嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

エクリチュールと言霊のゼロニウム

2006年01月24日 18時00分54秒 | 駄文(詩とは呼べない)
彼の文字列について眺めていると非常に残念に思うことがある
彼が見つめるまなざしそのもの、
あるいは彼の着眼点によって切り取られたカメラのシーンを
フィルムのように刹那の力によって抜き取れば
そこには美しい光の旋律がちらちらと瞬いて
我々をプンクトゥムの入り口に立たせてくれる可能性だってあるのだ。
それは言霊が降りてくる感覚に誘うということでもあるが
啓蒙ということではない。

彼は彼自身を取り囲む世界について
抽象化によってではなく、積み重ねによって
自分自身の経験と意志の力によって
糸を編んでしまっている
それは既に編まれたテキストであって
まるで毛糸で作った蜘蛛の巣のようになってしまっている

波動にそのままシンクロすれば
「伝わる」と言えるのかどうかはわからないが
押したり引いたりすれば光のたるみは失われ
意志が介在するほどにとぐろを巻く

場を、そのまま受け入れてみてはどうかな?
むずかしいかな?
できなくはないと思うが。

けれどまぁ、そのままでいいのかもしれない。
僕にとって彼は、既に背景のひとかけらなのだから。

きちんと畳んだりせず、そのまま広げておこう。

ひとしきり読んだら、話でもしようか。

2006年01月24日 02時19分18秒 | 駄文(詩とは呼べない)
快楽に対する恐怖は、それ自体が生命力への懐疑と反発を生み出し
イメージを喚起し、創造すること自体にも歯止めがかかる。
思考速度をも超えて刺激が押し寄せる時、
快楽か恐怖かのいずれかが目の前に現れ
僕を時の慟哭からかっさらう
快楽は自己拡大にとっての潤滑油であり、
恐怖は自己を萎縮させる。

僕にとって快楽を経験によって掌握することと
未来を含んだ現在を絶望することは、
ひとときのうつつであり、
ひとしきりの幻覚であり、
ひとくみの方角であるように思う。

夢を経験するかい?
いや、僕は現実に絶望しよう。

快楽主義者による饒舌な鞭撻は、それ自体が知識の輪郭線を薄くなぞる時
新しさと共に笑いによって隣接感を得ることが出来、
興奮とまではいかなくとも、空気をやわらげる程度の役目は果たしているだろう。
だがその根底には不安、どうしようもない不安、どうにも出来ない異世界との直面
すなわち他者への恐怖が待ち構えているのだ。
笑っている場合ではない。
笑っているフリをして通過すべきなのだ。

そこにはドロドロとした悪意と共に
底無しの欲望が制御不能な形状のままに とぐろを巻いているのだから。

自分が好きかい?
いや、僕は自分が嫌いだ。
他人が好きかい?
いや、僕は他人になりたくはない。

喜怒哀楽が糸の波動として、
身体言語としてしか存在しないのならば
僕のコミュニケーションはいつだって嘘吐きのそれであり
パントマイムの衝突であり
能楽の猿まねなのだ

僕はいつでもピエロになろうじゃないか
そうとも、ピエロでいようじゃないか

僕はピエロ。
君はピエロが好きかい?