© JBpress 提供 尹錫悦検事総長に「2カ月の停職」の懲戒処分を下す秋美愛法務部長官(写真:YONHAP NEWS/アフロ)
(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)
全く予想外の早い展開となっている。韓国における法務部(法務省)vs.検察庁の戦いのことだ。
秋美愛(チュ・ミエ)法務部長官が尹錫悦(ユン・ソクヨル)検事総長を強引に懲戒処分に処するのではないかとして注目されていた一件は、ひとまず、検事総長を2カ月間の停職にするとの処分が決定した。この処分であれば表面上は想定されていたものよりは軽いものとなるが、秋長官としては狙っていた効果を十分発揮できる内容だ。
だが、事態はそれだけでは収まらなかった。その処分が決定された日の夜、秋長官が辞意を表明したのだ。
今回の秋長官や法務部の手続きは法を無視したものであり、国民からの反発も強かった。そこで、高位公職者犯罪捜査処法改正案が国会で成立して同処設置のめどが立ち、かつ尹検事総長の懲戒処分を決定し、尹検事総長の「排除」が確定した段階で、秋長官自身も辞表を提出し、文在寅(ムン・ジェイン)政権へのダメージを最小限にとどめようとしてのことと思われる。
秋長官の辞表を文大統領がどのように扱うのか、12月16日夜の段階ではまだ明らかになっていないが、文政権が「保身・延命」を至上命題にして、なりふり構わぬ「政敵排除」に乗り出したとの印象が鮮烈に残る出来事となった。
検事総長の懲戒と引き換えの法相「辞意表明」か
まずこの数日の経緯を振り返ってみよう。
韓国・法務部は12月15日、2回目の検事懲戒委員会を開催した。午前10時半過ぎから17時間30分にわたって審議が行われた同委員会では、秋美愛長官が懲戒理由として挙げた6つの事案のうちの4つを認め、尹錫悦検事総長に対する「停職2カ月」の処分が決定された。
懲戒委が決定する処分には「解任」、「免職」、「停職」、「減給」、「戒告」などがあるのだが、15日の懲戒委では「解任」から「停職6カ月」、「停職4カ月」など様々な意見が出ていたという。秋長官が懲戒を請求した時には「解任の議決の可能性が高い」と予測されていたのだが、それよりも軽い「停職2カ月」にとどめたのは、文在寅政権の置かれた厳しい状況を反映したものと言えよう。
最近、文政権は秋長官の法を無視した強引なやり方で尹検事総長を排除しようとしている。また、与党「共に民主党」は高位公職者犯罪捜査処法の改正を国会での審議を経ずして成立させた。これはいずれも民主主義のあり方を無視するものであることに国民がやっと目を覚まし始めている。最近の世論調査で文政権への支持率を不支持率が20%以上も上回ってきているのは、こうした文政権の傲慢さを反映したものであり、文政権としても世論調査の結果には懸念を強めていることであろう。
また、懲戒委員の中でも辞任する人や委員会を欠席する人が出ている。これは文政権に近い懲戒委員の間からも、政権の法を無視したやり方とは距離を置きたいとの意思の表れだろう。
さらに、あまりにも強引な処分を行えば、今後、尹総長が提起するであろう行政訴訟で敗れる可能性が高まり、懲戒委員は非難を一身にかぶることになりかねない。当然そうした事態は避けたかったのであろう。
「停職2カ月」で尹検事総長を政権捜査から締め出し
尹総長は、今年1月に秋美愛氏が法務部長官に就任以来、事実上人事権を失っていたが、月城原発経済性評価捏造など政権中枢が関与した事件への捜査は指揮していた。しかし、懲戒委が決定した停職2カ月の処分を大統領が裁可したことにより、停職期間中は指揮権まで喪失することになる。
尹検事総長の処分を解任ではなく、停職2カ月で済ますことができるようになったのは高位公職者犯罪捜査処法改正を10日の国会本会議で成立させたことに起因する。文大統領は15日の閣議で公捜処法改正案など「権力機関改編3法」を議決し、公布した。公捜処法改正案の成立によって野党の同処長人事への拒否権を奪うことにより、公捜処は来年の比較的早い時期に業務を開始するめどが立った。
だがこれは、公捜処の本来の目的である「高位公職者の不正腐敗摘発」が進むことを意味しない。
同処はこの改正法によって、大統領が好きなように処長を選任できるようになり、左翼系の「民弁」所属の弁護士などを広く公捜処の検事に登用する道が開かれた。もはや公捜処は政治的中立性を失い、政権の別働隊化するのは間違いない。政権幹部への捜査の道は閉ざされたと言っても過言ではない。もちろん、文政権の進める「検察改革」の大きな目的はそこにあった。検察は「高位公職者」に対する捜査権を公捜処に奪われる。そして検察から公捜処に最初に移管される案件は、文大統領や青瓦台の関与が疑われる月城原発の経済性評価捏造事件ではないかと言われている。
これによって、文政権としては尹検事総長の職務を2カ月停止しておけば、政権幹部への捜査は事実上排除できることになった。
というのも、文大統領が裁可すれば、尹総長は総長職は維持するが、停職期間には「月城原発1号機経済性捏造事件」、「青瓦台による蔚山市長選挙介入事件」などの懸案には関与できなくなる。そして尹総長が復職するまでに、これらの事件の管轄を公捜処に移管すればいいからである。
法曹界では今回の決定に関し、懲戒委がすでに結論を予定し審議を強行していたとみており、今後の行政裁判への影響を見込んで、「公正」と「正当」という概観だけを整えようとしたとの指摘が提起されている。政界では15日中に懲戒委の結論が出るとのうわさが広がっていた。
この決定について、政界や法曹界では、世論が厳しいので解任はできないが、政権に対する捜査を妨害しようという目的は達成できる「政治的懲戒」であり、「法と規定に最も厳正でなければならない法務部が法治をほしいままにしている」と批判が出ている。極めて真っ当な批判と言ってよいだろう。
懲戒手続きは違法に進められたのではないか
懲戒手続きの違法性についても、今月2日の第1回懲戒委が延期された最初の時点から論争の的になっていた。
尹総長側は当初、懲戒委6人を巡って「秋長官寄りだ」として忌避申請を出したのだが、すべて却下された。この過程で一部委員は辞退し、結局15日の懲戒委員会には、4人の委員しか出席しなかった。
この15日も尹総長側は、鄭漢中委員長職務代行、申成植(シン・ソンシク)最高検察庁反腐敗部長に対し忌避の申し立てを行ったのだが、これも棄却。尹総長側は「予備委員の充員」を主張したがこれも拒否され、結局、定足数ぎりぎりの4人で開催されたのだった。
そもそも2日の懲戒委員会が延期となったのは、委員長を務めるはずだった法務部次官が秋長官の懲戒請求に抗議して辞任したからだ。このように、秋長官が懲戒を請求した事由についても疑問符が付けられる中、委員会開催は強行されたものである。
それ以外にも、尹総長側は「審議全体過程を録音してほしい」と要請したが、この点については、速記士による録音と証言時に限定した録音など制限的に受け入れられた。
尹氏側は7人の証人を申請し、このうち4人の尋問を認めた。秋氏側の1人の証人1人も尋問した。申請した証人のうち、李盛潤(イ・ソンユン)ソウル中央地検長と丁珍雄(チョン・ジヌン)光州地検次長検事ら3人が欠席、5人だけ出席した。懲戒委が職権で証人として採択した沈載哲局長までこの日、現れなかった。
尹総長側によると、懲戒委員はほとんど質問をせず、早く済ませようとの雰囲気が強かったという。ということは懲戒委員会は形式的なものだったのか。
手続き的には尋問、次いで尹氏側の最終意見陳述が行われた後、尹氏側の特別弁護人を退席させ、懲戒委メンバーだけで協議し、議決を行うことになっている。ところが、懲戒委員と尹総長側の特別弁護人は証人尋問を終わらせた午後7時30分ごろ、審議期日続行を巡り衝突した。尹総長側は証人尋問の後、懲戒委に新しい証拠の閲覧と沈載哲(シム・ジェチョル)法務部検察局長が出した意見書に対する反論意見書の準備のため審議期日を続行してほしいと要請した。
鄭漢中(チョン・ハンジュン)懲戒委員長職務代行(韓国外国語大学教授)は、最初は「明日会議を再度開き、追加陳述と最終意見陳述を行う」と言っておきながら、突然「1時間以内に最終意見陳述を求める」と発言を修正した。何らかの上からの圧力があったのかも知れない。尹総長側の弁護士は「このような要求は無理で、現実的に不可能」として異議を提起した。しかし、懲戒委が審議をこの日に終結すると言うと、尹市側の弁護士は「最終意見陳述をしない」と反発して退出した。懲戒委は尹総長側の関係者がいない状況で重懲戒の議決を押し通したのだ。
尹氏側は行政訴訟に出る見込み
この決定を受け、法務部は16日中に停職2カ月という懲戒委の決定の裁可を文大統領に求めた。それに対して尹総長は、文大統領が停職を裁可すれば、直ちに裁判所に懲戒効力の一次停止を求め、執行停止申請を出す見込みである。
尹総長は懲戒処分に対し「任期制の検事総長を追い出すための違法な手続きと実態のない理由を挙げた不法で不当な措置」と批判、「検察の政治的中立性と独立性、法治主義が深刻に損なわれた」と指摘したうえで、「憲法と法律に定められた手続に基づき誤りを正す」との考えを報道陣に明かにした。
朝鮮日報によれば、法曹関係者は「尹総長の任期(来年7月まで)を考えると、停職2カ月は尹総長に『取返しのつかない被害』を与えると裁判所が判断する可能性が高い」とし、「懲戒委の構成の偏り、プロセスの手続き違反、無理な懲戒事由などが問題になるだろう」と指摘した。
そもそも今回の懲戒は結論ありきであり、その決定も秋長官など上層部の意向で、突然16日未明に下された模様である。しかも、懲戒の手続きも尹総長側の意向は無視され、秋長官の意向で進められたとの疑いを強く抱かせるものとなっている。こうした状況を勘案して行政裁判所がいかなる判断を下すのかが注目される。懲戒委員会の決定を覆す判決が出れば政権への痛手となるが、文政権の意向を忖度した決定となる可能性もある。韓国の現状を考えると誰が担当の裁判官になるかに左右されることになろう。
秋長官の辞意表明は文政権の「レームダック化」避ける狙いか
文在寅大統領の支持率の低下に関し、文在寅政権を支持するハンギョレ新聞は、「文在寅政権支持層の離反と『進歩の分裂』」というコラムを掲載し、次のように警戒を呼びかけた。
「文在寅政権支持層の離反が続いている。14日に発表されたリアルメーターの世論調査では、文在寅大統領の国政遂行に対する肯定評価は36.7%に止まった」
「進歩層の支持率は59.6%で、この2週間で12.4ポイントも下落した。自らを進歩派だと考える国民の10人に4人が政権に背を向けているのだ」
「チュ・ミエとユン・ソクヨルの対立は進歩派の分裂を加速させた。一方は、チュ長官支持と検察改革を同一視する。もう一方は、チュ長官の強引なやり方が検察改革には妨げとなると懸念する」
「進歩派の分裂は、大統領を早期のレームダックに落とし入れる可能性がある」
「進歩派の分裂は、民主主義と進歩派の伝統的価値が後退した結果だ。目的が正しくとも、過程と手続きが間違っていれば、国民の支持は得られない。手続き上の正当性が不足しているにもかかわらず、任期が保障された検察総長を引きずり降ろそうとするような『非常識』と『空回り』が検察の中立性と独立性を毀損したという非難を自ら招いた」
「内部批判を謙虚に受け止めるどころか『反改革』ないし『裏切り』と非難する態度は、傲慢と独善のイメージを人々に抱かせる」
「進歩派分裂の構造的要因についての省察も必要だ。軍部独裁時代には、保守派は既得権擁護勢力、進歩派は既得権打破勢力だった」
「進歩派も政界、官界、経済界、学界など、社会の至るところで高い地位に着き、既得権化が進んだ」
これは現状を正しく分析している。ただ、残念なことに文在寅政権内、および与党「共に民主党」の中からはこのような反省の弁は聞こえてこない。あくまでも強引に、民主主義の大原則に真っ向から挑戦してでも、自らの政治的野望を達成し、保守層を権力から遠ざけ、自らの保身を図ることに汲々としているのが現実である。
こうした反発に対するガス抜きのつもりなのか、16日夜になって、「秋美愛長官、辞意」のニュースが飛び込んできた。文在寅大統領は、「秋長官の推進力と決断がなければ公捜処や捜査権改革をはじめとする権力機関の改革は不可能だっただろう」と、秋長官の功績を評価し、「時代が与えた任務を忠実に完遂してくれたことに対し、特別に感謝する」と述べたという。その上、「秋長官本人の辞意表明と去就の決断についても高く評価し、これから熟考して(辞任を)受け入れるかどうか判断する」「最後まで与えられた任務を全うしてほしい」と伝えたという。
もちろんその言葉は表向きのものだろう。本音では、公捜処改正案が成立し、尹検事総長の停職2カ月も事実上決まったようなものと受け止めるのであれば、世間の風当たりが強い秋長官には身を引いてもらったほうがありがたい。おそらく文大統領は、喜んで秋長官の辞意を受け止めるだろう。
ただ、今後、尹検事総長が起こす行政裁判は継続するので、文政権はこの懲戒の影響から完全に逃れることは難しいかもしれない。しかし、行政訴訟の当事者となるとみられる秋長官がいなくなることで、その影響が緩和されることはあるだろう。
韓国の権力機構は文大統領に掌握されつつある。それに「待った」をかけられるのは、尹検事総長の法的手段だけである。尹検事総長の法的対応が実らなければ、停職が解けた頃には政権中枢に対する捜査権は検察から新しくできる高位公職者犯罪捜査処に取り上げられているはずだ。そうなれば韓国は、政権の不正をチェックする機関が存在しないという、およそ自由民主主義国とは様相を異にする独裁体制国家へと変貌していくことになるだろう。