。」と突っ込みを入れると、一同、自転車にまたがり、市街の方に向かいます。

Img_9055 市街地に入ると阿波影氏が突然車列から脱落。一体何が・・・・。私と人間ミサイル氏が駆け寄り、チェーン系のトラブルに遭って自転車を倒して悪戦苦闘している阿波影氏を見守ります。「先ほどの歌がいけなかったのだろうか・・・。ばちが当たったんやろか?」と阿波影氏が珍しく弱音を吐きます。「そんなの関係無いです」と言いながら、3人がかりでいろんな場所をいじっているうちにトラブルは解消していました。大谷吉継の友情には敵いませんが、部活の絆は今でも生きていると感じた瞬間でした。でも阿波影氏の歌の呪いは、この後もJ南高校映画部OB会一行の行くF1001215_2 F1001214手に影を落としていきます・・・。

時間は午後2時を過ぎようとしています。遅くなりましたが昼食とします。歴史民俗資料館
で教えて頂いた<そば処 幸山 関ヶ原店>に入ります。麺に充分なこしがあり、予想以上の出来です。でも蕎麦以上に我々を魅了したのがポタージュスープの様に濃厚なそば湯で した。これほどのそば湯があるとは・・・・。今回も子育てのため参加できない、そば湯が大好きな映画部同期(サングラスの殺し屋こと)T次氏にも味わってほしかった・・・・。どうも、大谷吉継ゆかりの地を巡ると友の事が気になる様です。

お腹も膨れ、元気を取り戻したところで後半戦スタート!と行きたいところですが、陽も傾いてきました。先を急ぎます。これからは、東軍ゆかりの地を周ります。

Img_9058 【第八の跡】本多忠勝陣跡

徳川四天王の中でも特に武勇で知られる本多忠勝の陣は、新幹線と在来線に挟まれた関ヶ原町市街の中にあります。普通の民家の裏庭と言ってよい場所に小さな祠と石碑がさりげなくあります。今までの陣跡の様な闘いの場という雰囲気では無いので、我々も多少気持ちが緩んでいましたが、江戸紫褒太郎氏だけは、無駄口をたたく事も無く真剣に石碑に向かいあい、そして撮影しています。本当に歴史好きなんだと感心します。

【第九の跡】松平忠吉、井伊直政陣跡と東首塚跡

Img_9062 JR東海道線の線路北側に出ます。鎮守の森と言ってもよい大木の繁る一帯が東軍先鋒となった松平忠吉、井伊直正陣跡です。陣跡を示す看板が無ければ、どこにでもある神社の敷地だと思ってしまいます。二代将軍秀忠の弟松平忠吉は、この戦いの傷がもとで(異説あり)数年後28歳の若さで亡くなっています。井伊直政も島津軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節に命中し、落馬して大きな傷を負ってしまいます。戦後処理に色々と活躍したものの、この時の傷やら心労で2Img_9061 年もたたないうちに無くなります。勝ち組といえども、その運命は必ずしもバラ色では無い様です。そしてこの陣のすぐ横が戦死者を埋葬した2か所ある塚の一つ、東首塚です。この地で合戦で討ち取られた西軍の将の首は、家康自身により首実検されたと言います。またここの井戸で首を洗ったとの事。闘いの直後は凄惨な光景が繰り広げられたのでしょう。今でこそ静かで平和な光景がひろがっていますが・・・・。

いよいよ、陽も傾き始めました。わずか半日程の時間でしたが、駆け足で関ヶ原の戦いをなぞる事が出来ました。まだまだ行きそびれた史跡も多いのですが、自転車ツアーはそろそろお仕舞いです。一同、起点となった歴史民俗資料館に戻ります。


J南高校映画部OB会戦場へ!(1)自転車で巡る決戦地

2011-12-23 23:10:36 | 映画部OB会行事

2011年11月26日(土)

阿波影氏よりメールが着信。メッセージは<武士(もののふ)参集せよ!>です。この檄文に応える為、我らJ南高校映画部OB会の面々が各自夜明け前に家を出て集まります。目的地は<関ヶ原>。毎年恒例のJ南高校映画OB会旅行ですが、今回は関ヶ原古戦場跡サImg_8978イクリングツアーという事で、各自自慢の折りたたみ自転車を持ち込んでいます。神戸で岡山か ら来た金目校長のハイエースに車を乗り越え名神高速を東へと向かいます。関ヶ原ICを11時前に下り、まずは、関ヶ原町民俗資料館に立ち寄ってもらいます。今回の参加者で唯一、自前の自転車を持ち込めなかった私が、レンタサイクルを借りられるようにとの配慮で、ここを起点に東西武将の陣跡を観て廻ります。私が民俗資料館内で手続きをしている間、各自自分の愛馬?(自転車)の準備をします。各自準備が整い、いよいよ出発となります。

このツアーに参戦するのは【コード名】以下、阿波影氏、金目校長、人間ミサイル各先輩と私こと依頼人、そしてこのツアーのキーとなる後輩の江戸紫褒太郎氏の5名です。

【第壱の跡】決戦地跡

戦国史に詳Img_8986 しい江戸紫褒太郎氏の先導で北東方向にある、田んぼの中の小さな丘を目指します。大きな旗と決戦地と刻まれた石碑が立っています。ここは関ヶ原の闘い最終局面で、劣勢となった三成の首を狙おうとする東軍諸隊との激しい闘いが繰り広げられた場所だといいます。今の光景からは、そんな血なまぐさい事があった場所とは思えませんが、各自、遥か昔のその決戦の刻に思いを巡らせています。

【第弐の跡】石田三成の陣跡

Img_8999 Img_9003 すぐ北側に見える笹尾山の中腹に石田三成の陣があります。ひと足早く関ヶ原に到着した三成が付近を一望出来る有利な場所に陣を設けた事が良くわかります。布陣だけを見れば西軍が有利な事が現地を見てよく判るといった感じです・・・。

【第参の跡】島津義弘陣跡

Img_9013 笹尾山から南に下り、自転車で走るには打ってつけな細い道を走り始めると、林の中に島津義弘陣跡が静かに佇んでいます。西軍の敗色が濃厚な中、島津義弘は東軍の度肝を抜く<敵中突破>を行います。撤退時に、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという<捨て奸>と呼ばれる戦法を採り、敵側にも大きな損害を与えました。もちろん自軍の損害はすさまじく撤退時300人いた兵で薩摩に戻れたのは80人程度だといいます。これにより薩摩の強さを家康に見せつけ、戦後処理を有利に進める事が出来、領地を安堵することが出来ました。この場合、退却戦の犠牲も無駄ではなく、ここで家康が薩摩を潰せなかった事が、270年後の倒幕へと繋がっていく・・・・この戦いでの忘れがたいエピソードとなっています。

【第四の跡】開戦地跡

Img_9023 島津義弘陣跡から少し西南方向に走ると、開戦地跡に出ます。いきなり時計は戻りますが、この地で福島正則が宇喜多秀家陣地に鉄砲を打込んだのが、関ヶ原の戦いの始まりでした。時に慶長五年9月15日。時刻は朝の8時頃でしょうか・・・。

【第五の跡】小西行長陣跡

Img_9026 開戦地跡とほぼ隣接していたのが小西行長陣跡。小西行長の名前は私が子供のころ熱心に見ていたNHK大河ドラマ<黄金の日々>で現 松本幸四郎演じる主人公の呂宋助左衛門の親友でした。小野寺昭演じる行長は文治派=良心派大名という役柄だったと思います。こんないい人(ドラマの中では)でも闘いに破れて首を打たれてしまいました・・・。ここまで西軍の陣中心に巡って来たので「西軍に勝たせてやりたかったですね・・・」と呟きます。

すると、それを聴いた金目校長が諭すように語ります。「西軍が勝っていたら、その後の日本はとんでもない事になっていたやろ?」鎖国は無かった→キリスト教勢力増大→内乱→ヨーロッパの植民地→途上国)と言われ、<そうなのか。東軍が勝って良かったんだ・・・・。>と考えを改めます。

Img_9030 すると江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「そんな事はありません、あの当時の日本は、世界一の戦闘員と銃の数を有していました。少なくとも陸戦においては、負ける訳ありません。植民地になることは無いでしょう。」とキッパリと言われます。それを聞いて、<そうか、それなら西軍に勝たせてやりたかったな>と意見を変える頼りない自分がいました。

とにかく現地に来て・見て・感じてはじめて判る事がたくさんあります。古戦場跡を巡るサイクリングツアーはまだまだ続きます。