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東郷 茂徳

2020-12-09 15:54:14 | 日記
<span style="color:blue;">東郷茂徳


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日本の旗 日本の政治家
東郷 茂徳
とうごう しげのり

Shigenori Togo.jpg

生年月日
1882年12月10日

出生地
日本の旗鹿児島県日置郡苗代川村

没年月日
1950年7月23日(67歳没)

死没地
日本の旗東京都

出身校
東京帝国大学

所属政党
無所属倶楽部

配偶者
東郷エヂ

子女
東郷いせ

日本の旗 第71代 外務大臣
第4代 大東亜大臣


内閣
鈴木貫太郎内閣

在任期間
1945年4月9日 - 1945年8月17日


日本の旗 第65代 外務大臣


内閣
東條内閣

在任期間
1941年10月18日 - 1942年9月1日


日本の旗 第21代 拓務大臣


内閣
東條内閣

在任期間
1941年10月18日 - 1941年12月2日


日本の旗 貴族院議員


在任期間
1942年9月1日 - 1946年4月13日
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東郷 茂徳(とうごう しげのり)1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。


目次 [表示]


略歴​[編集]

生い立ち​[編集]

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萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた[1]。

苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった[2]。薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った[3]。

苗代川の住民の多くは「郷士」よりも下の地位に位置づけられたが、前記の保護ともあわせて手厚く遇された[3]。

しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には苗代川の男子364人の連名で「士籍編入之願」が鹿児島県庁に提出された[4]。

この364人の中には、祖父・朴伊駒も名を連ねていた[1]。

しかし、士族への編入は1885年の最後の請願まで却下され続けた[1]。

その翌年にあたる1886年、朴家は東郷を名乗る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、9月6日付で当時満4歳まであと3ヶ月だった茂徳は「東郷茂徳」となった[5]。な

お、鹿児島では「東郷」姓はありふれたもので、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係である[5]。茂徳の父・壽勝は陶工ではなかったものの、雇った陶工の作った作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いたという[6]。

鹿児島県尋常中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)から1901年9月に、新設されたばかりの旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)に進学[7]。

ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。

そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった[8]。

これに前後して、2年生の時に父の強い反対を押し切り、文科大学志望を明確にした[9]。

1904年9月、東郷は東京帝国大学文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任[10]。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した[10]。

1905年(明治38年)5月、大学の文芸雑誌『帝国文学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト(ドイツ語版)』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと)を題材とした文芸批評が掲載された[11]。これは東郷の唯一の文芸批評である。

また、翌年1月に片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に初めて「青楓」の雅号を用いている[12]。東大時代の前半は登張の影響でドイツ文学者を志していた。

二度のドイツ赴任​[編集]

1908年7月、東京帝大文科大学独文科を卒業。病気療養を理由に休学したため卒業まで通常より1年多く要し、卒業時は小宮豊隆と同期であったが、東郷は後年会った際に小宮を知らなかったという[13]。

卒業に際しては母校の七高から来たドイツ語教授招聘の話を断り、明治大学のドイツ語講師を務めたりしたのち、1912年(大正元年)に外交官及領事官試験に3度目の受験で合格し、外務省に入省した[14]。同期に天羽英二(元内閣情報局総裁)。

1919年(大正8年) - 1921年(大正10年)に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。

また、東郷はこの赴任時にユダヤ系ドイツ人[15]エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人、旧姓ピチュケ Pitsschke[16])と出会い、恋仲となる。

ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年帝国ホテルで挙式した。

1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)に駐独大使となったが、この際にはナチスが勃興しており、状況は一変していた。

対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。

元々ドイツ文学に傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。

日ソ中立条約の交渉​[編集]

1938年(昭和13年)に東郷は駐ソ大使として赴任した。

それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。

その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。

こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争(支那事変)の打開のため、日本側はソビエトの蔣介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。

しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。

松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に懲戒免職を求めて相手にしなかった。

なお、その後に松岡が締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟が成立していたこと、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていたこと、ソ連とナチスドイツとの関係が悪化したことなどによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。

結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。

加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蔣介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となったことにより、東郷には不満が残る結果となった。

外相経験もある元老西園寺公望は、東郷が松岡によって駐ソ連大使を更迭され外務省から追われそうだとの風説を自らの死の床にて聞き及び、深く慨嘆したと言われている。

開戦回避交渉​[編集]

1941年(昭和16年)10月、東條内閣に外務大臣として入閣する。

大命降下を受けた東條はもともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。

外務省における東郷は職業外交官としての手腕には定評があったが、主流派とは言えず、打ち解けない性格から省内人脈も少なかった。

外相に就任した東郷は次官に西春彦、アメリカ局長に山本熊一(東亜局長兼任)、アメリカ課長に加瀬俊一(としかず)を迎えて対米交渉の布陣とし、また分裂する省内を引き締めるために枢軸派の大使1名に辞表提出を求め、その他課長2名・事務官1名を休職として統制を回復した[17]。

東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。

まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。

このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。

内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。

その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、ハル・ノートを「最後通牒」であると上奏、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。

吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。

真珠湾攻撃へ​[編集]

日本との戦争宣言に調印を終え微笑む フランクリン・ルーズベルト大統領と幕僚達

1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、昭和天皇から東條英機総理大臣に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。

また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。

このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始。

山本五十六連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。

しかし、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となってしまった(通説では駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際が原因とされるが、異説も存在する)。

また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。

開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。

しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。

東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。

外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られる。

終戦交渉​[編集]

1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。

獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。

致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。

1945年(昭和20年)4月、東郷は終戦内閣である鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任する。

「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」[18]という鈴木貫太郎首相の言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。

当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていた。

対ソ交渉​[編集]

東郷は和平に向けた意見交換の場を設けるため、総理大臣・外務大臣・陸海軍の大臣および統帥の長(参謀総長・軍令部総長)の6人による会合を開くことを他の5人に提案する[19][20]。

当時、最高意思決定機関としては、この6人に加えて次官級が出席する最高戦争指導会議があったが、この席では軍の佐官級参謀が作成起案した強硬な原案を審議することが多く、それを追認する形になりがちであった[19][20]。

東郷はトップが下からの圧力を受けずに腹蔵なく懇談できる会議を求めたのである。他の5人もこれに賛同し、内容は一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになった。

1945年5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になった。

そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案した。

これに対し陸軍大臣の阿南惟幾は、日本は負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止を主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷の見解に反対する。

結局、米内光政海軍大臣が間に入り、まずソ連の参戦防止と好意的中立の獲得を第一目的とし、和平交渉はソ連の側の様子をみておこなうという方針が決定された[21][22]。

この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、南満州の中立化などを容認することで一致した[21][22]。

この決定を受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元総理を、疎開先の箱根に滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣し、ソ連の意向をさぐることにした。

マリクと広田は旧知の間柄であった。

しかし2度の会談ではお互いが自らの意見は明確にせず、相手の具体的要求を探る形に終始した[23]。

マリクにはソ連の対日参戦の意向は知らされていなかったが、モロトフ外相に対する会談の報告には「具体的な要求を受け取らない限りいかなる発言もできないと回答するつもりだ」と記した[24]。

これに対してモロトフはこの立場を支持し、今後は広田からの要請でのみ会談をおこない、一般的な問題提起しかなければその報告は外交クーリエ便だけにとどめよと訓令した[25]。

その後、広田とマリクは2度の会談をおこない、6月29日の最後の会談では日本の撤兵を含む満州国の中立化・ソ連の石油と日本の漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論の用意を条件として挙げたが、成果をあげることなく終わった[26][27]。

モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申したが、東郷の受け入れるところとはならなかった。

この最高戦争指導会議構成員会合の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデン、スイス、バチカンなどでおこなわれていた陸海軍・外務省などの秘密ルートを通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになった[28]。

ソ連大使時代に苦労をした東郷はもともとソ連外交の狡猾さを知り尽くしていたはずにもかかわらず、東郷は結果的にはソ連に期待する外交を展開してしまったわけである。

これについては、ソ連大使時代から気心を通じていたモロトフ外相の心情に期待したのだという説もあるが[要出典]、当時外務省で東郷に直接仕えていた加瀬俊一(としかず)が証言するように、強硬派の陸軍が、ソ連交渉だけなら(中立維持のための交渉という前提で)目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的である。

また昭和天皇がソ連交渉には好意的であったことも東郷の考えに影響していた。

東郷自身はポツダム宣言受諾後の8月15日に枢密院でおこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合いに事態を導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏が前提になるとみられたので放棄し、ソ連への利益提供で日本の利益にかなうよう誘導して終戦に持ち込むことが得策とされたと述べている[28]。

ソ連側の態度が不明なまま時間は推移していく中、6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定された。

鈴木・東郷・陸海軍は近衛文麿元総理をモスクワに特使として派遣する方針を決め、7月に入り、ソ連側にそれを打診した。しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談の準備のため忙しいということで近衛特使案の回答を先延ばしにするばかりであった。こうして7月26日のポツダム宣言に日本は直面することになる。

ポツダム宣言を知った東郷は、「1.この宣言は基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連が宣言に参加署名していないことや内容に曖昧な点があるため、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、ソ連との交渉と通じて曖昧な点を明らかにするべきである」という結論を出し、参内して天皇と話しあった[29]。

このとき、昭和天皇がポツダム宣言に対してどのような反応を示したかは不明確である。

東郷自身のメモでは「このまま受諾するわけにはいかざるも、交渉の基礎となし得べしと思わる」と述べたという[30]。

一方、東郷の部下だった加瀬俊一(としかず)は「原則的に受諾可能と考える」と述べたと記しているが、纐纈厚はこの発言は確認不可能で、「天皇は、特に宣言に重大な関心を示さなかったという」と記述している[31]。

天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見に賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めた[32]。

しかし阿南陸相は東郷の見解に猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を主張する。

またもともと和平派的立場だった鈴木首相と米内光政海軍大臣は、「この宣言を軽視しても大したことにはならない。ソ連交渉で和平を実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解であった。

結局、ポツダム宣言に対しては「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。

しかし、アメリカの短波放送がすでに宣言の内容を広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えることとした。

だが、7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)といった表現が現れた[33]。28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた[33]。同日、鈴木首相の会見は「三国共同声明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては何等重大な価値あるものとは思はない、ただ黙殺するのみである。

われわれは戦争完遂に飽く迄も邁進するのみである」という表現で報じられた[34]。連合国はこの日本語を「reject(拒否)」と訳した。東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している

こうして8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになる。

終戦の実現​[編集]

事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。

しかし阿南陸相は、皇室の安泰以外に、武装解除は日本側の手でおこなう、占領は最小限にし東京を占領対象からはずす、戦犯は日本人の手で処罰する、との4条件説を唱え、これに梅津陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になった。

特に東郷・米内と阿南の間では激しい議論が続いた。

「戦局は五分五分である」という阿南に対し「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」と米内は反論した。

また「本土決戦は勝算がある」と主張する阿南・梅津に対し「もし仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、我が方はそこで戦力が尽きるのは明白である。

敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行するに違いない。それ以降まで我が方が勝てるという保証はまったくない」と東郷は主張した。

この会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下されている。

会議は深夜にいたり、天皇臨席の御前会議となった。

鈴木首相は議論の収集がつかない旨を天皇に進言、結論を天皇の聖断にゆだねる旨を述べた。

天皇は外務大臣の案に同意であると発言、またその理由として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていないこと、このまま戦いを続ければ日本という国がなくなってしまうことなどを述べた。

こうしてポツダム宣言の受諾は決まった。

その受諾案において東郷は「皇室の安泰」という内容を(国体護持を講和の絶対条件とする抗戦派への印象を和らげるため)「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下」としていたのに対し、平沼の異議を受け「天皇の国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる了解の下」と変更が加えられた上で、天皇が受諾を決定したのである[35]。

東郷は原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一(しゅんいち)公使へ指示するに促し、「大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり… 罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして…」と述べた。また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしている。

日本の降伏に関して、天皇や皇室は終戦後の日本の混乱を収拾するために必要な存在であるとの認識は、連合国の政府に少なからず存在した。

しかし「天皇の統治大権に変更を加えない」という受諾案はアメリカ首脳の間に波紋を与えた。トルーマン大統領は、ホワイトハウスで開いた会議で「天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することができるか、条件付きの宣言受諾を考慮すべきか」と問いかけた[36]。

出席者の中でフォレスタル海軍長官やスティムソン陸軍長官、リーヒ海軍元帥は日本側回答の受諾を主張したが、外交の中心人物であるバーンズ国務長官が「なぜ日本側に妥協する必要があるのかわからない」と反論して、トルーマンがこれに賛同する[36]。

フォレスタルが「(連合国側が)降伏の条件を定義する形で日本の受諾を受け入れる」という妥協案を示し、トルーマンがこれを受け入れてバーンズに回答文の作成を命じ[36]、天皇皇室に関しては曖昧にこれを認めるという回答文が日本側に8月12日に提示されることになった。

この「バーンズ回答」によると、天皇は「連合国最高司令官の権限に従属する (subject to)」こと、そして「天皇制度など日本政府の形態は日本国民の意思により自由に決定すること」と記されていた。

これは巧みな形で天皇・皇室の維持を認めている曖昧な文章であった。阿南陸相、梅津参謀総長などはこの回答に対し、天皇皇室に関して曖昧なので連合国に再照会すべきだと強硬に主張し、ふたたび政府首脳は議論の対立に陥った。

東郷と米内海相は再照会は交渉の決裂を意味するとして反論したが、当初はポツダム宣言受諾に賛成していた平沼枢密院議長が陸軍に同意するなどして事態は混乱、12日深夜、失意と疲労に満ちた東郷はいったん辞任を表明しかけてしまう。

東郷の辞意に驚いた鈴木首相は再度の御前会議により事態の収拾をはかることを東郷に約束、辞意を翻させた。

こうして14日、昭和天皇が二度目の「聖断」として東郷支持を涙を流して表明したことにより、陸軍の強硬派もようやく折れ、ポツダム宣言受諾を迎えた。阿南は終戦の手続きに署名したのち論敵だった東郷を訪れ、「色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べた。

あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去った。阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌15日未明、自殺する。

人前で涙など見せたことのない東郷だが、阿南自決の報に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙した。

極東国際軍事裁判​[編集]

戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。

しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。


終戦の翌年の1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。

弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官だった西春彦(後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ山岡らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当した。

裁判は1947年(昭和22年)12月15日に東郷の個人反証に入った。

この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて臨んでいる。

検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられた。

特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海軍大臣とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となった。

開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。

余は余の責任をいささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない。」と、如何に軍国主義者と対立してきたかを、口述書に述べた。

これに対して、永野修身の担当弁護人のジョン・ブラナンが、海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか、と東郷に質問した。

すると、「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ」と脅迫を受けたかのような証言をした。

この発言を「海軍の名誉に関する重大事」と判断した嶋田は、証言台において「よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。

すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈。」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段を使った。

すなわち、イカのスミを出して逃げる方法を使ったと。すなわち言葉を変えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉を使って逃げたと。」と反論した。

東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、決して悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、嶋田の弁護人だった法制史学者の瀧川政次郎を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となった。

それ以外にも、木戸幸一が天皇が和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べた。

特に梅津とは声を荒らげてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人のウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もあった。

このように、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの」と歌に詠んで批判している[注釈 1]。

1948年(昭和23年)11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された[注釈 2]。

東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。

だが、1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされないと考える西春彦や石黒忠篤(東郷の親友、当時参議院議員)らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生している。

東郷は以前から文明史の書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死した。享年69(満67歳没)。

評価​[編集]

東郷茂徳は平和主義者・和平派であると知られているが、東郷が採ったソ連を仲介者とする和平工作は愚策との厳しい意見もある。

東郷はソ連が同年2月のヤルタ会談で、対日参戦の密約を米英と結んでいた事は当然知らなかった。

東郷は広田弘毅元首相によるマリク・駐日ソ連大使との交渉に賭けたが、会談は6月3日の開始からもたつき、7月14日に中断するまで成果はなかった。

駐ソ日本大使だった佐藤尚武は戦後に「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。

7月26日に発表されたポツダム宣言について、東郷がポツダム宣言は拒絶せず、少なくともソ連から返事が来るまで回答を延ばすように待つという意見を述べ、それが採用された。

その結果、ポツダム宣言の対応が遅れ、2発の原爆投下とソ連の対日参戦を招いた[37]。

ただしアメリカ海軍提督・大統領主席補佐官であるウィリアム・リーヒは、ソ連を仲介とする和平をしたことを意図的に無視したトルーマンを非難している。

簡潔に言えば、東郷は小磯国昭内閣で重光葵外相が進めたスウェーデンを仲介者とする和平工作を打ち切り、スウェーデン政府の和平仲介中止を指令し、仮想敵国で対日参戦を伺っているソ連を和平仲介に選び、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平に固執し続けた。

しかし8月9日のソ連の対日参戦により和平工作は水の泡となった。

東郷は戦後に記した回想『時代の一面』の中で、アメリカからの仄聞として「ジョセフ・グルーらが作成した対日講和宣言案がポツダムに携行されたところに、ソ連側から日本に講和の意思ありと伝えられたため準備した案がポツダム宣言として出された」とし、「それなら天皇の大御心はソ連首脳に通じただけではなく、連合国首脳に伝達されてポツダム宣言という“有条件の講和”に導き得たといえるのだから、あのときの(ソ連に対する)申し入れは結果として大体において功を奏したといって差し支えないだろう」と弁明している[38]。

しかし、実際にはアメリカ側はソ連から知らされるよりも先に、東郷と佐藤駐ソ大使の間で交わされた外交電報の傍受解読によって、日本がソ連を仲介とした和平交渉に乗り出したことを察知していた[39]。

ただし、ソ連の仲介によって「無条件降伏」ではないよりよい条件の講和を得られるのではないかという期待は、東郷個人にとどまらず、木戸幸一や昭和天皇自身も含めた政府の「和平派」に共通したものであったという見解も存在する。

長谷川毅は「まさにモスクワの斡旋は日本の為政者にとって、苛酷な現実から逃避する阿片であった」[40]「天皇制の維持についてより有利な条件を引き出そうとする欲張った期待がモスクワへの道という誘惑に彼ら(引用者注・和平派)を誘ったのである」[41]と記している。

年譜​[編集]


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1882年(明治15年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村大字苗代川、現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説あるが、戸籍上は12月10日)。
1886年(明治19年) 父・朴寿勝が鹿児島城下士の東郷某の士族株を購入し、「東郷」姓を名乗る。
1888年(明治21年) 下伊集院村立下伊集院尋常高等小学校(後の美山小学校)へ入学。
1896年(明治29年) 鹿児島県尋常中学校(後の鹿児島県立鶴丸高等学校)へ入学。
1901年(明治34年) 第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)へ入学。
1904年(明治37年) 東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。
1908年(明治41年) 東京帝国大学を卒業。
1909年(明治42年) 明治大学でドイツ語教師として勤務。
1912年(大正元年) 外交官及び領事官試験に3度目の挑戦で合格。
1913年(大正2年) 奉天総領事館領事官補。
1916年(大正5年) スイス・ベルン公使館開設に伴い、外交官補として赴任。
1919年(大正8年) 対独視察団の一員としてベルリンへ赴任。
1921年(大正10年) 日本へ帰国、外務省欧米局一課事務官。
1922年(大正11年) エディ・ド・ラランド(東郷エヂ=東郷茂徳夫人、ユダヤ系ドイツ人)と結婚。
1923年(大正12年) 外務省欧米局一課課長。主に対ソ交渉を担当。長女いせ誕生。
1926年(大正15年) 在米大使館主席書記官としてワシントンへ赴任。
1929年(昭和4年) 日本へ帰国後、満州へ出張、その後ドイツ大使館参事官として赴任。
1932年(昭和7年) 一般軍縮会議(英語版)日本代表部事務総長としてジュネーヴへ。
1933年(昭和8年) 帰国、外務省欧米局長に就任(この年交通事故で全治1ヶ月の重傷を負う)。
1935年(昭和10年) 北満鉄道をソ連から譲渡。
1937年(昭和12年) 駐独大使としてベルリンへ赴任。
1938年(昭和13年) 駐独大使館付陸軍武官大島浩が駐独大使に新たに任命され、駐独大使罷免。重光葵の後任駐ソ大使として、モスクワへ赴任。
1940年(昭和15年) ノモンハン事件勃発後の捕虜交換、国境確定交渉を締結。ヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相と日ソ中立条約の交渉を開始。松岡洋右外務大臣より帰朝命令が出され、帰国。
1941年(昭和16年) 東條内閣の外務大臣に就任。日米交渉決裂し、太平洋戦争開戦。日独伊単独不講和協定、日泰攻守同盟条約締結。
1942年(昭和17年) 大東亜省設置に反対し、外務大臣を辞任。貴族院議員に勅選される(1942年9月1日 - 1946年4月13日)。 12月24日、院内会派・無所属倶楽部に入会。

1943年(昭和18年) 長女いせと本城文彦が結婚、本城文彦が東郷家に入籍し東郷文彦となる。文彦は戦後外務事務次官や駐米大使を歴任する。
1945年(昭和20年) 鈴木貫太郎内閣の外務大臣兼大東亜大臣に就任。ポツダム宣言受諾により鈴木内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1946年(昭和21年) 開戦時の外相だったために、A級戦犯として指定され、巣鴨拘置所へ入獄。
1948年(昭和23年) 極東国際軍事裁判により、禁錮20年の判決が下る。
1950年(昭和25年) 黄疸により米陸軍第361病院(現同愛記念病院)に入院。 7月23日、動脈硬化性心疾患、及び急性胆嚢炎の併発により死去。67歳。墓所は青山霊園。

1978年(昭和53年)10月17日、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀。

栄典​[編集]
位階1913年(大正2年)1月30日 - 従七位[42]
1917年(大正6年)1月31日 - 正七位[42]
1919年(大正8年)8月11日 - 従六位[42]
1922年(大正11年)1月20日 - 正六位[42]
1924年(大正13年)2月15日 - 従五位[42]
1929年(昭和4年)7月15日 - 正五位[42]
1934年(昭和9年)7月16日 - 従四位[42]
1937年(昭和12年)11月15日 - 正四位[42]
1940年(昭和15年)12月2日 - 従三位[42][43]
1942年(昭和17年)9月29日 - 正三位[42]
勲章等1916年(大正5年)4月1日 - 勲六等瑞宝章[42]
1920年(大正9年)9月7日 - 勲五等双光旭日章[42][44]
1926年(大正15年)2月10日 - 勲四等旭日小綬章[42][45]
1931年(昭和6年)11月7日 - 勲三等瑞宝章[42]
1934年(昭和9年)4月29日 - 勲二等瑞宝章[42]
1938年(昭和13年)11月2日 - 旭日重光章[42]
1940年(昭和15年)4月29日 - JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg 勲一等旭日大綬章[42]
1941年(昭和16年)5月9日 - JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg 勲一等瑞宝章[42][46]
外国勲章佩用允許1938年(昭和13年)4月6日 - DEU Deutsche Adlerorden 1 BAR.svg ドイツ鷲勲章大十字章[47]
1942年(昭和17年)2月9日 - Order of the White Elephant - 1st Class (Thailand) ribbon.svg 勲二等白象勲章[48]

家族​[編集]

妻はドイツ人のエディータ(Editha Giesecke, 婚約後に「東郷エヂ」と改名、1887-1967)。

ユダヤ人女性Anna Gieseckeとドイツ貴族の私生児として生まれたが、父は去り、出生まもなく母も自殺したため、母の妹夫婦の養女となり、養父のPitschke姓を名乗る[49]。

露清銀行に勤めていた養父の日本支店転任に伴い15歳で来日したが、養父が急死したため養母が神戸で民宿を闇営業して糊口をしのいだ[49]。

17歳のとき、滞日中だった16歳年上のユダヤ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデに見初められ、1905年に結婚[49]。

このとき嫉妬した養母がエディの出生の秘密を口外したという[49]。

5人の子をもうけたが9年後夫と死別し帰国[50][49]。

子供たちを施設などに預けて働き始めたが、恋仲となった東郷がベルリンに家を借り子供を呼び寄せ同棲。

その後、子らを寄宿学校や他家に預けて単身日本に向かい、1922年に東郷と結婚する[49]。

エディとの間に一人娘いせ(1923-1997)。

著書に『色無(いろなき)花火―東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶』(六興出版、1991)がある。

外務事務次官・在アメリカ日本大使を務めた東郷文彦(旧姓・本城文彦)は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦と元オランダ大使・外務省欧亜局長(現:京都産業大学教授)の東郷和彦(1945-)は双子の孫。

系譜​[編集]
東郷家     (朴)
朴寿勝━━東郷茂徳
      ┣━━━━いせ  ┏東郷茂彦
     エヂ    ┣━━━┫
         東郷文彦  ┗東郷和彦
        (本城)


著作​[編集]
東郷茂徳 『時代の一面 大戦外交の手記』 (改造社、1952年) 原書房(初版1967年、新装版1978年、1989年、普及版2005年 ほか) ISBN 4562020199
中公文庫(1989年、解説東郷茂彦)
英訳版 The Cause of Japan (ISBN 0-837194-32-6)、
独訳版 Japan im Zweiten Weltkrieg
露訳版 Воспоминания японского дипломата(Новина、1996、ボリス・スラヴィンスキー訳、ISBN 589036054X、OCLC No:1020887271)



角田房子

2020-12-09 15:32:43 | 日記
角田房子

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角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、日本のノンフィクション作家、日本ペンクラブ名誉会員。

目次

来歴・人物

東京府生まれ。福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を退学して帰国。

戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けた。

2010年(平成22年)1月1日に死去していたことが同年3月12日に公表された[1]。95歳没。

陸軍三条件を負う(阿)南惟幾陸軍大臣の就任

2020-12-09 15:15:05 | 日記
あとがき  角田房子
阿南惟幾陸軍大臣の就任
 1 小磯後継の重臣会議
 2 天皇の鈴木のお召
 3 鈴木総理の陸軍省訪問
 4 鈴木の阿南への入閣要請
 5 陸軍内での阿南の評価
 6 鈴木内閣の特色
 7 東郷外務大臣の就任
 8 鈴木総理のラジオ放送
 1945年8月15日、終戦を迎え、何も語り残さず自決した陸軍大臣・阿南惟幾(あなん・これちか)。
 非凡な人材の集合体である陸軍のなかで自身の平凡さを自認していた彼は、その生涯最後の4か月、戦局が極度に悪化した状況下で、帝国陸軍の統率者という要職を担う。
 敗戦へと転がり進む時局の舵取りを迫られた彼は、何を考え、決断したのか。
 阿南の生涯に肉迫しながら“戦争終末期”の実相を描き出した決定的評伝。
 あとがき  昭和五十五(1980)年夏  角田房子

 ”昭和二十年の夏”をふり返ってみると、生後一年の痩せた赤ン坊を抱いて、放心したように坐っている自分の姿が浮かぶ。
 新聞は小さな紙っぺらではあったが、とにかく発行されていた。
 しかし私は何を読んでいたのか、敗戦まぎわの軍部や政府の動きなど、ほとんど知らずに過していた。
 戦況については、大本営発表は嘘八百だという常識だけはあって、かなり前から読まなかった。
 ラジオは大本営発表の前後に、陸軍は「分列行進曲」、海軍は「軍艦マーチ」がむなしい勇ましさを響かせていたが、疲れ果てていた私にも、戦死者の発表などに使われた信時潔(のぶとしきよし)の名曲「海征(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)……」の悲痛なメロディーだけは心にしみた記憶が鮮明である。
 敵が今にも上陸してきて、本土決戦が始まるかもしれない――などという声も、日常のこととして聞いていたが、全く実感にはならなかった。
 連日のようにどこかが空襲を受け、その度に多くの犠牲者が出たと聞いても、「やがては私も、子供も」という恐怖心さえ鈍くなっていた。
 生命に関する意識は、よほど鈍化していたらしい。
 こういうのを心神耗弱(こうじゃく)の状態というのであろうか。
 これは私だけのことではなく、多かれ少なかれ一般化した状態であったと思う。
 敗戦という重大な事実について、その渦中にあった私の認識はこの通りあいまいである。
 敗戦について、私はいろいろな年代の人と話し合ってみた。
 こんにち四十歳から下の人は体験としての記憶がなく、同時代感すら持っていない人が大半である。
 昭和二十年の敗戦は、日本の近代史の上でおそらく最も重大なことのはずだが、学校でも教わらなかったという答も多く、要するに無知が実情のようである。
 しかし、敗戦は日本人の今日の生活の基盤であるはずだ。
 それを無視して、今日の日本、将来の日本の問題を考えることが出来るだろうか。
 たとえば平和のための国土の安全を考えるにしても、三十五年前(歴史の上ではごく新しい)に日本がどのように敗れたのか、“帝国陸軍”がどのような役を果していたのかを知らないでは、どうしようもない。
 その渦中で生きていたにかかわらず、あいまい模糊とした認識しかない私は、自分の足場を確認する必要からも“敗戦の時期”について知らねばならないと思った。
 それには書いてみるのが一番確かな方法だというのが、いつもながら私の考え方である。
 “敗戦の時期”に手をつけることは、非常に気が重かった。
 とても私などには無理な仕事(これは本当だ)というたじろぎと、まるで濃霧にでも包まれていたように、私には手がかりがないと感じられたからである。
 しかしここを避けては私の歩く道は途切れ、私の思考は行き詰ってしまう。
 戦争終末期を鈴木内閣の四ヵ月に限ってみても、記録は山ほどある。それを読み進むうち、「私はこんなに危険な状態の中で生きていたのか」という驚きに何度もぶつかった。
 陸軍が呼号していた本土決戦に突入していたら、または陸軍が“和平派”と“継戦派”に割れて内乱が起り、そこへ米軍やソ連軍が上陸してきたら……、どうなっていただろうか。
 女の私には、「日本がどうなったか」という問題より、わが子も無惨に軍靴に踏まれたのでは……という戦慄(せんりつ)のほうが先に立つ。
 膨大な終戦資料の中から大きく浮かび出てきたのは、陸軍大臣阿南惟幾大将の姿だった。
 二十年春から夏にかけて、私はひどく健康を害し入院を繰返していたせいもあろうが、時の陸相についてはほとんど何も覚えていない。
 ただ、私たち市民の常識からは全く逸脱した、陸軍のファナチズムの代表者として、私たちをおびやかす存在と感じていたように記憶する。
 こんなわけで、私は終戦資料を読み続けながら、白紙の状態で阿南陸相の像を捉えていった。
 彼には国民をおびやかしていた狂信的な面は少しも感じられず、常識人という印象が次第に濃くなった。
 私が手さぐりする“戦争終末期”の解明のために、太いたて糸になるのは阿南大将だと、私は思い定めた。
 その企図が成功するか失敗するかは私の技量の問題だが、彼を選んだことは間違いなかったと思っている。
 阿南惟幾は若い時から、自分が平凡な人間であることを自覚している男だった。
 功罪は別として、とにかく非凡な人材の大集団であった陸軍の中で、自分の平凡さを素直に謙遜に自認していた。
 しかし彼は、“ひけめ”などはみじんも感じていない。平凡を自認したうえで少しもたじろがず、明治育ちの男らしく絶えず自己鍛練を心がけ、与えられた任務に精いっぱいの努力を傾注した。
 彼は“立派な平凡人”と呼ばれるべきだろう。
 私は天才的な人間に強い魅力を感じあこがれもするが、同時に立派な平凡人に深い尊敬を感じる。
 天才がごく稀れなように、立派な平凡人も稀れであり、私の信頼と親近感は後者に対して遥かに強い。 
 そういう私の性質も手つだって、私は資料を読みあさるうちに、阿南が好きになったった。
 しかし彼には主人公になるだけのドラマがない。
 八月十五日未明の切腹によって、全陸軍を粛然と戦争終結に導いたのは劇的であったといわれる。
 だがそれも平凡人の誠実な着想の帰結であったといえよう。
 西洋古代史の中で、シーザーとシャルルマーニュは二大英雄であるに違いないが、シーザーばかりが話題になる。
 彼には「ガリア戦記」があり、ルビコンがあり、クレオパトラがあり、暦法改正がある。
 だがシャルルマーニュには、シーザーのようなドラマもロマンもない。
 シェークスピアも、全ヨーロッパを治めたこの偉大な帝王には一顧も与えなかった。
 同じくドラマもロマンもない阿南だが、彼の人柄の温かさはかたい記録文からも伝わってくる。
 私が温かさを感じ好意を持つ阿南は、軍人らしくない男であったかといえば、軍人になるために生まれてきたような典型的な“帝国陸軍軍人”であった。
 彼は自決の直前に、「六十年の生涯、かえりみて満足だ」と言い切っている。
 この深い満足感も、軍人になったからこそ得られたものであった。
 阿南には才気にまかせた飛躍などというものはどこを捜してもないから、その折々の心境は必ずしも推測しにくいものではない。
 だが、戦争終末期の心境ばかりは不明というほかない。
 私が本文中に繰返したように、彼は「何も語らず、何も書き残していない」のだ。
 今度ほど証言の聞きとり方、資料の読み方のむずかしさを痛感したことはなかった。
 歳月を経る間に人々は事実を忘れ、それだけならまだいいのだが、補修し、整理し、美化し、誇張し、想像を加え、つじつまを合わせ、、感傷をまじえ、友情や儀礼を加え、意図的に自分の意思に引き寄せ――など、ありとあらゆる“加工”がされている。
 証言、資料とは本来そういうものなのだろうと思いはしたが、その選別、識別は大変な苦労だった。
 しかし海軍の保科善四郎中将のメモをはじめ、最後まで陸相とやり合った東郷茂徳外相の手記など幾つかの、スナップ写真で現場を押えたような、疑う余地のない資料もあった。
 私の阿南惟幾伝は、画布の上に無数の点で彩色してゆく点描画のようにして、力及ばずながら、ようやく形をなした。
 別項記載の証言者、資料提供者の方々に、厚くお礼を申し上げる。

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陸軍三条件を負う(阿)南惟幾陸軍大臣の就任

1 小磯後継の重臣会議 top

 小磯内閣退陣の数週間前から、木戸幸一内大臣をはじめ近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎たち重臣はこの内閣の崩壊を予測して、次期内閣の性格や首班の人選について、ある程度の事前の了解を成立させていた。
 まず第一に新内閣は早期和平を講じる性格で、総理はそれを遂行できる人でなければならない。
 戦争終結への道の最大難事は陸軍対策である。
 もし次の総理をこれら重臣が自己陣営から選べば、陸軍を刺激することになるので避けねばならない。
 また和平の大事を遂行する総理は、退役でもいいから陸海いずれかの軍人で、従来のゆきがかりがなく、天皇と国民から信頼されている人物でなければならない。
 これらを考慮して、重臣たちは枢密院議長鈴木貫太郎海軍大将を最適任として選んでいた。
 四月五日午後五時から、後継内閣首班を推薦するための重臣会議が宮中で開かれた。
 出席者は木戸、近衛、平沼、若槻、岡田の前記五人のほか、広田弘毅、東条英機、鈴木貫太郎の八人であった。
 長い論議の後に、東条を除いて全員が鈴木大将の出馬を願ったが、鈴木は軍人が政治にたずさわることの否を理由に受けなかった。
 東条は首相は現役の軍人であるべきと主張し、
 「さもないと陸軍がソッポを向くおそれがある」
と恫喝(どうかつ)的な言葉を吐いた。
 これに岡田啓介が真向から噛みついた。
 重臣会議は、誰を次の首相に推薦するか決定できないまま終った。
 この会議の記録を読むと、ほとんど全員が
 「後継首班には、あくまで戦争をやりとげる人を選ばねばならぬ」
と、徹底抗戦論者のような発言をしている。
 これは、鈴木内閣の書記官長となる迫水久常が書き残しているように、戦争継続論者である東条が陸軍を代表する形で出席していたためでもあるが、もともと重臣たちの間にはこの会議では和平問題に触れないという暗黙の丁解があった。
 当時の指導層の人々の本心が、しばしば彼らの発言とは裏ハラのものであることの一例である。
 重臣会議のあと、木戸はじめ数人が鈴木に首班を引きうけるよう、約一時間にわたって頼んだ。
 鈴木はかたくなに受けなかったが、ようやく天皇に会うことだけは承諾した。

2 天皇の鈴木のお召 top

 ご学問所で、天皇は鈴木に組閣を命じたが、ここでも鈴木は固辞した。
 だが天皇は、
 「政治に経験がなくてもよい。耳が聞こえなくてもよいから、ぜひやってくれるよう」
といい、さらに微笑を浮かべて、
 「鈴木がそのように考えるだろうということは、わたしも想像していた。
 鈴木の心境はよくわかる。
 しかし、国家危急の重大な時期にさいして、もうほかに人はいない。
 頼むから、どうか、気持をまげて承知してもらいたい」
といった。
 もはや鈴木は組閣の決意を固めるほかなかった。
 この席にただ一人侍立していた侍従長の藤田尚徳海軍大将は、その手記に、
 「……この君臣の、打てば響くような、真の心の触れ合う場面を拝見し、陛下と鈴木閣下との応答のおことばを耳にしたわたしは、人間として最大の感激に打たれた」
と書いている。
 鈴木は四月六日から、小石川の自宅を組閣本部として閣僚の選考にかかった。
 総理秘書官の第一号は鈴木の長男一であった。
 鈴木一は
 (父が総理となり、戦争終結という国運の大転換を計った場合、必ずさらされるであろう青年将校のテロの銃口の前に、私は身をもって楯となろう)
と決意した。
 彼は農林省山林局長だったが、辞表を出し、総理秘書官になりたいと申し出た。
 父貫太郎は喜んでこれを受けた。
 岡田啓介は『回顧録』の中に、次のように書いている。
 「鈴木はどういうふうにして組閣をするのか、事務的なことはあまり知らないようだった。
 いきなり、六日の未明にわたしに電話をかけてきて、軍需大臣になってもらいたいというんだ。
 わたしを軍需大臣にしようなどと考えるようでは、これはどうにもならん。
 どんな内閣をつくるかわからんぞと心配になってきて、すぐ組閣本部へ行ってみた。
 行ってみると、電話のかけ方にもなれていない者しか周囲におらん状態だから、迫水久常を呼びよせて手伝わせた。
 迫水を書記官長にしようというのは、わたしの考えだった」
 当時、大蔵省の銀行保険局長であった迫水は、岳父岡田からこの交渉を受けた時ためらいもあったが、
 「頼むよ。鈴木大将はわたしの昔からの親友で、りっぱな武人だ。
 このさい、君は自分自身のことを考えるな。国家のためだから頼む」
と迫られて、決意した。
 迫水にも、鈴木内閣が終戦内閣であろうとの予測があった。
 後継首班と決定した時の鈴木貫太郎の胸の内は、いかなるものであったのか――。
 鈴木一編『鈴木貫太郎自伝』の中で、彼は次のように述べている。
 「……余としては、いったん大命を拝受した上は、誠心誠意、裸一賃となってこの難局を処理して行こうと深く決意したのである。
 しかも余の決意の中心となったものは、長年の侍従長奉仕、枢密院議長奉仕の間に、陛下の思召が奈辺にあるかを身をもって感得したところを、政治上の原理として発露させて行こうと決意した点である。
 ところで、陛下の思召はいかなるところにあったであろうか。
 それはただ一言にしていえば、すみやかに大局の決した戦争を終結して、国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、また彼我共にこれ以上の犠牲を出すことなきよう、和の機会を掴むべし、との思召と拝された。
 もちろん、この思召を直接陛下が口にされたのではないことはいうまでもないが、それは陛下に対する余の以心伝心として、自ら確信したところである。
 だがこの内なる確信は当時としては、深く内に秘めて誰にも語り得べくもなく、余の最も苦悩せるところであった」
 また鈴木は戦局について――
 「……日清、日露戦争の勝利などは、日本の徹底的勝利とはいい得ない。
 ただ小国が大国に勝ったといわれているのは、戦局の最も優位なる時に敵国と講和したことによって勝利の形をとったに過ぎないのである。
 しかるに今次の大戦争においては世界の三大国米英中を敵とし、真に戦略戦術上勝利の見込みのない戦争を続けているのである。
 今日の戦局の惨憺たる有様は、余には理の当然で、むしろ着々として戦略の正しい推移を物語っているに過ぎないと考えられるのであった」
とも書いている。
 戦後に上梓されたこの自伝の論旨は明快である。
 鈴木が組閣の時にもこう考えていたであろうことを、疑うわけではない。
 しかし、組閣の段取りで岡田啓介を呆れさせたようなおぼつかなさばかりでなく、内閣首班となった鈴木はその風貌も言動も茫漠として、つかみどころがなかった。

3 鈴木総理の陸軍省訪問 top

 組閣の第一歩は、鈴木総理の陸軍省訪問から始まった。
 これは「礼を尽して、陸軍の協力を求めること」という岡田啓介の助言によるものであった。
 岡田は重臣会議席上での「陸軍がソッポを向く」という東条の言葉を吐に据えかねていた。
 しかし陸軍が強い支配力を持つ大組織であり、早期和平の道を塞ぐ壁であるという現実をもよく心得ていた。
 老躯をひっさげてまっ先に市ケ谷台の陸軍省へ出向いた鈴木を、陸相杉山元元帥は恐縮しながらもすっかり気をよくして丁重に大臣室へ迎え入れた。
 鈴木は杉山に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と率直に希望を述べた。
 これまでも、陸相候補として阿南の名は何度か出たことがあった。
 小磯内閣の末期、陸相であった杉山が第一総軍司令官に転出する話があった時も、杉山は後任陸相に阿南を推していた。
 鈴木の希望を聞いた杉山は、別室で梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監と三長官会議を開き、阿南の承諾を得た後、大臣室に戻り、三条件を付して阿南入閣を承諾した。
 陸軍の条件とは、次の三つであった。
 (一)あくまで戦争を完遂すること。
 (二)陸海軍を一体化すること。
 (三)本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。
 条件の(一)は、国内に厭戦気分が高まり、各界上層部に和平論が広がっていたこのとき、新内閣がこれに引きずられはしないかという陸軍の懸念の現われであった。
 (二)は、陸軍の合併案に強く抵抗している海軍との紛争を、新内閣の下で解決したいという狙いであり、
 (三)は文字通りのものである。
 鈴木は質問もせず、難色も示さず、杉山が拍子ぬけするほどあっさりと三条件を呑んだ。
 難題をこうあっさり呑まれては、陸軍側はもうこれ以上言葉を添えることもなく、杉山は立ち上った鈴木に向かって
 「しっかりやっていただきたい」
と激励しただけであった。

4 鈴木の阿南への入閣要請 top

 鈴木はその足で同じ市ヶ谷台にある陸軍航空総監部へまわって阿南に会い、三条件を含む杉山との会談を伝えて入閣を要請した。
 阿南はこれを快諾した。
 阿南が三条件を実行する陸軍の代表として入閣したことは、その後の彼の心理や言動を考える上で重大な意味を待つことになる。
 入閣を承諾した時の阿南がまっ先に
 「誰が書記官長になるのですか」
と鈴木総理にたずねた――と岡田啓介が書き残している。
 「追水です」
と鈴木が答えると、阿南は
 「いいでしょう。もしそれ以外の人が話に出てきた場合は、あらかじめ陸軍の同意を得ていただきたい」
と述べたという。
 阿南はいかなる理由で、追水ならいいと答えたのであろうか。
 阿南が追水を個人的によく知っていたという想像は成り立たない。
 追水は戦後昭和三十四年に行われた阿南追悼会で、阿南が陸相に就任したとき初対面であった、と述べている。
 二人は一面識もなかったが、阿南は追水が岡田啓介の女婿であることは当然知っていたはずだ。
 そして、岡田が重臣中で最も和平色の強い一人であり、憲兵に目をつけられている人物であることも知らなかったはずはない。
 その岡田に近い追水が内閣書記官長と聞いて阿南が賛成したのは、阿南もまた鈴木内閣がすみやかに終戦にもちこむことを期待していたのではなかったか。
 ただしこの時の阿南は、沖縄戦で米軍に一撃を与え、それを機に有利な条件での講和を期待していたと想像される。
 鈴木はなぜ阿南を陸相にと望んだのか――その理由を鈴木は書き残していない。
 人事にうといといわれた鈴木だが、前陸相杉山は陸軍内で人気がなく、阿南は上下から信頼を受け特に中堅層の支持の強いことを知っていた。
 小磯内閣が倒れた直後、陸軍省と参洋本部内の一部若手将校の間には、本土決戦遂行の見地から現役陸軍将官を首班とする後継内閣を望む空気があり、首班の下馬評には梅津大将、畑元帥、阿南大将が挙げられ、“一番人気”は最も後輩の阿南であったという。
 陸軍との摩擦を避ける鈴木が阿南を望んだ理由の一つは、これなら陸軍側が抵抗なく受けると予測したからであろう。
 だが、これだけが理由であったとは忠われない。
 鈴木は「身をもって感得した陛下の思召を、政治上の原理として」心中秘かに早期和平の達成を念じていた。
 この鈴木の真の意図を、表裏ともに支持する陸相など現われるはずもない。
 誰が陸相になろうとも、陸軍を代表して戦争完遂を強く主張するであろう。
 《だが、阿南ならば……》と鈴木は彼にひそかな期待をよせだのではなかったか――。
 昭和四年から同八年までの阿南の侍従武官時代を通じて、鈴木は侍従長であった。
 鈴木と阿南とが、天皇に直接奉仕する職務を通じて互いの忠誠心と誠実な人柄を知り合うのに、四年という歳月は十分であった。
 ここに鈴木が
 《阿南ならば、私が“政治上の原理”とする天皇のご意志を最もよく推察し、それを至上のものと遵奉するのではなかろうか》
と期待したという想像が生まれる。
 さらに鈴木が新陸相に期待したものは、早期和平実現に至る過程で全陸軍を掌握する力量であったろう。
 和平実現のとき一歩誤まれば内乱だが、阿南ならば最後まで陸軍の秩序を保ち得るであろうという期待を鈴木は抱いていたのではないだろうか。
 これらの想像の当否は別として、鈴木は陸相としての阿南の登場を積極的に望んだ。
 阿南は“戦争完遂”を唱える陸軍からその代表として推され、同時に、まだ全くその意図を表面に現わしていない早期和平論者からも支持されて陸相となった。

5 陸軍内での阿南の評価 top

 陸軍部内で、阿南のどこがこれほど高く買われたのであろうか。
 まず軍人の表芸である戦場の指揮官として、阿南はどう評価されていたのか。
 阿南は必ずしも武運に恵まれた将軍とはいえない。
 師団長としては中国で目立たぬ討伐作戦に明け暮れ、太平洋戦争勃発時には、軍司令官として香港攻略に呼応する陽動作戦を行なった。
 人を驚かすほどの積極性を発揮し、本人は満足だったらしいが、「あれほどの犠牲に価した作戦か」と批判も受けた。
 このとき同期の山下奉文はシンガポール攻略に成功し、“マレイの虎”と一躍勇将の名を馳せたが、裏街道の阿南にはそんな華やかさはない。
 東北の指揮官としては“誰がやっても勝てるはずのない”悪条件を負わされていたが、結果だけを見れば「東北地域確保」の目的は果し得ず、敗退を重ねた。
 その間、大本営との問にしばしば意見の相違があり、彼の積極性と“信義は戦力なり”の信念は、中央や南方軍を手こずらせた。
 昭和四十四年刊行の『東北方面陸軍作戦』(防衛庁戦史室著)の「むすび」に次の記述がある。
 「阿南大将は、絶対国防圏域における決勝に全力を尽くし、一身に責任を負い作戦を指導した。
 このため、隷下の兵団部隊は、状況の逐次急変による大本営の方針の変動に基づく統帥混乱の渦中に入らず、絶対国防圏域決戦終了まで、一途の方針に基づき作戦、戦闘し得た」
 戦史として正しい講評であり、讃辞であろうが、当時“統帥混乱”の中央部が、こういう指揮官にいい点をつけるはずはなかったろう。
 阿南の知性の面はどう評価されていたか。
 陸相秘書官であった林三郎大佐は
 「阿南さんの欠点は何かと聞かれて、私は、『知性が高くなかったこと』と答えた」
と語る。
 「阿南さんは程度の高い本はお読みにならなかった。
 しかしこれは軍の中で阿南さんがウケのよかった理由の一つでもあります。
 西欧の軍隊では勇気とともに、意志、人格、知性の三つが重視されますが、日本では『学問のある人間は勇敢でない』『知は優柔不断に通ず』などといったものです」
 阿南の知性は将帥として、また陸相として、陸軍の中では“ちょうどいい程度”であったようだ。
 彼が読書家であったという資料はなく、酒向副官も「あまり読書はなさらなかった」と語っている。
 豪北時代の阿南の日誌に当時読んだ本の名を挙げてあるが、数はごく少ない。
 「楠氏三代を読む。今日は桜井駅訣別の夕なり。延元元年五月十六日を偲いつつ、大東亜戦争の完勝を誓う」
などと書かれ、この他に『上杉庸山公』、『神皇正統記』などがある。
 彼の読書は興味本位でなく修養を心がけたもので、その範囲は昔の日本だけに限られていたことがわかる。
 当面の敵であるアメリカについて知識を得ようという努力は、読書面からは全くうかがえない。だがこれは阿南だけでなく、 軍人一般に外国の知識をとり入れようという風潮、洋書に親しむ習慣はなかった。
 フランスの兵書を常に読んでいたという飯村穣中将や、陣中でもイギリスの小説を読んだという本間雅晴中将などは、陸軍の中で特殊であり、決して誉められなかった。
 阿南は頭脳明敏、才気煥発などといわれる人ではない。
 とかく仲間誉めをしたがる陸士同期生も、そうはいわない。
 林三郎は
 「阿南さんが『将官試験を受けたとき、こうするとはいえたが、その理由の説明はよく出来なかった。ピリだったよ』といわれたことがある。
 理論的な頭ではなかった」
と語る。
 阿南は理屈をこねることが下手であり、嫌いだった。
 理論闘争をすることなど決してなく、次元の高い思想問題、哲学などについて語ったこともないという。
 これも、陸軍内で受けのよかった理由の一つであったろう。
 陸軍はそのような話題の好まれない社会であった。
 「阿南は智将でもなく、政将でもないが、徳将であった」といわれる。
 一部で「八方美人でありすぎた」とはいわれたが、それ以上のケチをつける人はいない。
 公正無私、外柔内剛、挙措端正など、軍人の理想像を形づくる言葉がよせられているが、阿南を知る人はみなこれらを肯定する。’
 鈴木内閣が成立した昭和二十年四月、米軍はすでに沖縄に上陸を開始して戦局は極度に暗く、内は軍閥政治の破綻に悩む陸軍が陸相となる人物に求めたものは、もはや智略でも政治的手腕でもなく、誰からも支持される人格ではなかったか。
 林三郎は「体全体が清潔感に包まれていて、これはなかなか魅力的だった」と語る。
 また「阿南さんは人と話すのが好きで、自分のいおうとすることを漢文調で、抽象的に表現するのが上手だった。
 “信義は戦力なり”もその一例」と語る。
 「陸軍大臣という激務の中でも、朝は矢場に立って弓を引き、その当り具合で自分の精神状態を判断しておられた。
 文字通り自分に厳しく、人には寛容だった。
 時には、部下に対する厳しさに欠けるうらみはあったが……。
 次官時代の一部下が『私を弟のようにかわいがって下さった』といったが、こう思っている後輩はたくさんいた」
 第二方面軍の作戦主任参謀であった加豊川幸太郎は
 「阿南さんは幕僚勣めをしたことがないから、コセコセした幕僚的悪ずれがなかった。彼が仕えたのは、陛下だけだ」
と語る。さらに
 「阿南大将は、軍人間でうけるタイプだった。
 ちょっと年代は違うが荒木大将や真崎大将も、荒木宗、真崎宗といわれて信者が多かった。
 何をいっているのかさっぱりわからず、煙に巻かれるところが魅力だといわれる大将もいたが、阿南大将はそういうタイプではない。
 口を開けば楠公精神を説くのだから、これは誰にでもわかる。
 また、人の話をじっくり聞いてやるから、相手は俺の考えをよくわかってくれたという満足感を持つ。
 誰からも信頼をよせられた」

6 鈴木内閣の特色 top

 「鈴木内閣には大きな特色があった」と、当時参謀本部第二(惰報)部長であった有末精三(中将)は語る。
 「まず新陸相阿南大将と新首相鈴木海軍大将とが宮中関係の“知己”で、互いによく知り合っていたこと。
 次に、阿南大将と参謀総長の梅津大将が非常に親密な関係であったこと。
 政戦両略一致が何よりも必要なあの時期、これほど機宜に適した人事はないと、われわれ一同は心から喜んだものだ」
 阿南と梅津とは大分県の同郷人であり、同じ青山の歩兵第一連隊の出身で若い時から親しく、梅津の陸軍次官の時に阿南は兵務局長と人事局長を勤め、また梅津の関東軍総司令官時代には、阿南は第二方面軍司令官としてその毫下にあった。
 日ごろから阿南が三期先輩の梅津に兄事していたことは、広く知られていた。
 鈴木内閣には無任所国務大臣の椅子が二つあった。
 一つは商工相、貴族院議員などの経歴のある左近司政三海軍中将が決定していたが、鈴木はもう一人を陸軍から出したいと考え、その人選を阿南に依頼した。
 阿南が推薦したのは安井藤治中将であった。
 安井は阿南の同期生で、二・二六事件のときの東京警備参謀長、のちに北満ハイラルにあった第六軍司令官となり、昭和十六年末に予備役になった。
 陸軍内部でも目立つ存在ではなく、まして内閣の中では鈴木総理をはじめ閣僚のほとんどが安井の名を知らなかった。
 しかしこの人選は即座に認められた。
 当時を回顧して、迫永久常は次のように書いている――
 「私が阿南陸相からのご推薦を鈴木総理に報告しますと、『それで結構だ。私は阿南陸相の言うことは万事無条件に承諾することにしておるから』と言われました。
 私は鈴木総理の阿南大将に対するご信任がこうまで深いのかと、その感を深くいたしました」

7 東郷外務大臣の就任 top

 組閣に当って鈴木は重臣の入閣を希望したが、米内海相の留任以外は実現しなかった。
 外交の一大転換をひそかに考えていた鈴木は外相に広田弘毅を望んだが、広田は受けず、東郷茂徳(元外相)を強く推した。
 軽井沢にいた東郷が、鈴木総理から上京を要請されたのは四月七日、新内閣の親任式が行われた日であった。
 その夜上京し、鈴木に外相就任を懇請された東郷は次のように述べた。
 「自分としては本戦争の発生を防止するため苦心を重ねてきたわけだから、できるだけすみやかにこれが終結を計ることには喜んで尽力したいが、戦争の終結も指導も戦争の推移から割り出して考察する必要があると思うから、諾否を決する前に今後の戦局の見通しについて、総理のご意見をうけたまわりたい」
 これに対し鈴木は「戦争はなお二、三年はつづき得るものと思う」と答えた。
 東郷は
 「近代戦における勝敗は、物資の消耗、すなわち生産の増否にかかわるところが大きく、この点からみても、もはや戦争の継続は困難で、今後一年も続けることは不可能と思う」
と述べ、さらに
 「この点の見通しに総理との間に意見一致せざるにおいては、外交の重責を引き受くるも、今後の一致協力ははなはだ困難であるので、せっかくの申し出もおことわりするほかない」
と答えた。
 翌八日、東郷は岡田啓介に、昨夜の鈴木との会談を語った。岡田も、松平内大臣秘書官長や広田弘毅も、いちように入閣を勧告した。
 同日午後、迫水書記官長が東郷を訪れ、前夜の鈴木との会談について
 「今の状況の下で総理が戦争を急速に終結するといっては、反作用も生ずるおそれがあるから、その言明を求めることは無理だが、総理の胸中を推測して、ぜひ就任を願う」
と述べた。だが東郷は
 《総理が自分と同意見ならば、昨夜は二人だけの内話だから、これを口に出せないはずはなく、またそのように水くさいのならこの難局に協力するのはむずかしい》
と思い、承諾しなかった。
 しかし翌九日、松平内大臣秘書官長が来て
 「総理の戦争についての見通しは確定しているとは思えないから、入閣後にこの点を啓発してほしい。
 陛下も終戦をお考えのように拝察される」
としきりに入閣をすすめ、木戸内大臣も強くそれを望んでいると告げた。
 さらに午後には迫水から望まれて再度東郷は首相官邸へ出向いた。
 鈴木は
 「戦争見通しについてはあなたのお考え通りで結構だし、外交はあなたのお考えで動かしてほしい」
と語った。
 これで東郷はようやく外相兼大東亜相就任を受諾した。
 鈴木と東郷のやりとりの場合もそうだが、鈴木の言葉にはしばしば解釈のつかないところがある。
 四月九日――東郷が鈴木から戦争終結実現への白紙委任状をとりつけて外相に就任した日――陸軍は本土決戦のための陸軍高級人事を発表した。
 前陸相杉山元元帥は第一総軍(東北、関東、東海、総司令部は東京市ヶ谷台)の司令官に、畑俊六元帥は第二総軍(近畿、中国、四国、九州、総司令部は広島)の司令官に、河辺正三大将は航空総軍司令官に、河辺虎四郎中将は参謀次長に、それぞれ任命された。
 参謀総長は昭和十九年七月以来引続き梅津美治郎大将である。
 このとき軍務局長に就任した吉積正雄中将は、参謀本部第一 (作戦)部長である宮崎周一中将に、
 「勝利の目途如何」
と質問したところ、宮崎は
 「目途なし」
と答えた。
 「然らば速かに終戦に持ってゆくべきではないか」
との質問に対して、宮崎は
 「統帥部はただ継戦あるのみ、統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」
と答えたという。
 作戦の責任者である第一部長が「勝つ見込みは全くない」と言い切っているこのとき、国民は竹槍で敵と闘う訓練を強制されて、空襲の度に栄養失調の弱い足をひきずって逃げまどい、多くが無惨な死を遂げていた。
 初めから無視されている国民は、戦争についての意志を問われるはずもなく、自らそれを主張する力も方法も持ってはいなかった。
 軍隊の最高指揮権である統帥権は明治憲法で天皇の大権と定められ、政府権限からひき離されて独立し、独り歩きして、「統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」ということになったのは、逆説的ではあるが、理にかなっている。
 梅津も「私個人としては即時終戦だが、参謀総長としてはそうはいえない」と、もらしている。
 本来国民を代表すべき内閣、議会は統帥権に触れることが出来ず、機能を失なったも同様であった。
 統帥権の平衡をとり戻し制御できるのは、大元帥として統帥の絶対権力を持つ天皇だけということになる。
 結果的には天皇の意志の発動によって戦争は終結したが、しかし“神”に祭り上げられていた天皇は実際の権能を持ってはいなかった。
 それが戦争終結の意志を表明したのは非常のことであり、異常のことであった。
 開戦と終戦の不手際について、一部の軍人の間には「明治天皇ならば……」というささやきがあったといわれる。
 明治天皇は英明な豪傑だったようだが、それだけでなく、そのころの天皇はまだ余り神格化されず、自由意志を持つ人間ぽいところがあり、一方に軍の組織も小規模で動脈硬化を起していなかったので、相互に動きやすかったようである。
 一部将校の中には直観的に、鈴木新内閣の和平指向を感じた者があった。
 四月六日夜には憲兵司令官大城戸三治(おおきどさんじ)中将が吉積軍務局長に、
 「鈴木大将は日本にバドリオ政権の樹立を企図する算があるから、組閣を阻止しなければならない」
と意見を述べている。
 しかし吉積も、また吉積から報告を受けた杉山陸相も、根拠のない憶測としてとり上げなかった。
 当時の陸軍は、新内閣の採るべき道は強力に戦争を遂行する以外にはないものと考えていた。

8 鈴木総理のラジオ放送 top

 このときの鈴木が憲兵司令官の言動を具体的に知っていたわけではないが、しかし自分がどのような立場にあるかはよく心得ていた。
 彼は仮にも陸軍を刺激するような行動はとらず、誰を相手にも決して本心を口にしなかった。
 四月七日と八日の二回、鈴木は総理としてのラジオ放送を行なったが、その中には次のような一節がある。
 「わが帝国が世界の大国米英を敵とするこの戦争でありますから、今日のごとき事態は当然起こることであり、あえて驚くには当りませぬ。
 われわれが必死の覚悟を以て、すなわち捨身であくまで戦い抜いて行くならば、必ずやそこに勝利の機会を生みまして、敵を徹底的に打倒し得ることを確信するものであります」
 また
 「わたくしの最後のご奉公と考えますると同時に、まずわたくしが一億国民諸君のまっさきに立って、死に花を咲かすならば、国民諸君はわたくしの屍を踏みこえて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして……」
と激越な調子で呼びかけてもいる。
 鈴木はのち『鈴木貫太郎自伝』の中で
 「“国民よ我が屍を越えて行け”といった真意には次の二つのことが含まれていた。
 第一に、余としては今次の戦争は全然勝ち目のないことを予断していたので、余に大命が降った以上、機を見て終戦に導く、そして殺されるということ。
 第二は余の命を国に捧げるという誠忠の意味からあのことをあえていったのである」
と説明している。
 だがこのラジオ放送を聞いた国民一般は、鈴木総理の真意など察知するはずもなかった。
 人々は鈴木内閣の方針も、これまでの小磯内閣や東条内閣と同じく、最後まで戦い抜こうというものと受けとった。

阿南惟幾、自刃の真実~終戦工作をすすめた鈴木貫太郎との信頼の絆

2020-12-09 14:36:23 | 日記
阿南惟幾、自刃の真実~終戦工作をすすめた鈴木貫太郎との信頼の絆


2017年08月15日 公開

8月15日 This Day in History

今日は何の日 昭和20年8月15日

終戦の日 陸軍大臣・阿南惟幾が自刃

昭和20年(1945)8月15日正午、昭和天皇の終戦の詔書のラジオ放送、いわゆる玉音放送が行なわれ、日本国民にポツダム宣言受諾が伝えられました。昭和38年(1963)以降、毎年「全国戦没者追悼式」が行なわれています。戦争で命を落とされた方々に、哀悼の意を捧げたいと思います。

さて、昭和20年のこの日、陸軍大臣阿南惟幾が自刃しました。終戦工作をすすめた鈴木貫太郎内閣において、あくまで「徹底抗戦」を叫んだことで知られますが、真実はどうだったのでしょうか。

阿南の父は大分県の竹田市出身の内務官僚でしたが、阿南は明治20年(1887)、東京で生まれました。

陸軍幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校の試験には3度失敗しましたが、それでも陸大を無事卒業。

当時の陸軍内では珍しく政治的に無色で、昭和11年(1936)の2・26事件の折には「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行なえ」と明言し、軍人は政治に関わるべきではないとしています。

阿南は昭和17年(1942)に第二方面軍司令官、昭和19年(1944)には航空総監などを歴任し、昭和20年4月に鈴木内閣の陸軍大臣となりました。

実は昭和4年(1929)、阿南が侍従武官を務めていた折、侍従長が海軍大将の鈴木貫太郎でした。以来、二人は天皇に近侍する身として、強い信頼で結ばれていたのです。

広島に原爆が落とされ、ソ連が参戦する中、鈴木首相はポツダム宣言の受諾をもって終戦とすべく、8月9日に最高戦争指導会議を開きます。

すでに天皇をはじめ、東郷外相、米内海相らは国体護持を条件にポツダム宣言受諾で一致していました。

ところが阿南と梅津参謀総長、豊田軍令部総長は国体護持の他に、保障占領をさせない、武装解除は自主的に行なう、戦犯の処罰も日本が行なうという3条件を主張して譲りません。そこへさらに長崎に原爆が投下されます。

やむを得ず鈴木首相は、御前会議で天皇の聖断を結論にするという手を打ちます。

会議は10日の午前2時から宮中の防空壕で開かれ、天皇は「自分のことはどうなってもかまわない。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい」といういたわりの言葉で意思表示をされ、受諾が決定されました。

会議後、吉積陸軍軍務局長が鈴木首相の聖断を仰ぐやり方に抗議しますが、阿南がたしなめます。

そして「吉積、私は陛下に対し、ご意志に反対する意見を申し上げた。これは万死に値する。またポツダム宣言受諾となれば、この敗戦の責任は陸軍を代表して私が腹を切る。お前らは軽挙妄動するな」と釘を刺します。

その気になれば、阿南が辞職することで鈴木内閣を瓦解させることもできましたが、阿南は決してそうしようとはしませんでした。

阿南は会議での発言とは裏腹に、ポツダム宣言受諾しか道はないことはわかっていました。

しかし「勝ち目がないから降伏しましょう」では陸軍が収まらず、内乱でも起こせばそれこそ国を破滅させてしまう…阿南はそれを防ぐべく命をかけていたのです。

ポツダム宣言受諾に対する連合国の回答が届いたのは12日朝でしたが、要点が不明確で、閣議や戦争指導会議は紛糾しました。

一方、阿南の周囲では、中堅将校によるクーデター計画が具体化し始めます。

13日の閣議では閣僚の大多数が終戦に賛同する中、阿南は本土決戦を唱える一方、会議の途中で陸軍省に電話をかけ、血気に逸る者たちを押さえています。

そして14日、宮中防空壕での最後の御前会議で聖断が下され、降伏が決まりました。

阿南の苦悩は内地外地含めて550万もの軍の動向です。

これらの軍を秩序ある解体に導くには、玉音放送と、陸軍の代表者である自分の自刃しかないと見極めていました。

14日午後11時、阿南は鈴木首相を訪ね、「総理にはこれまで大変ご迷惑をおかけしました。

深くお詫び申し上げます」と詫びると、鈴木は「あなたのことは私が一番よく知っているつもりです。ありがとうございました」と応え、別れています。

そして鈴木は書記官長にぼそりと「陸相は、いとまごいに来たんだよ」と告げました。阿南の心情を痛いほどわかっていたのです。8月15日午前5時。

阿南は三宅坂の陸相官邸で自刃しました。享年58。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺書と、「大君の深き恵に浴し身は 言ひ遺すべき片言もなし」の辞世が遺されていました。


その少し前、一部将校がクーデターを起こしますが、すぐに鎮圧されました。阿南の死とともに、軍は解体されたのです。