第6代ドイツ連邦大統領リヒャルト・カール・フライヘァ・フォン・ヴァイツゼッカーによる、ドイツ敗戦後40年にあたる1985年5月8日に行われた連邦議会での記念演説は、戦後70年を経た現在においても、この一節で広く知られている。
『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』
今回は、邦訳版『荒れ野の40年』(永井清彦訳)をもとに演説の内容を概括すること、ヴァイツゼッカー大統領の生涯、演説当時の背景などを書きたい。
また、連邦議会での演説から10年後に日本に招かれた時の演説で、日独の戦後の歩みが比較されており、日本の外交姿勢に示唆が与えられている。
動いている歴史の中でもう一度立ち止まって考え直すために、ヴァイツゼッカーの残した言葉に耳を傾けたい。
『荒れ野の40年』
ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説は、1945年ドイツの無条件降伏から40年の記念式典で行われたものである。
当然この日は、近隣の旧連合国では戦勝記念日として祝典が行われていた。しかし、この日はドイツにとってこそ大切な日であるとヴァイツゼッカーは言う。
1985年5月8日演説
「われわれドイツ人はこの日にわれわれの間だけで記念の催しをいたしておりますが、これはどうしても必要なことであります。
われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力をかりて気持を慰めてみても、それだけのことでしかありません。
ことを言いつくろったり、一面的になったりするのではなく、及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんに力を備えております。
われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとがなめた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」
人びとがなめた辛酸というのは、ドイツの被害だけでなく加害も含む。
事実として何が起きたのかを知り、心に刻むこと。心に「刻む」ということ。
(心に刻む: erinnernは英語のremind、rememberに相当。inner:中へ、に接頭語er:目的・到達・達成を付けて、思い出す、覚える、思い起こさせる
ただし、"Remember Pearl Harbor"のrememberとは意識が異なる )
そして、歴史の歩みに思いをこらすというのは、起きたことの原因と、その結果として編み出された歴史および社会変革の因果を正しく解析せよ、ということであろう。
それらは、歴史家によって行われる議論によるのではなく、全ての個人が「誠実かつ純粋に」取り組むべきことだと強調される。
そして、「帰結にこだわりなく責任をとる」ことが求められる。
ヴァイツゼッカーによれば、5月8日はナチズムの暴力支配からの解放の日だとみなしつつも、
「解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な苦しみが始まり、その後もつづいていったことは忘れようもありません。
しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終わったところにあるのではありません。
戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです」
という。それはつまりヒトラーが政権についた1933年1月30日。
そこに思いをこらせ、という。
戦いが終わった5月8日以降に深刻な苦しみが始まった、というのは、日本の終戦後とは異なる。
戦後すぐ、ドイツ東部の人びとへの強制移住(ドイツ人追放)により50万から200万の死者が出た。
満州引き揚げやシベリア抑留の被害者数と比べても、桁違いの規模といえる。
無条件降伏という大きな不安だけではなく、多大なる実害に晒されたドイツ。そして分断。
暗い奈落の過去、不確実な未来。
それは、日本の戦後の比ではない。
しかし、終戦の5月8日は、ナチスの暴力支配と人間蔑視から解放された日、誤った流れの終点だった。
Stunde null(零時:シュトゥンデ ヌル)から、ドイツはどんな道を歩むべきであったか。
ヴァイツゼッカーによれば、
まずは真実を心に刻むこと。
「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。
人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。
しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。
当時まだ若く、ことの計画・実行に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの型がありました。
戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかにしてなったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。
罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。
告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。
充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。
この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。
しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。
だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け会えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」
「心に刻むことなしに和解はない」
ヴァイツゼッカーはユダヤの格言のなかにメッセージを見つけている。
「忘れることを欲するならば捕囚は長びく救いの秘密は心に刻むことにこそ」
「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」
智と情、この二つが必ず併存することが必要だと確かに理解できよう。
二つを併せ持つことは、人生のどんな場面でも必要だろう。(そして次には勇気だろうか?)
ユダヤ人に対する罪だけではない。
戦争を通して、西側諸国への蹂躙や、隣国ポーランドやソ連ほか、東側諸国へはより深刻な損害を与えたし、勿論戦争ゆえ敵から損害を喰らいもした。
そして戦後、戦勝国も戦敗国もそれぞれに復興に立ち上がるなかで、精神面の最初の課題が与えられる。
「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れることをしないという、人間としての力」が試されている。
故郷を追われる悲しみと喪失感は、なかなか想像しえないほど深く苦しいもののようである。
それは島国の日本には全く経験のないものである。
政治的な混乱の中、故郷を失った人々に対し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒めを優先させる」こと、それが、ヨーロッパの平和的秩序のためになしうる、人間としての貢献であるとヴァイツゼッカーは語る。
故郷への愛が平和への愛。
それはパトリオティズムであって、ナショナリズムではない。
パトリオティズムとは、自身と祖先につながる土地や共同体への帰属意識や絆といったものだろうか。
自国への偏愛から、他国より髪一本でも優れていたいと考えるナショナリズムとは異なるものである。
ヴァイツゼッカーは、演説の中で、戦後40年の当時において、具体的に向かうべき方向をいくつか具体的に示している。
「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、‥
人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、‥
独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、‥
中東情勢についての判断を下すさいには、‥
東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、‥」
このうち、現在、ドイツも含めEUが直面している難民問題に絡む2番目の提起についてのヴァイツゼッカーの考えは、「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう」とある。
道徳的には確かに今のドイツには引き継がれているのだが、現実的な対応は相当困難だという印象は残念ながら否めない。
ヴァイツゼッカーと同じCDU(ドイツキリスト教民主同盟)に属するメルケル首相は今、この問題に直面し、道徳と政治の計りの前で苦悩している。
この他に、演説のなかではドイツの分断についてが述べられている。
一民族二国家という不自然な国家形態の悲しみや軋轢は、日本にも起こりうる分断だった。
演説から五年後、だれも予想できなかったドイツ統一が成る。
演説では、ヴァイツゼッカーによって絞り出す涙のように語られた分断の悲しみと統一への果てなき切なる願いは、どれほど重いものだったのかが、語られる言葉のひとつひとつによって、分断を免れた我々の心すらも打つ。
さらに演説において、40年というのが、人間の生のスパンにおいて非常に大きな意味を持つと述べられている。
旧約聖書に照らして、遠い過去の聖書の言葉から警告を聴くのである。
「暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果2対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしております。‥
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。
かつて起ったことへの責任は若い人たちにはありません。
しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。‥
人間は何をしかねないのか、これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に反し究極の完成はありません
いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。
われわれは人間として学んでまいりました。
これからも人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております」
若い人たちへは、他のあらゆる人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにと、年長者へは、率直さによって心に刻み続けることの重要性を若い人びとが理解できるように手助けする義務がある、と説く。
「ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう」、若い人びとへの助力を求めている。
「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」
こう結んで終わる演説は、今を日本に生きる私達にも、たくさんの示唆あるいは警告をもたらしはしないだろうか。
リヒャルト・ヴァイツゼッカーの生涯
リヒャルト・ヴァイツゼッカーは1920年、外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(男爵)の三男一女の末子としてシトゥットガルト新宮殿で生まれる。
父の仕事により、スイス、デンマーク、ノルウェーで育ち、ベルリンに戻る。
祖父カールは法律家で、ヴュルテンベルク公国首相を務めている。
父は海軍少佐から転じて外交官に、ヒトラー政権下で外務次官、ヴァチカン駐在大使。
父の弟は神経学者。
リヒャルトの長兄カール・フリードリヒは高名な物理学者・哲学者であり、第二次大戦中はドイツの原子爆弾開発をしていた。
リヒャルトは1938年(18歳)に奉仕義務によりドイツ国防軍に入営、翌年の1939年9月1日のポーランド侵攻作戦に動員された。
侵攻の翌日、同じ部隊の上官であった3歳上の次兄ハインリヒが、リヒャルトの数百メートルの目前で戦死した。
ポーランド侵攻作戦後は、西方転戦、1941年からはバルバロッサ作戦など東部戦線に参加。
リヒャルトは従軍のあいだ、国防軍の犯罪にも不条理にも直面し失望する一方で、国防軍のなかの見知った者達による1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も身近で見、軍の一部には共感する部分もあったという。
手前にリヒャルト その後ろにハインリヒ 右端カール
1945年、戦後は大学で歴史学と法学を学ぶ。
しかし、父が、外務省に絡んだ一連の裁判(米軍による継続裁判で、連合国による裁判ではない)にかけられることとなり、リヒャルトは休学して弁護団の助手を務める。
その際に手にし、目にしたドイツの犯罪に関する多数の報告書は、リヒャルトに大きな衝撃をもたらした。
英国のチャーチルの援護を得たにもかかわらず、父は有罪となり5年拘留を下されたが、1年半で釈放された。
裁判の後、父エルンストはその残りの生涯で二度と笑顔を見せなかったという。
父エルンストと若き日のリヒャルト
父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー
兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー
エルンストは外務次官という立場にあり、人権犯罪を知りながらもそれを抗議しなかった。
しかし、たとえそこで抗議を起こし、「殉教」したところで、誰一人救うことはできないのは明らかだった。
われわれはこういうとき、どうすればいいのだろうか。そしてそれを誰がどう裁けるのだろうか。
リヒャルトはどう考えたのだろう。
彼はのちの演説のなかで、法と裁判だけでは不十分であり、市民的勇気が必要だと説いている。
沈黙を破る勇気を一人一人の市民が持つべきだと、強い意志の言葉をわれわれは突きつけられている。
リヒャルトは裁判が終わって復学、1955年に法学博士号を取得。
その後は、西ベルリン市長を経て、国政の陰で道徳的な牽引者として信頼を集め、1984年、ヘルムート・コール首相当時に第6代大統領に就任した。
この当時、実はドイツ国内での敗戦国としての立ち位置の考え方には揺らぎがあった。
経済的に発展し、世界に存在感を示してきたドイツ連邦が、その戦争責任をどう考えるのかに、コール首相はこう舵を切った。
「後から生まれた者の恩恵」と称し、敗戦時に15歳だった自分やその後の世代に戦争責任はない、と。
1984年 ドイツ連邦のコール首相とフランスのミッテラン大統領
それは、重苦しい過去から目を背けたがっていた大衆の感情に沿うところがあった。こうしたところから生まれた様々な議論の中で、他国にも目が向けられ、東欧からのドイツ人追放とて「人道に反する罪」に値する、ドイツ人も被害者である、という意見も上がった。
そんな中でむかえた1985年だった。
戦後40年の大統領演説は、その羅針盤になる重要な機となるのは、予期されていた。
その中で、コール首相より10歳年長かつ実戦経験も持つヴァイツゼッカー大統領によって、あのような演説が国民に届けられたのであった。
「歴史の真実を直視せよ」
さらに、戦争を知らない若い世代にも過去にたいする罪はなくても責任はあると説いた。
演説内容を事前に知った議員のうち、保守派のおよそ30人は賛同できないとして欠席した。議場の反応も薄かった。社会もすぐに絶賛したわけではなかった。しかし、言葉の力は深く響き続け、ドイツ国民ばかりでなく、世界に広く静かに反響を及ぼした。