世界の文化芸術人から賛美賞讃され「半島の舞姫」と称された舞踊家崔承喜女史の生涯は、朝鮮と日本の歴史に翻弄された悲劇の、そして伝説の舞姫である。
崔承喜(1911年11月24日~1968年8月8日)は朝鮮が生んだ世界舞踊史上に咲いた唯一無二の華であり、東洋の心を舞踊で表現した革新的にしてユニークな天才舞踊家であった。
今年は崔承喜生誕100年を記念して女史縁りの様々なイベントが国際各都市で計画されている。
光州市立美術館所蔵河正雄コレクション特別企画「火花の如く風のように・崔承喜誕生100周年記念展」(会期2011年4月7日~6月19日)を開催する事となった。
過酷であった韓日の歴史の狭間をどの様にして世界に認識されるまで芸術の境地を開拓したか、新しい芸術とは何か追及していった女史の足跡はドラマティックであり、多くの謎に包まれている。
伝統的、民族的舞踊とモダンダンスをミックスした創作舞踊を発表した世紀の舞踊家の記録写真(35mmのポジとネガ)を、崔承喜研究家鄭炳皓先生が収集したものを1999年、私はコレクションした。
これらの記録写真は70~80年前のもので当時の女史を記録した数少ない貴重なものである。
このフィルムを印画紙にプリントして作品化、光州市立美術館に寄贈した。そして「舞姫・崔承喜写真展(会期2002年8月1日~10月20日)を開催した。
この展示を見た東京都庭園美術館学芸課長横江文憲(Yokoe Fuminori)氏はこう評論した。
「展覧会の会場に足を踏み入れて圧倒された。崔承喜の肉体が宙を舞い、その表現力の容易でない事を瞬間に感得する事が出来た。彼女の均整のとれた肉体、そこから溢れ出る躍動的なリズムは、見る者を彼女の舞踏の世界へと誘う。
1935年頃、崔承喜の人気は絶頂にあり、恩師石井漠は「彼女の一挙手一投足は、通常の人間の2倍の効果を上げる事が出来る。」と言い、
川端康成は「他の誰を日本一というよりも崔承喜を日本一といいやすい。第一に立派な身体である。
彼女の踊りの大きさである。力である。それに踊り盛りの年齢である。また彼女一人に著しい民族の匂いである。」と書いている。
文字だけでは、想像する事は出来ても実感として伝わってこない。
真実は、それを映像として如実に提示する事が出来る。崔承喜の存在の重要さは、その事よりも遥かに高い次元にあり、正に波乱万丈な人生を歩んだ事を教えてくれた。」
2003年、北朝鮮で名誉回復した女史は東アジアで再評価が進み、内外に反響を呼んだ事は周知の事である。
崔承喜著「朝鮮民族舞踊基本」(1958年平壌朝鮮芸術出版社刊)に記された文から女史の人格を窺う事が出来る。
「我が朝鮮舞踊芸術も今日、世界舞踊芸術の最高峰に立つ事の出来る栄光を持つ事になったと私は思います。
我々の先祖が残してくれた美しい舞踊芸術を受け継ぎ、世界舞踊芸術で価値あるものを広く受け入れ、新しいものを創造する事で我々は朝鮮舞踊芸術の新時代を開く事が出来ると私は見ています。
ここで発表する舞踊基本は、私が三十余年の間、舞踊生活をしながら我々の舞踊で失われたものを探し出し、弱いものは強くし、ないものは想像することで我が朝鮮舞踊芸術の復興をもたらして見ようと念願し、創作したものです。
誇り高い我が人民は、私がこの基本を作るにあたっても、立派な教師であり、また世界人民は立派な幇助者でありました。
私は我が国の津々浦々と、全世界数十カ国を回り、広大な人民達の中で無尽蔵な舞踊の宝箱を見、私はそれを思い切り学ぶ事が出来たからです。
この本で発表される舞踊基本が、我が国舞踊芸術のより輝かしい未来のため、さらには世界舞踊芸術の大きな発展と多様性の為に少しでも寄与するなら我々にとって大きな幸せとなるでしょう。」
両班的高貴なる自尊心、天才的な文学、音楽の天恵が光る。
芸術至上主義者政治との芸術分離論者、東洋舞踊論者としての強固な思想が根底にある。
韓国舞踊の基本動作を作定し韓国の近代舞踊と現代舞踊を繋ぎ朝鮮の伝統にこだわらない理想と方法によって新しい舞踊芸術を創造確立した根拠が、この書に良く表されている。
艶麗なる舞踊の影には血の滲む練成と精進がある。
崔承喜の舞踊には喜びの中にも一抹の哀愁が漂っている。
そこには朝鮮民族の匂いと生活感情が表れている。
古きものを新しくして弱まったものを強め、滅びたものを甦らせ、東洋の大きな民族性を一層誇らしく生き生きとした息吹を誇示している。
芸術はイデオロギーを超える。
崔承喜は世界的な芸術家である事を再認識する事が我々にとって有意義なことである。
崔承喜の世界同胞主義を理解し、植民地時代の苦しい時代を生きた朝鮮人の自尊心を高めてくれた女史を今日的に再評価すべきである。
崔承喜の芸術活動の足跡と女史が生きた時代と民族史を知る事は我々にとって重要な事である。
崔承喜の芸術には未来に継承して行かねばならない民族的な精神と指標がある。在日に生きる私の指標は歳月に風化せずに超える女史の自尊心と矜持が憧憬としてあったからだ。
韓日併合から101年、省察と内省、回顧するこの記念展が女史の足跡の研究と顕彰を促進させて、福音をもたらす事を祈念して止まない。
2011.5.7
『「東洋」を踊る崔承喜』受賞記念特集
―浮き愛き「崔承喜」資料探しの小話
サントリー学芸賞受賞によせて
この度は、栄誉あるサントリー学芸賞を賜り身に余る光栄と存じます。想像すらしなかった受賞の知らせをうけ、ただただ嬉しい限りです。
本書は戦前に日本を拠点として活躍していた朝鮮の舞姫・崔承喜の活動について追究したものです。
当時の資料を基にこれまであまり知られていなかった崔承喜の片鱗をかき集め、一つ一つその意義を解き明かしました。
崔承喜にまつわる資料は映画、雑誌、パンフレット、絵画作品、写真、小説など多岐にわたりますが、そのうち、主に戦前までの資料のほとんどを網羅的に集めました。
長年の資料収集の間、日本や韓国、中国における関係機関の方々をはじめ、個人のコレクターや舞踊家、そして研究者など様々な人と会う機会がありました。
そこで気付いたことは、崔承喜が未だに日韓はもちろん、中国に至るまで多くのファンを魅了し、依然として熱い関心を集める芸術家であるということです。
崔は歴史の中で埋もれてしまった伝説の舞姫ではなく、現在もなお生き続けている芸術家であるとの思いを強くしました。
ときには戦前の昭和文化を担う芸術家として、ときには帝国主義を宣伝する植民地の代表として、ときには朝鮮の民族舞踊の継承者として、そしてときには戦後の北朝鮮の体制を表徴する芸術家として――、これからも崔承喜は決して忘れ去られることはないでしょう。
本書を通じて、歴史の狭間で強く生き抜いた舞踊家・崔承喜の人生を多くの読者に知っていただければと願っております。
2020年11月27日 李賢晙
特集について
崔承喜(チェ・スンヒ、1911~1969)は、日本の現代舞踊家・石井漠(いしい・ばく)の下で研鑽を積み、1926年から朝鮮をはじめ、日本、中国、アメリカ大陸、ヨーロッパ各地で舞踊公演を行った舞踊家です。
1938年1月から始まった世界巡回公演では、民族的な伝統美を生かしたモダン・ダンスをもって、「朝鮮の舞姫」の名を全世界に広めました。
日本のみならず、世界公演でも大きな成功をおさめた「半島の舞姫」は、やがて「世界の舞姫」と呼ばれるに至りました。
本書『「東洋」を踊る崔承喜』は、著者の李賢晙先生が発見した多数の新出資料含む、絵画、写真、文学、広告など多様なメディアに描き出された崔承喜に関する表象や言説を丹念に分析し、生涯をたどるとともに、その意義を考察したものです。
特集では、李賢晙先生に崔承喜の人物と本書のみどころをご紹介いただきます。
1.日韓の近代と崔承喜の舞踊
モダンガールのイメージ(ポートレート)Ⅱ 1935年頃(本書「口絵10」より)
兄がやつてきて『おい、承喜、お前舞踊家になる気はないかね』と唐突に訊くのでした。
『舞踊家なんて、私嫌ひよ。』(中略)
舞踊なぞといふものは大体が卑しいもの、といふ考え方をしてゐたのです。
(『私の自叙伝』(日本書荘、1936年、36~37頁)
20世紀の朝鮮では舞踊は「妓生(キーセン)」の生業と認識されていました。
上記は両班の家庭で育てられ、小学校から高等女学校まで近代教育を受けていた崔承喜(チェ・スンヒ)が最初に兄の崔承一(チェ・スンイル)から舞踊家という言葉を聞いたときの素直な反応でした。
今や韓国の近代舞踊の嚆矢とも讃えられている崔承喜ですが、当時(1926年)朝鮮の15歳の少女にとって舞踊家への道は到底受け入れ難いものでした。
最初はこれほど嫌がっていたのにも関わらず、たまたま石井漠舞踊団の京城公演を観た彼女は「水の流れるやうに美しく描き出される肉体の線の律動と、楽しい夢のやうなメロヂイの響き、勿論私はそのために酔ふやうな夢心地の世界に誘ひ込まれて(『私の自叙伝』39頁)」日本留学を決心することになったのです。
以降、石井漠舞踊団の一員となった彼女は日本で大活躍していきますが、その活躍ぶりについて当時数多くの日本の芸術家や文化人たちが熱く語っていました。
例えば、いち早く崔承喜の才能を見抜いた小説家川端康成をはじめ、朝鮮民族美術館の開館に力を注いだ柳宗悦、さらに雑誌『改造』を創刊した山本実彦や戦前演劇界の傑出した人物村山知義など、様々な文化人たちがこぞって崔承喜を応援していました。
彼らは新聞や雑誌などのメディアを通して、崔承喜舞踊へ熱い関心や批評を掲載し、その上芸術舞踊家として崔承喜を確かに位置付けました。
とりわけ川端の場合「女流新進舞踊家中の日本一は誰かと聞かれ、洋舞踊では崔承喜であらうと、私は答へておいた」(『文学』1934年11月号、本書にも言及)とまで称えていました。
こうして初めて京城公会堂で石井漠舞踊団の舞踊を観たあの運命の日から、崔承喜は日本をはじめ、朝鮮、中国、台湾、戦火に巻き込まれる前のヨーロッパ各地、そして第二次世界大戦を逃れ集まったヨーロッパの芸術家たちで賑わうニューヨーク、さらに南米大陸に至るまで、世界各地を巡りながら踊り続けました。
彼女のこれらの華々しい公演履歴は行く先々で新聞や雑誌、広告などにより特筆され、今にも伝えられているのです。
日韓において戦前ここまで自分の芸術を極め続けた舞踊家がまた他にいたでしょうか。
本書はこのように怒涛のような時代の中で忽然と表れ、日本はさることながら世界の舞踊観客たちを魅了してきた舞踊家崔承喜の生涯を追跡しました。歴史に翻弄されながらも舞踊を続け、また政治に利用されながらもそれさえも飛躍するための機会とした崔承喜の逞しくも強かな生き様を、当時の資料調査を通して精査し見直しました。
第二回 帝国劇場公演パンフレット(表紙とプログラム、二つ折り)
1944年1月27日~2月15日まで行った崔承喜の日本での最後公演
(本書には掲載していない図版)
2.宝探しの鳥観図(本書の見どころ)
本書は舞踊家崔承喜の生涯を辿りながら、戦前の様々なテキスト(絵画、文学、写真、映画、雑誌など)による崔承喜表象のあり様を追求したものです。
そのために、本書は多くの媒体を用いて論じており、できる限り多くの図版資料を掲載しました。
研究者だけではなく、現在においてもなお人気を博している戦前の崔承喜をもう一度観たいという一般の読者の方々にも楽しめる内容に仕上がったと自負しています。
もちろん十分とは言えませんが、崔承喜への関心に対して本書はいくぶんか答えていると思います。
例えば16頁のカラーの口絵では梅原龍三郎を筆頭に、鏑木清方や小林古径など、戦前の日本画・西洋画から描き出された絵画作品の「崔承喜」をご鑑賞いただけます。
また崔承喜が出演した映画広告や各種の舞踊公演のパンフレット、さらには戦前昭和期において広告界のマドンナとも言えるような様々な広告資料を掲載し、彼女の見事な活躍ぶりが一目でご確認いただけると思います。
次の見どころは巻末の別表1から別表6、そして崔承喜年譜です。いずれも長い間の調査を通して集めた膨大な情報を見やすく読みやすい形でご提示できるよう四苦八苦しながら整理したものです。
特に崔承喜年譜は日本、韓国、アメリカで刊行されたこれまでの先行研究を全体的にまとめながら、あらたに発見した内容を明記しました。
したがって、崔承喜年譜の総覧として微力ながらこれから崔承喜研究を志す方々に資料として利用していただけることを期待しています。