中国東北部。
山海関より北・・北朝鮮やロシア、モンゴルとの国境付近・・太平洋戦争以前は満州と呼ばれた地。現在では遼寧省、吉林省、黒龍江省のいわゆる東三省がこれにあたり、哈爾濱(ハルビン)、長春(旧新京)、審陽(旧奉天)、撫順などの大都市が並びます。
かつてここは中国(漢民族)ではなく、異民族の世界でした。
古来、彼等異民族は中国本土の豊穣な土地、まばゆい文化・文明にあこがれ、常に南下を企て、あるものは撃退され、またあるものは『中国本土』 に侵入し、王朝を築くこともありました。契丹、女真、モンゴルなどの部族です。
次の表は中国の歴代王朝とその建国者をまとめたもので、青い字が異民族による王朝です。その最初が契丹(きったん)族であり、国号を遼といいます。
通称
国号(年代)
建国者(初代皇帝)
秦(前221~206)
始皇帝(瀛政)
前漢(前221~23)
高祖(劉邦)
新(8~23)
王莽(莽 巨君)
後漢(25~220)
光武帝(劉秀)
三国
魏(220~265)
文帝(曹丕)
呉(222~280)
大帝(孫権)
蜀(221~363)
昭烈帝(劉備)
西晋(265~316)
武帝(司馬炎)
東晋(317~420)
元帝(司馬睿)
南北朝 (420~581)
―
―
隋(581~618)
文帝(楊堅)
唐(618~907)
高祖(李淵)
五代十国
北宋(960~1127)
太祖(趙匡胤)
南宋(1127~1279)
高宗(趙構)
遼(907~1125)
太祖(耶律阿保機)・・・契丹族
西夏(1038~1227)
景宗(李元昊)・・・タングート族
金(1115~1234)
太祖(完顔阿骨打)・・・女真族
元(1279~1368)
世祖 フビライ・・・モンゴル族
明(1368~1644)
太祖 洪武帝(朱元璋)
後金(1616~1636)
清(1636~1911)
ヌルハチ・・・女真族 1636~1643 ホンタイジ 1644~1661 順治帝(愛新覚羅皇福臨)
1661~1722 康煕帝(愛新覚羅玄燁)
1723~1735 雍正帝(愛新覚羅胤禛)
1736~1795 乾隆帝(愛新覚羅弘暦)
1796~1820 嘉慶帝(愛新覚羅顒琰)
1821~1850 道光帝(愛新覚羅旻寧)
1851~1861 咸豊帝(愛新覚羅奕詝)
1862~1874 同治帝(愛新覚羅載淳)
1875~1908 光緒帝(愛新覚羅載湉)
1909~1911 宣統帝(愛新覚羅溥儀)
中華民国 (1912~1949)
中華人民共和国 (1949~)
(1) 遼、西夏、金は中国全域を治めた征服王朝ではありません。しかし中国の一部、あるいは相当の範囲を支配していたことは事実です。 (2) ヌルハチは後金の創始者ですが、皇帝は称していません。 彼等異民族は、中国からは中華思想上、蔑視される蛮族でもありました。
その蛮族である彼等が中国を支配し、一旦中国文明に接するや、自らも中華思想に毒され、あたかも古くからその思想を身に付けていたかのように振る舞い、弱体化していったのです。
■女真族
現在(2005年)60代半ば以上の人には記憶されている方も多いと思います。
1957年12月、学習院に通う少女が同級生と伊豆の天城山で心中事件を起し、マスコミに大々的に報道されました。この少女は女真族の王族の後裔なのです。
女真(じょしん)は女直(じょちょく)とも呼ばれ、中国東北部に居住したツングース系の民族で、女真、女直はこの民族の名前である『ジュルチン』の当て字になっています。
ツングースとはロシア語で、かつての満州、モンゴル、シベリア地域に住む民族の総称で女真をはじめ、粛愼、扶餘、靺鞨、モンゴル、オロチョンなどの民族があります。
この中で扶餘族は古代朝鮮の高句麗国を建国したことで知られます。
日本との関係も深く、はるか昔、日本海を渡って日本列島にたどり着いた部族もあるのです。
海を越えて日本にたどり着いたということで、その地名は越と呼ばれました。
旧国名でいえば、かつての越前・越中・越後です。
また日本神話のヤマタノオロチの話は、渡海したオロチョン族と先住者の出雲族(これもツングース系かもしれない)との戦いともいわれています。
高句麗が唐に滅ぼされた後、多くの高句麗人が日本に帰化したことはよく知られています。
大和朝廷は彼等の文化・文明を吸収すると共に、ある人は朝廷の高官に登用し、またある人には地方の開拓を要請したのです。
その土地には多くの場合、コマという地名がついています。
たとえば武蔵国高麗郡(埼玉県飯能市周辺)、武蔵国多摩郡狛江郷(東京都狛江市)、甲斐国巨麻郡(山梨県中巨摩郡・南巨摩郡)、河内国大県郡巨麻郷(大阪府柏原市周辺)、山城国相楽郡大狛郷・下狛郷(京都府相楽郡笠置町周辺)などがそれです。
12世紀の初め、女真族はやはり異民族の国・遼を滅ぼし、金という国を建国。
金は宋と戦い、一時は宋の首都、開封まで攻め込むほどの力を持っていました。
金を滅ぼしたのがモンゴル族で、彼等が建てた国が日本では元寇で知られる元です。
この時はじめて中国全土が異民族に支配されます。
金がモンゴルに滅ぼされた時、故地である満州(そのころは満州という名称はなかったが)はすでにモンゴルに制圧されており、女真族には帰る土地もなく、それまでの圧政を恨む漢民族からも攻撃され、壊滅的な状態に追い込まれました。
元は、漢民族である朱元璋(しゅ・げんしょう)に 『中国本土』 から追い出されます。
滅ぼされたのではありません。朱元璋の奮戦で中国は 『独立』 したので、モンゴル族は故地である草原に押し返されたのです。
朱元璋の建てた国が明です。
明の時代、女真族は部族ごとに編成され、部族長には官職と権利が与えられるという間接統治が行われていました。
16世紀、部族長の一人、ヌルハチは他の部族を統一。
民族名を満州に変え、金を引き継ぐという意味で国号を後金とし、明に対して宣戦を布告するのです。
国号はヌルハチの子、ホンタイジによって清となり、清は明に代わって中国全土を支配するようになります。
清は五代皇帝・乾隆帝の時、最盛期を迎えます。
しかしその後は急速に衰退し、欧米諸国や日本の侵略を受け、悲惨な時代が長く続くのです。
そして20世紀。
清王朝滅亡後、満州の地には女真族の子孫を元首とし、わずか13年と5ヵ月で消えて行った満州国という国があったのです。
■満州建国へ19世紀後半から20世紀初めにかけて、日本の対外的脅威は列強諸国のアジア侵略。特に帝政ロシアの南下でした。
1900年、義和団の事件に乗じてロシアが満州を占領すると、隣接する朝鮮半島が侵略されることを恐れた日本はイギリスとの日英同盟で対抗。
日露戦争(1904~5年)にかろうじて勝利した日本は、遼東半島と東清鉄道南部の租借権を確保するに至りました。
しかし戦後の日本は次第にロシアと共同し満州の権益確保に努めるようになり、アメリカ等の反発をまねくようになります。
1917年ロシア革命が起こりソビエト連邦が生まれると、共産勢力が広まることを恐れた日本はアメリカ、イギリス等の連合国とシベリアに共同出兵し、内政干渉を目論むも失敗。
しかし、これによって満州の地は共産主義への防衛基地としての重要度が高まり、日本の生命線といわれるようになるのです。
余談ながら、満州から朝鮮半島にかけて強大な軍事、あるいはそれに準ずる勢力が台頭することは、古代から近代にいたるまで日本の防衛上の脅威になっていました。朝鮮半島から日本まで、海があるとはいえわずかな道のりなのです。
一方満州の地は、清王朝の帝室の聖地として漢民族の入部が禁止されていましたが、日清戦争後はこれが解禁となり、辛亥革命後は中国人や朝鮮人の 『移民』 が急激に増加するようになります。
特に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の3省)は日本の開発もあって目覚しい発展を遂げていました。
これに目をつけた袁世凱は1907年、腹心の徐世昌(後に段芝貴)を東三省総督にし、自軍の一部を送り込み東三省を勢力下におさめると共に、ロシア、日本などの権益を押さえ込もうと画策します。
1916年、袁世凱が死去すると満州出身の軍閥・張作霖は、東三省での勢力拡大を画策する日本に協力し、袁世凱の配下で総督の段芝貴を失脚させ、東三省全域を勢力下にすることに成功しました。
これ以降、満州は日本をバックにする張作霖と、アメリカ、イギリスをバックにする呉佩孚(ご・はいふ)の戦いが展開されるのです。
最終的に勝利したのは張作霖でしたが、時代の波はここにも押し寄せてきました。蒋介石率いる国民党軍の侵攻です。
しかし最初国民党はアメリカやイギリスの支持を得られず、一時的に撤退。
1926年12月張作霖は北京で大元帥となり、中華民国の主権者であることを宣言します。
1928年4月、アメリカやイギリスの支持を得ることに成功した蒋介石は、他の軍閥である閻錫山、馮玉祥と共に再び北伐を開始します。
これに対して張作霖は蒋介石軍と北京で決戦しようと考えていましたが、関東軍(満州における日本軍はこう呼ばれた)は、もし張作霖が負ければ国民党軍が山海関から満州に侵入して来ることを恐れ、張作霖には戦わず満州に帰るよう警告していました。
しかし張作霖はこれを無視して国民党軍と戦い、敗れてしまうのです。
日本政府(田中義一首相)は張作霖を東三省で再起させようと考えましたが、すでに満州国の構想を持ち始めていた関東軍にとって、張作霖の利用価値はなくなっていいました。
1928年6月4日。
敗れた張作霖が北京から撤退する途中、奉天(瀋陽)駅から1キロの地点で、乗った列車が爆破され張作霖は死亡。
中国軍のしわざにしようとした関東軍の隠蔽工作はすぐばれて張作霖の子、張学良を中心に大規模な抗日運動が巻き起こるのです。
1931年9月18日。
柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破されると、関東軍はこれを中国軍の仕業と断定。
実際は関東軍の謀略でしたが、関東軍は直ちに出動し、わずか5ヵ月で満州全域を占領してしまうのです(満州事変)。
この作戦計画の立案者は石原莞爾。総司令官は板垣征四郎でした。
板垣征四郎(1885~1948)は1929年関東軍高級参謀、1934年満州国軍政部最高顧問、1939年支那派遣軍総参謀長等を歴任。東京裁判では死刑を宣告されました。
石原莞爾(いしはらかんじ 1889~1949)は1918年、陸軍大学を主席で卒業するほどの秀才で、在学中の数々の奇行、また熱心な日蓮宗徒としても知られます。
1930年、石原は 『満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究』 を脱稿し満蒙領有計画を立案しています。(満蒙とは満州とモンゴルのこと)
石原は東京裁判では起訴はされず、参考人として出廷したにとどまりました。
満州国建国も石原の計画の一部で、柳条湖事件はその手始めなのです。
この時期石原はすでに仮想敵国としてソ連とアメリカを想定しており、
満州はソ連の南下を防ぎ朝鮮への進入を阻止することと、アメリカとの長期戦に備えて日本の自給自足圏となりうると考えていました。
当時の日本は長い不況から抜け出せず、人口は増加するものの国内には受け入れる余地はなく、
アメリカ等への移民がこの問題を解決するかに見えましたが、
1924年には肝腎のアメリカが排日移民法を成立させ、受入れ不可能になったのです。
そこへ満州事変が起こり、満州はにわかに脚光を浴びるようになりました。
1932年2月には東三省の要人が関東軍司令部に招かれ、東北行政委員会という満州国独立プロジェクト(?)が発足。
2月18日には早くも国民党政府に対し、独立宣言を発し、3月1日には清王朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政とする新国家、満州国が誕生するのです。首都は新京(現在の長春)。
執政就任式に臨む溥儀
(左から2人目)
しかし、満州国が日本の傀儡国家であったことは誰の目にも明らかでした。リットン調査団の報告を受けた国際連盟は満州国を認めず、満州からの撤退を要求された日本は国連を脱退し、国際的にますます孤立することになります。
(もっとも国連で否認されたとはいえ、ドイツ、イタリア、スペインをはじめ、23カ国は満州国を承認していました。)
そして1934年3月1日、溥儀は念願の満州国皇帝に即位するのです。
■五族協和満州国は建国の理念として、『五族協和の王道楽土』 を謳いあげました。
五族協和とは満州人、蒙古人、漢人(漢民族)、日本人、朝鮮人で、これら民族が一致協力し 『多民族国家』 として国づくりを行うことでした。
また王道とは中国において古代より唱えられた言葉で、
武力を以って国を治める者を覇者、その方法を覇道といい、
徳望を以って治める者を王者、その方法を王道といいます。
欧米諸国のアジア侵略を覇道とし、それに対抗すべく王道と称したのです。
(1) 満州には五族以外にも、ロシア革命を逃れて満州にやって来たいわゆる白系ロシア人や、ナチスの迫害から避難してきたユダヤ人も数多くいました。 (2) 王道は中国における理想的政治スタイルとされました。たとえば三国志演技の劉備もこれに基づく人として描かれています。しかし現実の中国史で、王道を以って国を治めた王・皇帝など皆無で、歴代王朝はいずれも武力で建国し、武力で倒されたのです。
満州国旗 満州国の建国の理念は、今日においてもタテマエ上はなかなかのものがあります。
特に欧米諸国のアジア・アフリカへの侵略が日常茶飯事だった当時、異民族同士(五族)が力を合わせて国づくりを行うというスローガンは信じられないくらい現代的なものでした。しかし、国内の実態は・・・・
政治は溥儀を元首とし、諮問機関の参議府、行政機関である国務院が置かれ、東北行政委員会の委員長、張景恵が国務院総理に就任しましたが、実際は関東軍と日本の在満大使によって行われていました。
執政(溥儀)には国務院総理や各大臣の任命権がありましたが、実際には関東軍の同意なしでは権利の行使は不可能だったのです。
議会はあっても選挙は一度も行われず、政党の結成は禁じられており、政治団体としては日本の大政翼賛会のような協和会という団体が存在し、行政指導や政策の国民への指導が行われていました。やはり満州国は関東軍の傀儡政権といわざるを得ません。
# & ♭
人口は急激に増加したようです。
移民は中国からも、朝鮮からも、日本からもありました。
日本政府はこれを満蒙開拓団と称して奨励し、バックアップしたのです。
当然ながら、これらの日本からの移民の多くは日本人意識が抜けず、古くから現地にいた満州人とのトラブルに発展することも多く、関東軍に土地を取り上げられた農民(現地人)の暴動さえ起こりました。
このことは、戦後になって開拓団が現地人に襲撃される原因にもなったのです。
当時満蒙開拓団には名指揮者小沢征爾(1935~)の父親がいました。征爾の名は板垣征四郎と石原莞爾から名付けられています。
満州は中央部は農業中心でしたが、周辺の草原、山岳地帯には鉄鉱、炭田、油田があり、これを利用する産業が発展しました。日本政府主導による経済政策は成功をおさめ、重工業を中心とする産業が急速に発展していったのです。
満州の企業の中で最も有名だった南満州鉄道株式会社(通称 満鉄)は、日露戦争後ロシアから譲渡された東清鉄道の一部(新京~大連)と、日露戦争中に日本が物資輸送のため建設した鉄道(安東~奉天)を維持するため、1906年につくられた半民半官の国策会社です。
初代総裁は後藤新平、本社は大連、支社は東京にありました。
同社は鉄道経営だけでなく、炭鉱開発、製鉄、湾岸、ホテル、学校などの建設・経営も行い、満州開発の中心的存在で、ここから独立したのが、李香蘭などを生み出した満州映画協会(通称 満映)です。
満鉄といえば、その技術の粋を集め、1934年11月に運行を開始した大陸縦貫特急列車のあじあ号という列車がありました。
モダンな外観とスカイブルーに塗装された蒸気機関車(パシフィック7型)に牽引されたあじあ号は、平均速度82.5Km、最高速度120Km。
それまで2日かかっていた新京~大連間701Kmを8時間30分でつないだのです。
当時日本国内での最高速列車は特急燕で平均速度60.2Km、最高速度95Kmでした。
あじあ号(奉天駅にて)
スマートなスタイルは『流線型』という新語を流行させ、婦人服のデザインにも取り上げられた速度でいえば、当時イギリス、アメリカなどでは最高速度150Km以上の列車はいくつかあり、あじあ号は世界の平均レベルに到達したにすぎませんでしたが、車内の空調設備は世界最高水準でした。
満州の厳しい気候(真夏は30℃以上、真冬は氷点下3~40℃)に対応するため、密閉式の二重窓と全車に冷暖房設備を備えていたのです。日本では燕号の食道車に冷房があった程度です。
インフラ整備という面では1942年、哈爾濱(ハルビン)~長春(新京)~瀋陽(奉天)~大連をつなぐ全長900Kmの高速道路・哈大道路の建設がはじまっています。
しかし3年後には敗戦となり、一部の工事が完成したのみで計画は頓挫してしまいました。
その後この工事は中国に引き継がれましたが、日本の技術援助があって、瀋陽~大連間375Kmが瀋大高速公路として開通したのは1990年のことだったのです。
また豊満ダム(吉林省)、水豊ダム(鴨緑江)などは地域の電力事情に多大な貢献をし、現在もなお稼動中です。
■崩壊太平洋戦争の初期、満州は南方戦線からは遠く、その上、日ソ中立条約のためソ連とは戦闘は起こらず、見かけ上は平穏な日々が続きました。
しかし戦局の悪化にともない、関東軍からも精鋭部隊は次々に南方に派遣され、徐々に、そして急激に戦力は低下していったのです。
1945年5月にはドイツが降伏。
硫黄島や沖縄がアメリカ軍の手に落ち、もはや戦局は日本にとって絶望的な状況になってきました。
8月8日。ソ連は、ヤルタ会談における連合国首脳との秘密協定によって一方的に日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告。
9日は怒涛の勢いで満州に侵攻してきました。
これを防衛すべき関東軍は武器、兵力共に大幅に不足し、各地で撃破されるありさまでした。
皇帝溥儀はソ連侵攻の情報に新京を放棄し、大栗子に移動。
ここで日本の無条件降伏の放送を聴き、17日に国務院は満州国解体を決定。
18日に溥儀は退位の詔勅を読みあげ、満州帝国は建国よりわずか13年5カ月で消滅したのです。
日本は降伏し、満州国は消滅し、関東軍はまさに孤軍となりました。
ソ連軍に降伏した関東軍兵士には日本への帰国は許されず、シベリア等の極寒の地に抑留され、過酷な労働に従事することになります。
しかし、それ以上に悲劇的なのは日本の民間人で、特にソ連・満州国境近くに住んでいた満蒙開拓団の人達は関東軍に置き去り同然にされたのです。
満蒙開拓団の人達は避難する途中で多くの人が前途を悲観して自決し、あるいは襲ってきたソ連兵、抗日中国・朝鮮人に虐殺され、生き残った人も捕虜となり、シベリア等各地に抑留されることになるのです。
いわゆる中国残留孤児は、この混乱の中で家族にはぐれ、あるいは家族を虐殺されて孤児になって現地の中国人達に保護された人達を指します。
1946年4月、ソ連軍は満州を蒋介石の国民党軍に返還。
このころは国民党軍の方が優勢でしたが、
1947年になると共産党軍は反攻を開始し、満州では各地で八路軍(共産党の軍)が蜂起し、1948年9月の戦い(遼瀋戦役)に勝利した共産党軍は、その後2ヵ月の戦いで満州を完全に占領したのです。
(お断り)
現在中国では、かつての日本の侵略と密接な関係があるため、満州という呼称は使用しておらず東北部、満州国は偽満州国と呼んでいます。しかし過去においてこの地が満州といっていたこと、満州国という国があったのは歴史の事実なので、本編では現状にこだわらず、満州と呼びます。