2011年11月26日(土)
空は晴れ、我らの北東方向には、うっすらと雪化粧した伊吹山がそびえ立ちます。少々寒いですが、絶好のサイクリング日和です。他の参加者の高性能な自転車に負けないようにレンタルのママチャリで追いかけます。
【第六の跡】宇喜多秀家の陣跡
自動車の通れる道を折れ、森の中の落ち葉に敷き詰められた未舗装の小道を行くと小さなお宮の傍に西軍副大将宇喜多秀家の陣跡がありました。町が立てた小さな解説の札を見て私が
意外に感じたのが、<敗走中に村人に助けられ、八丈島に流され八十三歳まで生き延びています>との一文でした。「西軍の大名で敗走した大名は島津以外は全員捕えられで刑死したんじゃなかったの?」と呟くと、江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「助命してくれた人がいましたから・・・。」こういう時私のiPadより素早く知りたい事を教えてくれる江戸紫氏です。恐るべし・・・・。実際、旅行から帰って宇喜多秀家の関ヶ原以降の人生を調べてみると、私が知らなかった事実ばかりでした。秀家が敗走後に伊吹山山中で地元の猟師矢野五右衛門に出会い匿われ、大坂に脱出し、さらに薩摩に逃れ、遂には徳川に身柄を渡され、最期は八丈島に流されて行く話はドラマチックです。ドラマ化すれば大河ドラマ<江>よりは面白いものになるかも・・・。でも1年間は持たないでしょうね。特に八丈島に流されてからの50年間はしょぼい話になるでしょうから・・・。
【第七の跡】大谷吉継の墓と陣跡
宇喜多秀家の陣跡から大谷義継ゆかりの場所は直線距離では近いのですが、自転車では通れないという事でかなり遠回りとなりました。私的には、東海道本線と並走しながら自転車を漕ぎましたので、楽しいひと時であり、貨物列車と遭遇した際は、このまま同行者に別れを告げ<僕は、これから写真を撮るので、別行動します>と口に出してしまいそうな気分でした。市街地からだいぶ西方に目的の大谷義継ゆかりの地があります。が、そこは自転車では近づけない場所になっています。一同、馬ならぬ自転車を下り、急な坂道を徒歩で登っていきます。
この先に何が待っているのかよく分らないままひたすら前進する江戸紫褒太郎氏の後をついて行くと、突然視界が開け何かの史跡が現れます。立て札には大谷吉継の墓とあります。病ゆえの異形の戦国大名として知られる大谷吉継がここで自刃したとあります。大谷吉継自身は、聡明で石田光成に勝ち目の無い事は充分承知していましたが、親友(戦国時代にはあまり無かった概念みたいですが)三成が起つのに殉じ、行動を共にします。そんな大谷吉継の墓には、現在でも花が手向
けられ、彼の生き様が 人々の心を打ち続けている事が分ります。お墓から少し南に山道を行くと大谷吉継の陣跡に出ます。木々が生い茂り、必ずしも眺めは効きませんが、近くを走る新幹線の走行音だけが、風に乗り陣跡を通り過ぎます。大谷吉継は、この丘で正面に東軍主力と対峙し、南面にはあらかじめ裏切りを予想していた小早川を睨んで闘いに臨みました。家康に鉄砲を打ちこまれ裏切りを促された小早川は、大谷の陣に襲い掛かりますが、兵力では劣る大谷勢ではありますが、怒りという最強のモチベーションを持った大谷軍により、跳ね返され、甚大な被害をこうむります。ところが本来は小早川に対抗する為に前衛に陣した脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、突然反転し、大谷勢の側面に襲いかかってきました。これを境に大谷勢は、壊滅状態となり、善戦していた西軍は総崩れとなります。もし、脇坂らの予想外の裏切りが無ければこの関ヶ原の戦に関しては、違った結末になっていたかもしれません。皮肉なことに裏切った4人のうち、2人は戦後改易にされています。。戦後の論功行賞の際、家康は裏切った朽木に対して<あんな(小さな)奴、裏切っても大勢に関係ない>と言い捨ててています。けれど、後の眼から見ればこの人たちの功績大なんですが・・・・。裏切り者の運命はデビルマン?もそうですがろくなものではない・・・。けど小心者の私には、彼らの気持ちも分らなくは無いし・・・・。歴史は奥深い・・・。
大谷吉継の陣を下りると、大きな碑を発見。平塚為広の碑です。脇坂ら小心もの達の裏切りにより敗死を覚悟した為広が、大谷吉継に送った辞世の句<名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば>が刻まれています。この歌を受け取った吉継は「私も自害して、あの世で再会しようぞ」と言い、次の様な歌を返したそうです。<契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも>。この生々しくも、美しい句を前にして、J南映画部の面々はそれぞれが、物思いに耽っておりましたが、阿波影氏が突然「一句浮かんだ!」と自作の歌を詠みあげます・・・。それは残念なことに何十年・何百年と語り継がれるべきものではなく、冷えた関ヶ原の大地に5人の渇いた笑いを響かせただけでした。「先輩!それって川柳ですよ・・・・。」と突っ込みを入れると、一同、自転車にまたがり、市街の方に向かいます。
市街地に入ると阿波影氏が突然車列から脱落。一体何が・・・・。私と人間ミサイル氏が駆け寄り、チェーン系のトラブルに遭って自転車を倒して悪戦苦闘している阿波影氏を見守ります。「先ほどの歌がいけなかったのだろうか・・・。ばちが当たったんやろか?」と阿波影氏が珍しく弱音を吐きます。「そんなの関係無いです」と言いながら、3人がかりでいろんな場所をいじっているうちにトラブルは解消していました。大谷吉継の友情には敵いませんが、部活の絆は今でも生きていると感じた瞬間でした。でも阿波影氏の歌の呪いは、この後もJ南高校映画部OB会一行の行く 手に影を落としていきます・・・。
時間は午後2時を過ぎようとしています。遅くなりましたが昼食とします。歴史民俗資料館
で教えて頂いた<そば処 幸山 関ヶ原店>に入ります。麺に充分なこしがあり、予想以上の出来です。でも蕎麦以上に我々を魅了したのがポタージュスープの様に濃厚なそば湯で した。これほどのそば湯があるとは・・・・。今回も子育てのため参加できない、そば湯が大好きな映画部同期(サングラスの殺し屋こと)T次氏にも味わってほしかった・・・・。どうも、大谷吉継ゆかりの地を巡ると友の事が気になる様です。
お腹も膨れ、元気を取り戻したところで後半戦スタート!と行きたいところですが、陽も傾いてきました。先を急ぎます。これからは、東軍ゆかりの地を周ります。
【第八の跡】本多忠勝陣跡
徳川四天王の中でも特に武勇で知られる本多忠勝の陣は、新幹線と在来線に挟まれた関ヶ原町市街の中にあります。普通の民家の裏庭と言ってよい場所に小さな祠と石碑がさりげなくあります。今までの陣跡の様な闘いの場という雰囲気では無いので、我々も多少気持ちが緩んでいましたが、江戸紫褒太郎氏だけは、無駄口をたたく事も無く真剣に石碑に向かいあい、そして撮影しています。本当に歴史好きなんだと感心します。
【第九の跡】松平忠吉、井伊直政陣跡と東首塚跡
JR東海道線の線路北側に出ます。鎮守の森と言ってもよい大木の繁る一帯が東軍先鋒となった松平忠吉、井伊直正陣跡です。陣跡を示す看板が無ければ、どこにでもある神社の敷地だと思ってしまいます。二代将軍秀忠の弟松平忠吉は、この戦いの傷がもとで(異説あり)数年後28歳の若さで亡くなっています。井伊直政も島津軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節に命中し、落馬して大きな傷を負ってしまいます。戦後処理に色々と活躍したものの、この時の傷やら心労で2 年もたたないうちに無くなります。勝ち組といえども、その運命は必ずしもバラ色では無い様です。そしてこの陣のすぐ横が戦死者を埋葬した2か所ある塚の一つ、東首塚です。この地で合戦で討ち取られた西軍の将の首は、家康自身により首実検されたと言います。またここの井戸で首を洗ったとの事。闘いの直後は凄惨な光景が繰り広げられたのでしょう。今でこそ静かで平和な光景がひろがっていますが・・・・。
いよいよ、陽も傾き始めました。わずか半日程の時間でしたが、駆け足で関ヶ原の戦いをなぞる事が出来ました。まだまだ行きそびれた史跡も多いのですが、自転車ツアーはそろそろお仕舞いです。一同、起点となった歴史民俗資料館に戻ります。