日本と世界

世界の中の日本

中国東北部 かつてここは中国(漢民族)ではなく、異民族の世界でした。

2020-12-01 18:22:01 | 日記

中国東北部。
山海関より北・・北朝鮮やロシア、モンゴルとの国境付近・・太平洋戦争以前は満州と呼ばれた地。

現在では遼寧省、吉林省、黒龍江省のいわゆる東三省がこれにあたり、哈爾濱(ハルビン)、長春(旧新京)、審陽(旧奉天)、撫順などの大都市が並びます。

かつてここは中国(漢民族)ではなく、異民族の世界でした。

古来、彼等異民族は中国本土の豊穣な土地、まばゆい文化・文明にあこがれ、常に南下を企て、あるものは撃退され、またあるものは『中国本土』 に侵入し、王朝を築くこともありました。契丹、女真、モンゴルなどの部族です。

次の表は中国の歴代王朝とその建国者をまとめたもので、青い字が異民族による王朝です。その最初が契丹(きったん)族であり、国号を遼といいます。

 

通称

国号(年代)

建国者(初代皇帝)

 

秦(前221~206)

始皇帝(瀛政)

前漢(前221~23)

高祖(劉邦)

新(8~23)

王莽(莽 巨君)

後漢(25~220)

光武帝(劉秀)

三国

魏(220~265)

文帝(曹丕)

呉(222~280)

大帝(孫権)

蜀(221~363)

昭烈帝(劉備)

 

 

西晋(265~316)

武帝(司馬炎)

東晋(317~420)

元帝(司馬睿)

南北朝 (420~581)

 

隋(581~618)

文帝(楊堅)

唐(618~907)

高祖(李淵)

五代十国

北宋(960~1127)

太祖(趙匡胤)

南宋(1127~1279)

高宗(趙構)

遼(907~1125)

太祖(耶律阿保機)・・・契丹族

西夏(1038~1227)

景宗(李元昊)・・・タングート族

金(1115~1234)

太祖(完顔阿骨打)・・・女真族

 

 

元(1279~1368)

世祖 フビライ・・・モンゴル族

明(1368~1644)

太祖  洪武帝(朱元璋)

後金(1616~1636)
清(1636~1911)

 

ヌルハチ・・・女真族
1636~1643 ホンタイジ

1644~1661 順治帝(愛新覚羅皇福臨)

1661~1722 康煕帝(愛新覚羅玄燁)

1723~1735 雍正帝(愛新覚羅胤禛)

1736~1795 乾隆帝(愛新覚羅弘暦)

1796~1820 嘉慶帝(愛新覚羅顒琰)

1821~1850 道光帝(愛新覚羅旻寧)

1851~1861 咸豊帝(愛新覚羅奕詝)

1862~1874 同治帝(愛新覚羅載淳)

1875~1908 光緒帝(愛新覚羅載湉)

1909~1911 宣統帝(愛新覚羅溥儀)

中華民国 (1912~1949)

中華人民共和国 (1949~)

(1) 遼、西夏、金は中国全域を治めた征服王朝ではありません。しかし中国の一部、あるいは相当の範囲を支配していたことは事実です。
(2) ヌルハチは後金の創始者ですが、皇帝は称していません。

彼等異民族は、中国からは中華思想上、蔑視される蛮族でもありました。

その蛮族である彼等が中国を支配し、一旦中国文明に接するや、自らも中華思想に毒され、あたかも古くからその思想を身に付けていたかのように振る舞い、弱体化していったのです。

■女真族

現在(2005年)60代半ば以上の人には記憶されている方も多いと思います。

1957年12月、学習院に通う少女が同級生と伊豆の天城山で心中事件を起し、マスコミに大々的に報道されました。この少女は女真族の王族の後裔なのです。

女真(じょしん)は女直(じょちょく)とも呼ばれ、中国東北部に居住したツングース系の民族で、女真、女直はこの民族の名前である『ジュルチン』の当て字になっています。

ツングースとはロシア語で、かつての満州、モンゴル、シベリア地域に住む民族の総称で女真をはじめ、粛愼、扶餘、靺鞨、モンゴル、オロチョンなどの民族があります。

この中で扶餘族は古代朝鮮の高句麗国を建国したことで知られます。

日本との関係も深く、はるか昔、日本海を渡って日本列島にたどり着いた部族もあるのです。

海を越えて日本にたどり着いたということで、その地名は越と呼ばれました。

旧国名でいえば、かつての越前・越中・越後です。

また日本神話のヤマタノオロチの話は、渡海したオロチョン族と先住者の出雲族(これもツングース系かもしれない)との戦いともいわれています。

高句麗が唐に滅ぼされた後、多くの高句麗人が日本に帰化したことはよく知られています。

大和朝廷は彼等の文化・文明を吸収すると共に、ある人は朝廷の高官に登用し、またある人には地方の開拓を要請したのです。

その土地には多くの場合、コマという地名がついています

たとえば武蔵国高麗郡(埼玉県飯能市周辺)、武蔵国多摩郡狛江郷(東京都狛江市)、甲斐国巨麻郡(山梨県中巨摩郡・南巨摩郡)、河内国大県郡巨麻郷(大阪府柏原市周辺)、山城国相楽郡大狛郷・下狛郷(京都府相楽郡笠置町周辺)などがそれです。

12世紀の初め、女真族はやはり異民族の国・遼を滅ぼし、金という国を建国。

金は宋と戦い、一時は宋の首都、開封まで攻め込むほどの力を持っていました。

金を滅ぼしたのがモンゴル族で、彼等が建てた国が日本では元寇で知られる元です。

この時はじめて中国全土が異民族に支配されます。

金がモンゴルに滅ぼされた時、故地である満州(そのころは満州という名称はなかったが)はすでにモンゴルに制圧されており、女真族には帰る土地もなく、それまでの圧政を恨む漢民族からも攻撃され、壊滅的な状態に追い込まれました。

元は、漢民族である朱元璋(しゅ・げんしょう)に 『中国本土』 から追い出されます。

滅ぼされたのではありません。朱元璋の奮戦で中国は 『独立』 したので、モンゴル族は故地である草原に押し返されたのです。

朱元璋の建てた国が明です。

明の時代、女真族は部族ごとに編成され、部族長には官職と権利が与えられるという間接統治が行われていました。

16世紀、部族長の一人、ヌルハチは他の部族を統一。

民族名を満州に変え、金を引き継ぐという意味で国号を後金とし、明に対して宣戦を布告するのです。

国号はヌルハチの子、ホンタイジによって清となり、清は明に代わって中国全土を支配するようになります。

清は五代皇帝・乾隆帝の時、最盛期を迎えます。

しかしその後は急速に衰退し、欧米諸国や日本の侵略を受け、悲惨な時代が長く続くのです。

そして20世紀。

清王朝滅亡後、満州の地には女真族の子孫を元首とし、わずか13年と5ヵ月で消えて行った満州国という国があったのです。

 

 


■満州建国へ

19世紀後半から20世紀初めにかけて、日本の対外的脅威は列強諸国のアジア侵略。特に帝政ロシアの南下でした。

1900年、義和団の事件に乗じてロシアが満州を占領すると、隣接する朝鮮半島が侵略されることを恐れた日本はイギリスとの日英同盟で対抗。

日露戦争(1904~5年)にかろうじて勝利した日本は、遼東半島と東清鉄道南部の租借権を確保するに至りました。

しかし戦後の日本は次第にロシアと共同し満州の権益確保に努めるようになり、アメリカ等の反発をまねくようになります。

1917年ロシア革命が起こりソビエト連邦が生まれると、共産勢力が広まることを恐れた日本はアメリカ、イギリス等の連合国とシベリアに共同出兵し、内政干渉を目論むも失敗。

しかし、これによって満州の地は共産主義への防衛基地としての重要度が高まり、日本の生命線といわれるようになるのです。

余談ながら、満州から朝鮮半島にかけて強大な軍事、あるいはそれに準ずる勢力が台頭することは、古代から近代にいたるまで日本の防衛上の脅威になっていました。朝鮮半島から日本まで、海があるとはいえわずかな道のりなのです。

一方満州の地は、清王朝の帝室の聖地として漢民族の入部が禁止されていましたが、日清戦争後はこれが解禁となり、辛亥革命後は中国人や朝鮮人の 『移民』 が急激に増加するようになります。

特に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の3省)は日本の開発もあって目覚しい発展を遂げていました。

これに目をつけた袁世凱は1907年、腹心の徐世昌(後に段芝貴)を東三省総督にし、自軍の一部を送り込み東三省を勢力下におさめると共に、ロシア、日本などの権益を押さえ込もうと画策します。

1916年、袁世凱が死去すると満州出身の軍閥・張作霖は、東三省での勢力拡大を画策する日本に協力し、袁世凱の配下で総督の段芝貴を失脚させ、東三省全域を勢力下にすることに成功しました。

これ以降、満州は日本をバックにする張作霖と、アメリカ、イギリスをバックにする呉佩孚(ご・はいふ)の戦いが展開されるのです。

最終的に勝利したのは張作霖でしたが、時代の波はここにも押し寄せてきました。蒋介石率いる国民党軍の侵攻です。

しかし最初国民党はアメリカやイギリスの支持を得られず、一時的に撤退。

1926年12月張作霖は北京で大元帥となり、中華民国の主権者であることを宣言します。

1928年4月、アメリカやイギリスの支持を得ることに成功した蒋介石は、他の軍閥である閻錫山、馮玉祥と共に再び北伐を開始します。

これに対して張作霖は蒋介石軍と北京で決戦しようと考えていましたが、関東軍(満州における日本軍はこう呼ばれた)は、もし張作霖が負ければ国民党軍が山海関から満州に侵入して来ることを恐れ、張作霖には戦わず満州に帰るよう警告していました。

しかし張作霖はこれを無視して国民党軍と戦い、敗れてしまうのです。

日本政府(田中義一首相)は張作霖を東三省で再起させようと考えましたが、すでに満州国の構想を持ち始めていた関東軍にとって、張作霖の利用価値はなくなっていいました。

1928年6月4日。

敗れた張作霖が北京から撤退する途中、奉天(瀋陽)駅から1キロの地点で、乗った列車が爆破され張作霖は死亡。

中国軍のしわざにしようとした関東軍の隠蔽工作はすぐばれて張作霖の子、張学良を中心に大規模な抗日運動が巻き起こるのです。

1931年9月18日。

柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破されると、関東軍はこれを中国軍の仕業と断定。

実際は関東軍の謀略でしたが、関東軍は直ちに出動し、わずか5ヵ月で満州全域を占領してしまうのです(満州事変)。

この作戦計画の立案者は石原莞爾。総司令官は板垣征四郎でした。

板垣征四郎(1885~1948)は1929年関東軍高級参謀、1934年満州国軍政部最高顧問、1939年支那派遣軍総参謀長等を歴任。東京裁判では死刑を宣告されました。

石原莞爾(いしはらかんじ 1889~1949)は1918年、陸軍大学を主席で卒業するほどの秀才で、在学中の数々の奇行、また熱心な日蓮宗徒としても知られます。

1930年、石原は 『満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究』 を脱稿し満蒙領有計画を立案しています。(満蒙とは満州とモンゴルのこと)

石原は東京裁判では起訴はされず、参考人として出廷したにとどまりました。

満州国建国も石原の計画の一部で、柳条湖事件はその手始めなのです。

この時期石原はすでに仮想敵国としてソ連とアメリカを想定しており、

満州はソ連の南下を防ぎ朝鮮への進入を阻止することと、アメリカとの長期戦に備えて日本の自給自足圏となりうると考えていました。

当時の日本は長い不況から抜け出せず、人口は増加するものの国内には受け入れる余地はなく、

アメリカ等への移民がこの問題を解決するかに見えましたが、

1924年には肝腎のアメリカが排日移民法を成立させ、受入れ不可能になったのです。

そこへ満州事変が起こり、満州はにわかに脚光を浴びるようになりました。

1932年2月には東三省の要人が関東軍司令部に招かれ、東北行政委員会という満州国独立プロジェクト(?)が発足。

2月18日には早くも国民党政府に対し、独立宣言を発し、3月1日には清王朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政とする新国家、満州国が誕生するのです。首都は新京(現在の長春)。

 

執政就任式に臨む溥儀
(左から2人目)


しかし、満州国が日本の傀儡国家であったことは誰の目にも明らかでした。

リットン調査団の報告を受けた国際連盟は満州国を認めず、満州からの撤退を要求された日本は国連を脱退し、国際的にますます孤立することになります。

(もっとも国連で否認されたとはいえ、ドイツ、イタリア、スペインをはじめ、23カ国は満州国を承認していました。)

そして1934年3月1日、溥儀は念願の満州国皇帝に即位するのです。


■五族協和

満州国は建国の理念として、『五族協和の王道楽土』 を謳いあげました。

五族協和とは満州人、蒙古人、漢人(漢民族)、日本人、朝鮮人で、これら民族が一致協力し 『多民族国家』 として国づくりを行うことでした。

また王道とは中国において古代より唱えられた言葉で、

武力を以って国を治める者を覇者、その方法を覇道といい、

徳望を以って治める者を王者、その方法を王道といいます。

欧米諸国のアジア侵略を覇道とし、それに対抗すべく王道と称したのです。

(1) 満州には五族以外にも、ロシア革命を逃れて満州にやって来たいわゆる白系ロシア人や、ナチスの迫害から避難してきたユダヤ人も数多くいました。
(2) 王道は中国における理想的政治スタイルとされました。たとえば三国志演技の劉備もこれに基づく人として描かれています。しかし現実の中国史で、王道を以って国を治めた王・皇帝など皆無で、歴代王朝はいずれも武力で建国し、武力で倒されたのです。

 

満州国旗

満州国の建国の理念は、今日においてもタテマエ上はなかなかのものがあります。

特に欧米諸国のアジア・アフリカへの侵略が日常茶飯事だった当時、異民族同士(五族)が力を合わせて国づくりを行うというスローガンは信じられないくらい現代的なものでした。しかし、国内の実態は・・・・

政治は溥儀を元首とし、諮問機関の参議府、行政機関である国務院が置かれ、東北行政委員会の委員長、張景恵が国務院総理に就任しましたが、実際は関東軍と日本の在満大使によって行われていました。

執政(溥儀)には国務院総理や各大臣の任命権がありましたが、実際には関東軍の同意なしでは権利の行使は不可能だったのです。

議会はあっても選挙は一度も行われず、政党の結成は禁じられており、政治団体としては日本の大政翼賛会のような協和会という団体が存在し、行政指導や政策の国民への指導が行われていました。やはり満州国は関東軍の傀儡政権といわざるを得ません。

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人口は急激に増加したようです。

移民は中国からも、朝鮮からも、日本からもありました。

日本政府はこれを満蒙開拓団と称して奨励し、バックアップしたのです。

当然ながら、これらの日本からの移民の多くは日本人意識が抜けず、古くから現地にいた満州人とのトラブルに発展することも多く、関東軍に土地を取り上げられた農民(現地人)の暴動さえ起こりました。

このことは、戦後になって開拓団が現地人に襲撃される原因にもなったのです。

当時満蒙開拓団には名指揮者小沢征爾(1935~)の父親がいました。征爾の名は板垣征四郎と石原莞爾から名付けられています。


満州は中央部は農業中心でしたが、周辺の草原、山岳地帯には鉄鉱、炭田、油田があり、これを利用する産業が発展しました。

日本政府主導による経済政策は成功をおさめ、重工業を中心とする産業が急速に発展していったのです。

満州の企業の中で最も有名だった南満州鉄道株式会社(通称 満鉄)は、日露戦争後ロシアから譲渡された東清鉄道の一部(新京~大連)と、日露戦争中に日本が物資輸送のため建設した鉄道(安東~奉天)を維持するため、1906年につくられた半民半官の国策会社です。

初代総裁は後藤新平、本社は大連、支社は東京にありました。

同社は鉄道経営だけでなく、炭鉱開発、製鉄、湾岸、ホテル、学校などの建設・経営も行い、満州開発の中心的存在で、ここから独立したのが、李香蘭などを生み出した満州映画協会(通称 満映)です。

満鉄といえば、その技術の粋を集め、1934年11月に運行を開始した大陸縦貫特急列車のあじあ号という列車がありました。

モダンな外観とスカイブルーに塗装された蒸気機関車(パシフィック7型)に牽引されたあじあ号は、平均速度82.5Km、最高速度120Km。

それまで2日かかっていた新京~大連間701Kmを8時間30分でつないだのです。

当時日本国内での最高速列車は特急燕で平均速度60.2Km、最高速度95Kmでした。

あじあ号(奉天駅にて)
スマートなスタイルは『流線型』という新語を流行させ、婦人服のデザインにも取り上げられた

速度でいえば、当時イギリス、アメリカなどでは最高速度150Km以上の列車はいくつかあり、あじあ号は世界の平均レベルに到達したにすぎませんでしたが、車内の空調設備は世界最高水準でした。

満州の厳しい気候(真夏は30℃以上、真冬は氷点下3~40℃)に対応するため、密閉式の二重窓と全車に冷暖房設備を備えていたのです。日本では燕号の食道車に冷房があった程度です。

インフラ整備という面では1942年、哈爾濱(ハルビン)~長春(新京)~瀋陽(奉天)~大連をつなぐ全長900Kmの高速道路・哈大道路の建設がはじまっています。

しかし3年後には敗戦となり、一部の工事が完成したのみで計画は頓挫してしまいました。

その後この工事は中国に引き継がれましたが、日本の技術援助があって、瀋陽~大連間375Kmが瀋大高速公路として開通したのは1990年のことだったのです。

また豊満ダム(吉林省)、水豊ダム(鴨緑江)などは地域の電力事情に多大な貢献をし、現在もなお稼動中です。


■崩壊

太平洋戦争の初期、満州は南方戦線からは遠く、その上、日ソ中立条約のためソ連とは戦闘は起こらず、見かけ上は平穏な日々が続きました。

しかし戦局の悪化にともない、関東軍からも精鋭部隊は次々に南方に派遣され、徐々に、そして急激に戦力は低下していったのです。

1945年5月にはドイツが降伏。

硫黄島や沖縄がアメリカ軍の手に落ち、もはや戦局は日本にとって絶望的な状況になってきました。

8月8日。ソ連は、ヤルタ会談における連合国首脳との秘密協定によって一方的に日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告。

9日は怒涛の勢いで満州に侵攻してきました。

これを防衛すべき関東軍は武器、兵力共に大幅に不足し、各地で撃破されるありさまでした。

皇帝溥儀はソ連侵攻の情報に新京を放棄し、大栗子に移動。

ここで日本の無条件降伏の放送を聴き、17日に国務院は満州国解体を決定。

18日に溥儀は退位の詔勅を読みあげ、満州帝国は建国よりわずか13年5カ月で消滅したのです。

日本は降伏し、満州国は消滅し、関東軍はまさに孤軍となりました。

ソ連軍に降伏した関東軍兵士には日本への帰国は許されず、シベリア等の極寒の地に抑留され、過酷な労働に従事することになります。

しかし、それ以上に悲劇的なのは日本の民間人で、特にソ連・満州国境近くに住んでいた満蒙開拓団の人達は関東軍に置き去り同然にされたのです。

満蒙開拓団の人達は避難する途中で多くの人が前途を悲観して自決し、あるいは襲ってきたソ連兵、抗日中国・朝鮮人に虐殺され、生き残った人も捕虜となり、シベリア等各地に抑留されることになるのです。

いわゆる中国残留孤児は、この混乱の中で家族にはぐれ、あるいは家族を虐殺されて孤児になって現地の中国人達に保護された人達を指します。

1946年4月、ソ連軍は満州を蒋介石の国民党軍に返還。

このころは国民党軍の方が優勢でしたが、

1947年になると共産党軍は反攻を開始し、満州では各地で八路軍(共産党の軍)が蜂起し、1948年9月の戦い(遼瀋戦役)に勝利した共産党軍は、その後2ヵ月の戦いで満州を完全に占領したのです。

(お断り)
現在中国では、かつての日本の侵略と密接な関係があるため、満州という呼称は使用しておらず東北部、満州国は偽満州国と呼んでいます。

しかし過去においてこの地が満州といっていたこと、満州国という国があったのは歴史の事実なので、本編では現状にこだわらず、満州と呼びます。


「日本に負けない」と大見得を切った文在寅、コロナワクチン確保できず“完敗”で大炎上

2020-12-01 16:52:47 | 日記

「日本に負けない」と大見得を切った文在寅、コロナワクチン確保できず“完敗”で大炎上

 
「日本に負けない」と大見得を切った文在寅、コロナワクチン確保できず“完敗”で大炎上

日本に擦り寄りつつも、北への想いは変わらす?の文大統領

 

■日本3億3000万回vs韓国0回


「3億3000万対0」――。韓国国民はこの数字に憤っている。

米製薬大手ファイザーの新型コロナウイルスワクチンが早ければ来月11日にも接種開始が見込まれるなか、日本政府はファイザー1億2000万回、モデルナ5000万回、アストラゼネカ1億2000万回など、約3億3000万回分のワクチンを確保したことが判明した。

要するに、日本は全国民が2回ずつ接種しても余る量を確保したが、韓国政府が11月中旬までに確保したワクチンはゼロだったのである。

韓国政府は9月15日、「全国民の60%が摂取可能な3000万人分の海外ワクチン確保を推進する」と発表していた。

あれから2か月、日本や米国など世界各国がワクチンを確保するなか、11月17日、保健福祉部の朴凌厚(パク・ヌンフ)長官は「まだ交渉中」と発言して非難を浴びた。

ファイザーやモデルナは韓国政府に「早期の契約」を促したが、11月が終わろうとするいま、韓国がワクチンを確保したという知らせはない。

来年上半期、日本でワクチン接種が始まる様を、韓国人は羨望の眼差しで見守ることになりかねない。

昨年8月、日本政府が韓国向け輸出規制措置を行った時、「我々は再び日本に負けないだろう」という“名言”を作った文在寅大統領だが、何一つまともに勝ったという実績を残していない。

コロナワクチン確保戦争で日本に“完敗”して世論は炎上、不信感が頂点に近づいている。


■「我々に足りなくても北朝鮮に」


80年代、大学生として左翼運動の先鋒に立ち、現在は文在寅大統領の側近に名を連ねる共に民主党所属国会議員の李仁栄(イ・イニョン)韓国統一部長官は11月18日、

ニュース番組に出演して「韓国のコロナワクチンが不足しても、北朝鮮に配らなければならない」と発言し、翌日、ニュースのトップを飾った。

 日本政府が3億3000万回分のコロナワクチンを確保した一方、韓国が1回分も購入していないことが明らかになってすぐの、極めて非常識な発言に国民は唖然とする他なかった。

李仁栄統一部長官は、韓国の公務員が海上を漂流中に北朝鮮軍に銃殺され、焼却された今年9月、コロナ予防のマスクなど医療品の北朝鮮向け支援を承認したことが明らかになり、波紋が広がった。

文大統領は、韓国の大統領か北朝鮮の代弁者か分からないほど北朝鮮に片思いを抱いており、「いい加減にしてくれ」という世論の反発がある。

そんな中での「自国を犠牲にしての北支援」アピールだから、理解に苦しむのだ。

一方の北朝鮮は11月19日付の「労働新聞」で「なくても生きていける物資のために国境を越えることはできない」と報じ、ワクチン提供を拒絶する意思を明らかにした。

北朝鮮は、まだ1回分もワクチンを確保していない国がワクチンを配ると言う発言は、無礼であり荒唐無稽だと考えたかもしれない。

だとしたら真っ当な物言いである。

李仁栄長官は翌20日にも、南北境界地域に両国民が使用できる「感染症対応センター」の設置を提案した。

「診断と治療、予防、ワクチン開発および生産を包括する協力が必要だ」と発言したが、北朝鮮は22日に再び「労働新聞」で、「完璧な封鎖障壁の構築が重要だ」と拒絶している。


■ワクチン確保が為政者の務め


統一部は11月10日、北朝鮮に約1007億6300万ウォン(約93億6589万円)分のコメを支援するなど、総額で約8276億ウォン(約769億2522万円)を対北朝鮮支援機関に支出する予算を編成した。

同日、韓国財政部が今年9月時点の国家債務が約800兆ウォン(約75兆円)に達すると発表したにもかかわらず、8000億ウォンを超える国民の血税を北朝鮮に捧げるというのだ。

北朝鮮への支援を放棄しない一方、財政赤字が深刻化する韓国政府は日本政府に「話し合おう」と手を差し出している。

日韓両国のみならず、北朝鮮の東京五輪参加に触れるなど、北朝鮮との対話を提案したが、日本に金と物資の支援を求めたいのが本音ではないかと疑いたくなる。

元在韓日本大使の武藤正敏氏は2017年6月、書籍『韓国人に生まれなくてよかった』を出版し、「私が会った文在寅大統領の頭の中には北朝鮮しかなかった」と述べた。

 韓国は武藤氏を「嫌韓論者」と非難したが、現在の状況を見ると武藤氏は間違っていなかった。

一日も早くコロナワクチンを確保して、国民の生命を救うことを何よりも優先しなければならない。

それが為政者の務めというものだ。

ワクチンを確保できていないにもかかわらず、北朝鮮への支援しか頭にない文大統領に為政者の資格があるはずがない。

韓永(ハン・ヨン)
日韓関係、韓国政治・時事専門ライター


神父に「破廉恥なうそつきだ」…韓国元大統領、名誉毀損で有罪判決

2020-12-01 16:38:19 | 日記

神父に「破廉恥なうそつきだ」…韓国元大統領、名誉毀損で有罪判決

 【ソウル=建石剛】1980年5月に韓国で起きた民主化抗争「光州クァンジュ事件」にからみ、証言者(故人)の名誉を傷つけた罪に問われた元大統領の全斗煥チョンドゥファン被告(89)に対し、光州地裁は30日、懲役8月、執行猶予2年(求刑・懲役1年6月)の有罪判決を言い渡した。

左派の文在寅ムンジェイン政権下で、保守の大統領経験者が有罪判決を受けたのは、李明博イミョンバク氏、朴槿恵パククネ氏に次いで3人目だ。


30日、韓国南西部光州の裁判所に到着した全斗煥被告(中央、AFP時事)

 全被告は2017年に出版した回顧録で、抵抗する市民に軍のヘリコプターが機銃掃射したという目撃談を語った神父について、「破廉恥なうそつきだ」と記した。検察は18年5月、死者名誉毀損きそん罪に当たるとして在宅起訴した。

 公判の争点は、ヘリ射撃の有無と、全被告がそれを認識していたかどうかだった。全被告は公判で、「事件中に光州市内でヘリ射撃はなかった」などと起訴事実を全面的に否定した。だが判決は、別の目撃証言などをもとに、神父の証言は信用できると判断し、軍によるヘリ射撃を事実と認定した。

 さらに、全被告が当時、国軍保安司令官を務めていたことから、「当時の状況を正確に認識していた」と認め、「ヘリ射撃がなかったという主張は虚偽となるかもしれない、と認識しながら回顧録を執筆した」と断じた。


「日本海」単独表記、国際機関が指針維持を正式決定

2020-12-01 16:29:26 | 日記

「日本海」単独表記、国際機関が指針維持を正式決定

 

 韓国が日本海の呼称に「東海」の併記を求めている問題を巡り、国際水路機関(IHO)が先月末、公式の海図に日本海と単独表記する指針の維持を正式決定したことが分かった。

日本政府関係者が1日、明らかにした。

 


韓国、「逃げ切り策す」文在寅氏、ユン検察総長の首を切っても大統領の座を守る「卑怯」

2020-12-01 13:02:33 | 日記
勝又壽良のワールドビュー
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韓国、「逃げ切り策す」文在寅氏、ユン検察総長の首を切っても大統領の座を守る「卑怯」

『朝鮮日報』(11月26日付)は、「『自身の違法疑惑隠そうと検察を無力化』文大統領の総力戦」と題する社説を掲載した。

秋美愛(チュ・ミエ)法務部長官が尹錫悦(ユン・ソクヨル)検察総長に対して職務排除措置を取り、懲戒を請求したことに関して、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は25日も沈黙した。

自身は後ろに下がり、秋美愛長官を前面に出して、尹錫悦総長を辞任させようということだ。

与党・共に民主党の李洛淵(イ・ナギョン)代表は「法務部が明らかにした尹錫悦総長の容疑は衝撃的だ」として国政調査を推し進めると言った。

容疑だとも言えない容疑が衝撃的だという党代表の言葉の方がよっぽど衝撃的だ。事前に脚本を書いた上で動いている。

(1)「文大統領は、「積弊(前政権の弊害)」捜査を率いた尹錫悦氏を超スピード出世させて検察総長に任命し、「生きている我々の権力も顔色をうかがわずに捜査せよ」と言った。

しかし、尹錫悦総長が実際にチョ国(チョ・グク)前法務部長官一家の不正など、「生きている権力」を捜査するや、状況はガラリと変わった。

文大統領を「兄さん」と呼んだ柳在洙(ユ・ジェス)元釜山市経済副市長がわいろを受け取っても、監察を回避して昇進までしていた事実も、検察の捜査で明らかになった。

文大統領の「30年来の友人」を蔚山市長にするため青瓦台が総動員された選挙工作が、検察によって明らかになったのだ。検察の控訴状には「大統領」という言葉が40回近く登場する」

文在寅氏は、側近を庇うために必死である。

正邪の区別すらできないほど、権力を守るために、自らが任命した検察総長を追出さなければならない事態に落込んでいる。

進歩派は、軍事政権を蛇蝎のように嫌い批判する。人権弾圧では許されない行為を重ねた。

だが、一つだけの免罪符がある。朝鮮戦争で荒廃した韓国経済を現在の姿に立て直す基盤をつくった。

文在寅氏は、その遺産を食い潰しており、何一つ功績らしきものはないのだ。深く恥じ入るべきであろう。

(2)「文大統領は今年1月、秋美愛氏を法務部長官に任命した。秋美愛長官は就任するやいなや、政権の不正を捜査していた検事たちを「人事虐殺」で空中分解させた。

捜査を受けている被疑者が、捜査をしている検事を空中分解させる国は世界のどこにもないだろう。

そして政権不正捜査を中断させた後、「忠犬検事」たちを動員して逆攻勢に出た。

1カ月の間に4回も尹錫悦総長の監察調査を指示した。

与党が自ら「問題ない」と言っていた尹錫悦総長の家族の事件も「特捜部」を動員して再捜査している。

そうした中、今回はお話にならないこじつけの数々を理由にして職務停止にまでした。

文氏は、弁護士出身である。汚い手を知り尽くしている。それを今、すべて使って自分の身を守ろうとしている。

(3)「こうした混乱は一見、秋美愛長官と尹錫悦総長の泥沼の戦いに見える。

だが、それは現政権が意図する構図だ。

秋美愛長官は文大統領の行動隊長に過ぎない。

事の本質は、文大統領が自身の違法疑惑に対する検察の捜査を無力化させるため、秋美愛長官を前に立たせて尹錫悦総長が率いる検察を無力化させているのだ」

文氏も秋法務部長官も、私大卒である。ソウル大卒業のユン検察総長を追出して、「ソウル大」への恨みを晴らす。

そんなことすら空想するような不条理な振る舞いである。

学歴社会の韓国である。卒業した大学が生涯の出世コースに響くという。そういう矛楯を背負っているのだろうか。

(4)「既に「植物総長」になっている尹錫悦総長に対し、突然職務停止という無理筋までするのは、月城原子力発電所1号機の評価操作捜査と関連があるものと思われる。

月城原発1号機の早期閉鎖・経済性操作犯罪に文大統領が関与した明白な状況が監査院の監査で明らかになった。

これに対する検察の捜査の進ちょく状況を把握した青瓦台が、捜査を中断させるというショック療法を用いたのではないかということだ。

大統領の最側近である議員が検察に向かって「一線を越えるな」と言ったが、検察が収集した証拠が「一線」を越えた可能性がある。

ライム資産運用・オプティマ資産運用詐欺事件の捜査も政権にとって脅威となっている」

文大統領は、月城原発廃止の決め手にされた経営データねつ造を最も恐れているという。黒字であった月城原発を赤字に改竄して廃止に決めたからだ。検察捜査によって、その証拠が握られているという。こうなると、ユン検察総長に「消え」てもらわなければならないのだろう。

(5)「文大統領は、何とかして尹錫悦総長を追い出し、すべての捜査を阻まなければならない状況にある。

しかし、自ら乗り出す考えはなく、秋美愛長官を前面に立たせたのだ。

尹錫悦総長職務排除の本質は、自身の違法疑惑に対する捜査を何とかして覆い隠し、阻もうという文大統領の総力戦、それ以上でもそれ以下でもない」

文氏は、ここでユン検察総長を追出しても、政権が変れば必ず追跡されるはず。

「人権に時効はない」と徴用工問題で名言を吐いた文氏。

データねつ造による国家へ損害を与えた罪も消えるはずはない。

保守派が政権へ返り咲けば、文氏は最初に検察の取り調べを受ける身であろう。