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中国への依存度が高い韓国にも悪影響が

2021-11-04 18:35:22 | 日記
海外情勢
マンション下落、半導体不足…韓国経済を直撃する「中国・恒大ショック」の本当の怖さ 

PRESIDENT Online

2021.10.5 10:55


 ■中国への依存度が高い韓国にも悪影響が
 
足許、中国経済の減速が鮮明化している。

国家統計局が発表した9月の製造業PMI(購買担当者景況感指数)は、景気の強弱の境目である50を下回った。

中国経済減速の主な要因に新型コロナウイルスの感染再拡大の懸念がある。

それに加えて、中国恒大集団(エバーグランデ)の債務問題などの影響も大きい。

当面、中国経済の減速はさらに加速する恐れがある。

上海の恒大中心ビル=2021年9月24日 

 足許の世界経済を見ると、感染再拡大によって主要国経済の回復ペースが弱まっている。その上に中国経済のさらなる減速が加わるインパクトは大きい。

わが国をはじめ欧米諸国にもマイナスの影響が波及することは避けられない。

中国への依存度の高い代表例の一つが韓国だ。
 今後、中国経済の減速がさらに鮮明となれば、輸出を中心に韓国経済の回復ペースは弱まるだろう。

輸出の減少は韓国のGDP成長率の低下要因だ。文在寅政権にとっても、重要な下押し材料になるはずだ。

 ■感染再拡大、アリババへの締め付け、エバーグランデ…
 中国経済の減速懸念が、これまでに増して強まっている。
 8月の住宅価格、小売り、工業生産、固定資産投資などの主要指標は前月から悪化した。

春先以降の景気減速のトレンドが、ここにきて一段と鮮明化した格好だ。その要因の一つとして、新型コロナウイルスの感染再拡大のインパクトは大きい。

感染再拡大によって中国では経済活動に欠かせない動線が絞られた。

その結果、8月の飲食店売り上げは前年同月の実績を下回った。

感染再拡大によって、港湾施設や鉄道などの物流も停滞している。

 感染再拡大に加えて、中国共産党政権がアリババなどIT先端企業への締め付けを強化し、株価が下落したことも景気にマイナスだ。

中国本土では個人による株式取引の割合が大きい。株価の下落は負の資産効果を高め消費者心理を圧迫するだろう。夏場の豪雨も中国経済を下押しした。

 さらには、大手不動産デベロッパーのエバーグランデの債務問題が深刻化したことも、景気減速の鮮明化を加速している要因だ

同社の今後の展開は、共産党政権の意思決定にかかっている。

基本的に共産党政権は、エバーグランデが経営破綻に陥り無秩序なデフォルトが発生することは防ごうとするだろう。

しかし、今後、同社をめぐる展開には不透明要素も多い。
 
■世界経済に影響を与える2つのパターン
 エバーグランデの問題が世界経済に与える影響を考えるとき、まず同社の米ドル建て社債の返済について見ておく必要がある

米ドル建て社債の発行残高は195億ドル(約2兆円)だ。その影響の波及経路は、直接的、間接的に分けられる。
 直接的な影響は、米ドル建て社債がデフォルトし、それを保有する投資家が損失を被るパターンだ。

この場合、楽観はできないが、主要国の金融機関のリスク管理体制等を考えると損失をそれなりに吸収することは可能だろう。

 一方、デフォルトの間接的な経路を通じた影響は、世界経済にかなりの負の影響を与えるはずだ。

デフォルトが発生すれば、エバーグランデの取引先や他の不動産業者の業況や、中国経済を支えてきた不動産市況が悪化して景気の減速が加速化するだろう。

世界第2位の規模を誇る中国経済の一段の減速は、主要国の輸出の減少などの経路を通って世界経済全体にマイナスになることは間違いない。

 ■8月まで好調だった韓国経済は減速する恐れ
 
中国経済の減速に大きく影響される国の一つが韓国だ。
 韓国経済の成長の源泉に位置付けられる輸出に関して、対中輸出(香港含む)は全体の約32%を占める。

基本的に、中国の消費、生産、投資が増加基調で推移する場合、韓国では中国向けを中心に輸出が伸び、景気は回復する。

その逆もまた真なりだ。

8月まで、韓国の輸出は地域別には中国や米国向けが伸び、品目別には半導体や石油化学製品などが増加した。

それが韓国の景気回復を支え8月には利上げも実施された。

 ただ、今後、中国経済の減速スピードによって、輸出を中心に韓国の経済にはマイナスの影響が波及し、回復ペースが追加的に鈍化する恐れがある。

8月のように中国の消費などの減少基調が強まれば、対中輸出の増加ペースは弱まるだろう。

感染の再拡大によって中国から韓国への旅行需要の回復に時間がかかることも経済成長にマイナスだ。

 また、足許の中国では石炭不足を背景に電力の不足が深刻化している。

電力不足によって中国では生産活動が停止、あるいは制限され始めている。

中国での生産活動がさらに鈍化すれば、韓国が中国に輸出してきた石油化学製品や機械などへの需要は落ち込むだろう。


かつて真夏の上海で日本軍と中国軍が突入した市街戦

2021-11-04 17:37:14 | 日記
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かつて真夏の上海で日本軍と中国軍が突入した市街戦


2018年8月1日 6時0分
JBpress

第二次上海事変開戦時に前線となった八字橋の現在。

 筆者が暮らす中国・上海市に住んでいる在留邦人数は、現在4万4387人(平成29年版外務省海外在留邦人調査統計より)を数えます。

この人数は米国・ロサンゼルス、タイ・バンコク、米国・ニューヨークに続き第4位となっています。

近年は減少傾向にあるものの、依然として多くの日本人が生活する世界有数の都市となっています。

 そんな上海市で約80年前の8月から10月にかけて、日本軍と中国軍が市内のど真ん中で激しい市街戦を繰り広げました。

その歴史を知っている日本人はあまり多くないのではないでしょうか。

 そこで今回は、日中戦争の全面戦争化の契機ともなった「第二次上海事変」(1937年8月13日~10月26日、中国名:八一三事変)について、その経緯と影響を紹介したいと思います。

JBpress
列強に分断統治されていた上海市

 第二次世界大戦以前の上海には、それまでの列強による侵略や不平等条約の影響から、中国国内の他の都市と同様に、特権的外国人居留地である「租界」が存在しました。

イメージとしては、中国返還以前の香港のような場所です。

各租界では中国の法令は適用されず、治安を含めて租界を管理する国々によって分断統治されていました。

ある意味、小規模な独立国が中国に点在していたようなものです。

 上海では、フランスをはじめ日本や英国、米国など多くの列強各国がそれぞれ租界を有していました。

そのため上海は、各国からやってきた多くの国々の人間が共に生活するなど世界屈指の国際都市となっていました。

 なお、日本の租界は現在の上海市虹口区周辺にありました。現在もそこを訪れると日本にあるような瓦屋根の建物を見ることができます。

第一次上海事変を引き起こした陰謀工作
 
日本は1931年の満州事変以降、中国における権益拡大を目的に、中国国内で様々な陰謀工作を計画、実行してきました。

 当然、こうした日本側の動きに中国側は反発します。

蒋介石率いる「国民党」、毛沢東率いる「共産党」はともに日本への警戒を強め、中国国民の間でも排日運動が広がっていました。

 中国で排日運動が広まる中、1932年に日本人僧侶が上海市内で中国人に殺害される事件が起きます。

当時、上海に駐屯していた日本軍と国民党軍(国民革命軍)がこの事件の処理を巡って軍事衝突を起こし、上海の租界周辺で戦闘が繰り広げられました。

この事件が、いわゆる「第一次上海事変」です。

最終的には日本軍が国民党軍を退却させた後、双方の間で停戦協定が結ばれ終息しています。

 なお、第一次上海事変のきっかけとなった僧侶殺害事件の真相を、田中隆吉陸軍武官(当時)が戦後になってから証言しています。

その証言によると、満州事変に対する欧米の目をそらすため、関東軍参謀の板垣征四郎の命を受けて中国人を雇って実行したというのです。

結果的には、欧米各国の目をそらすどころか、日本への警戒感が一層強まることになりました。

いずれにしろ、このような陰謀工作が当時頻繁に行われていたことを示唆させるエピソードです。

日本人水兵の殺害事件がきっかけに
 本題の第二次上海事変の話へ移りましょう。

第二次上海事変の大まかの経緯を記したものです。

第二次上海事変の経緯
(* 配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで本記事の図表をご覧いただけます。
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53671)

 第一次上海事変から6年後の1937年、既に中国北部(華北)では7月7日に起きた盧溝橋事件をきっかけに、日中間の戦争が始まっていました。

しかし上海市を含む中国中央部(華中)地域では、緊張は高まっていたものの、戦闘行為が行われるまでには至っていませんでした。

 とはいえ戦争準備は双方で進められており、日本政府が中国居留日本人を上海に集めて帰国させるなど、非常時への備えを進めていました。

 こうした中で8月9日、現在も上海市内に2つある空の玄関口の1つである「虹橋空港」付近で、日本の水兵2人が中国国民党の兵士に射殺される事件が起こります。

それ以前にも上海市内で日本人が殺害される事件が相次いでいたこともあり、日本側は犯人の引き渡しとともに、中国軍の上海周辺からの全面撤退を要求するなど強い態度に出ます。

 一方、蒋介石率いる国民党側も強い態度を崩しません。

当時、上海に駐留していた日本軍約1000人に対し、中国軍は約3万人を集めて上海市を包囲したのです。

 日中間の緊張の高まりを受け、欧米各国の領事らは調停に動きます。

しかし事態は改善せず、8月13日に至り、とうとう戦いの火ぶたが切られます。

民間人にも犠牲者、市街戦の様相に

 1937年8月13日午前、上海市虹口区付近で日中両軍の戦闘が始まりました。
 
兵力では圧倒的に勝る中国軍でしたが、重火器が日本軍よりも圧倒的に不足しており、緒戦では日本軍側の陣地へ攻め入るどころか逆に反撃を受けることになります。

蒋介石は日本軍を一気に上海から殲滅、排除する目論見で開戦に踏み切ったのですが、緒戦でつまずいてしまい、日本の増援部隊の到着後は防戦一方となります。

 一方、日本軍と日本政府は、上海での戦闘開始の報告を受けるや、すぐ上海への派兵を決定しました。

まず8月中に2個師団を上海に派遣、9月にも増援を追加派遣します。それに合わせて戦闘規模も激しさを増していきました。

 市内でも空爆が行われ、民間人にも犠牲者が出るなど、戦闘は市街戦の様相を呈していきます。

欧米各国は日中双方に停戦を促しますが、合意に至ることはありませんでした。

 日本軍は緒戦こそ兵数の不利を跳ね返したものの、中国軍のトーチカを攻めあぐねて苦戦します。

しかし最終的には開戦から3カ月後の11月、日本軍が上海周辺から中国軍を排除して戦闘に勝利します。

ただし、動員兵力約25万に対し約4万の戦死傷者を出すなど、大きな損害を被りました。

第二次上海事変における日本軍と中国軍の最終投入兵力
上海と日本の深い関わり

 第二次上海事変に勝利した日本軍は、その後、中国軍を追撃するため、国民党の本拠地である南京へ進撃することとなります。

 前述した通り、日中戦争は7月7日の盧溝橋事件で既に開戦していましたが、戦闘はあくまで華北に留まり、華中や華南(中国南部)までは戦火は広がっていませんでした。

しかしこの8月からの第二次上海事変と、それに続く12月の南京攻略戦で戦火は拡大し、中国全土へと広がっていきます。

 また、第二次上海事変開戦から4日後の8月17日、時の近衛内閣は、それまで掲げていた「日中戦争の不拡大方針」の放棄を閣議決定しています。

最終的には翌1938年の「国民政府を対手とせず」(「国民政府とは交渉しない」という意味)と述べた近衛声明が日中の交渉決裂の決め手となりましたが、第二次上海事変は日中戦争の泥沼化において大きなターニングポイントとなりました。

 現代の中国でも、第二次上海事変は、日中戦争の全面戦争化において大きな節目であったという見方がなされています。

現在の上海市民にとっても思い入れが深いようで、筆者は、上海出身のそんなに歴史好きでもない中国人の友人から、「どうして日本人はこの事件に詳しくないの?」と聞かれたことがあります。

友人いわく、「上海にとって大きな歴史事件なのだから、知っておいてもらいたい」とのことでした。

 筆者自身も、上海は戦前から日本と関わりの深い都市であったという事実を日本の人たちに知っていただきたいと思います。都市に歴史あり。

歴史を共有してこそ、相互理解は進むのではないでしょうか。
筆者:花園 祐