日本と世界

世界の中の日本

日本の戦争犠牲者

2021-11-16 18:31:18 | 日記

2004年11月4日(木)「しんぶん赤旗」

侵略戦争の犠牲者数は本当か?
 
〈問い〉 青年との対話で「数千万人が太平洋戦争で死んだというのはウソ」といわれました。ネット上でもそんな書き込みがあります。犠牲者はどれくらい? それは何にもとづいているか? を教えてください。(長野・一読者)

 〈答え〉 1945年8月15日、天皇制政府は、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏しました。

15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の犠牲をもたらしました。

 戦後、日本政府は、一貫して、侵略戦争と認めることを拒否し、犠牲者数をなるべく過小に計算する見地で資料を作成し、戦争の惨害の本格的な資料を作成してきませんでした。

前記の厚生省資料も、太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会の調査によって推計したものです。

 日本の侵略戦争は、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者をふくむ史上最大の惨害をもたらしました。この数は、各国の政府公表あるいは公的発表にもとづくものです。

 中国1000万人以上(「中国の人権状況」中国国務院=ただし37年7月~45年8月まで。他に2000万人との報告もある)、

べトナム200万人(独立宣言)、インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、
インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、ニュージーランド1万1625人(政府公表)、

オーストラリア2万3365人(同)、そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。

ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。

さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。(喜)

 〔2004・11・4(木)〕


【日本軍兵士】日本人犠牲者310万人、アジア・太平洋戦争の真実

2021-11-16 18:23:15 | 日記
【日本軍兵士】日本人犠牲者310万人、アジア・太平洋戦争の真実

2019/8/13

まるで預言者のように、今を生きる上で知っておくべき重要な真実を紹介する連載「The Prophet」。

今回登場するのは、『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)がロングセラーを続ける一橋大学大学院特任教授、吉田裕氏だ。

日本近現代政治史、日本近現代軍事史の専門家である吉田氏は、膨大な資料に基づき、「兵士の目線・立ち位置」から、無残なアジア・太平洋戦争の現実に迫った。

日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。

そのほとんどは戦闘で「名誉の戦死」をしたのではない。30万人を超える海没死、異常に高い餓死・戦病死、そして特攻──。

なぜ日本軍は、このような形での大量の無残な死を招いてしまったのか。

終戦記念日を前に、3日連続で、英霊たちが体験した壮絶な現実に思いを馳せたい。

吉田 裕(よしだ・ゆたか)/ 一橋大学大学院社会学研究科特任教授
1954(昭和29)年生まれ。77年東京教育大学文学部卒。83年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。83年一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年より一橋大学社会学部教授。2000年より一橋大学院社会学研究科教授。08年より現職。専攻・日本近現代軍事史。日本近現代政治史。著書『日本軍兵士──アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)、『現代歴史学と軍事史研究』(校倉書房)、『兵士たちの戦後史』(岩波書店)など多数。


縦割り組織の弊害

──吉田さんは著書『日本軍兵士』で、310万人に及ぶアジア・太平洋戦争の日本人の戦没者の9割以上が1944年以降の「絶望的抗戦期」に集中している、と指摘しています。

なぜ、大本営など意思決定者は、無謀な戦争を長引かせ、大量の戦没者を出してしまったのでしょうか。











ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説

2021-11-16 17:58:12 | 日記
第6代ドイツ連邦大統領リヒャルト・カール・フライヘァ・フォン・ヴァイツゼッカーによる、ドイツ敗戦後40年にあたる1985年5月8日に行われた連邦議会での記念演説は、戦後70年を経た現在においても、この一節で広く知られている。

『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』

今回は、邦訳版『荒れ野の40年』(永井清彦訳)をもとに演説の内容を概括すること、ヴァイツゼッカー大統領の生涯、演説当時の背景などを書きたい。

また、連邦議会での演説から10年後に日本に招かれた時の演説で、日独の戦後の歩みが比較されており、日本の外交姿勢に示唆が与えられている。

動いている歴史の中でもう一度立ち止まって考え直すために、ヴァイツゼッカーの残した言葉に耳を傾けたい。

『荒れ野の40年』

ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説は、1945年ドイツの無条件降伏から40年の記念式典で行われたものである。

当然この日は、近隣の旧連合国では戦勝記念日として祝典が行われていた。しかし、この日はドイツにとってこそ大切な日であるとヴァイツゼッカーは言う。

1985年5月8日演説

「われわれドイツ人はこの日にわれわれの間だけで記念の催しをいたしておりますが、これはどうしても必要なことであります。

われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力をかりて気持を慰めてみても、それだけのことでしかありません。

ことを言いつくろったり、一面的になったりするのではなく、及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんに力を備えております。

われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとがなめた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」

人びとがなめた辛酸というのは、ドイツの被害だけでなく加害も含む。

事実として何が起きたのかを知り、心に刻むこと。心に「刻む」ということ。

(心に刻む: erinnernは英語のremind、rememberに相当。inner:中へ、に接頭語er:目的・到達・達成を付けて、思い出す、覚える、思い起こさせる
ただし、"Remember Pearl Harbor"のrememberとは意識が異なる )

そして、歴史の歩みに思いをこらすというのは、起きたことの原因と、その結果として編み出された歴史および社会変革の因果を正しく解析せよ、ということであろう。

それらは、歴史家によって行われる議論によるのではなく、全ての個人が「誠実かつ純粋に」取り組むべきことだと強調される。

そして、「帰結にこだわりなく責任をとる」ことが求められる。

ヴァイツゼッカーによれば、5月8日はナチズムの暴力支配からの解放の日だとみなしつつも、

「解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な苦しみが始まり、その後もつづいていったことは忘れようもありません。

しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終わったところにあるのではありません。

戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです」

という。それはつまりヒトラーが政権についた1933年1月30日。
そこに思いをこらせ、という。

戦いが終わった5月8日以降に深刻な苦しみが始まった、というのは、日本の終戦後とは異なる。

戦後すぐ、ドイツ東部の人びとへの強制移住(ドイツ人追放)により50万から200万の死者が出た。

満州引き揚げやシベリア抑留の被害者数と比べても、桁違いの規模といえる。

無条件降伏という大きな不安だけではなく、多大なる実害に晒されたドイツ。そして分断。

暗い奈落の過去、不確実な未来。
それは、日本の戦後の比ではない。

しかし、終戦の5月8日は、ナチスの暴力支配と人間蔑視から解放された日、誤った流れの終点だった。

Stunde null(零時:シュトゥンデ ヌル)から、ドイツはどんな道を歩むべきであったか。

ヴァイツゼッカーによれば、
まずは真実を心に刻むこと。

「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。

人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。

しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。

当時まだ若く、ことの計画・実行に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの型がありました。

戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかにしてなったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。

罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。

告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。

充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。

この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。

ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。

しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。

だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。

心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け会えるのであります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。

後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。

しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

「心に刻むことなしに和解はない」

ヴァイツゼッカーはユダヤの格言のなかにメッセージを見つけている。

「忘れることを欲するならば捕囚は長びく救いの秘密は心に刻むことにこそ」

「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」

智と情、この二つが必ず併存することが必要だと確かに理解できよう。

二つを併せ持つことは、人生のどんな場面でも必要だろう。(そして次には勇気だろうか?)

ユダヤ人に対する罪だけではない。

戦争を通して、西側諸国への蹂躙や、隣国ポーランドやソ連ほか、東側諸国へはより深刻な損害を与えたし、勿論戦争ゆえ敵から損害を喰らいもした。

そして戦後、戦勝国も戦敗国もそれぞれに復興に立ち上がるなかで、精神面の最初の課題が与えられる。

「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れることをしないという、人間としての力」が試されている。

故郷を追われる悲しみと喪失感は、なかなか想像しえないほど深く苦しいもののようである。

それは島国の日本には全く経験のないものである。

政治的な混乱の中、故郷を失った人々に対し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒めを優先させる」こと、それが、ヨーロッパの平和的秩序のためになしうる、人間としての貢献であるとヴァイツゼッカーは語る。

故郷への愛が平和への愛。

それはパトリオティズムであって、ナショナリズムではない。

パトリオティズムとは、自身と祖先につながる土地や共同体への帰属意識や絆といったものだろうか。

自国への偏愛から、他国より髪一本でも優れていたいと考えるナショナリズムとは異なるものである。

ヴァイツゼッカーは、演説の中で、戦後40年の当時において、具体的に向かうべき方向をいくつか具体的に示している。

「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、‥

人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、‥

独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、‥

中東情勢についての判断を下すさいには、‥

東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、‥」

このうち、現在、ドイツも含めEUが直面している難民問題に絡む2番目の提起についてのヴァイツゼッカーの考えは、「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう」とある。

道徳的には確かに今のドイツには引き継がれているのだが、現実的な対応は相当困難だという印象は残念ながら否めない。

ヴァイツゼッカーと同じCDU(ドイツキリスト教民主同盟)に属するメルケル首相は今、この問題に直面し、道徳と政治の計りの前で苦悩している。

この他に、演説のなかではドイツの分断についてが述べられている。

一民族二国家という不自然な国家形態の悲しみや軋轢は、日本にも起こりうる分断だった。

演説から五年後、だれも予想できなかったドイツ統一が成る。

演説では、ヴァイツゼッカーによって絞り出す涙のように語られた分断の悲しみと統一への果てなき切なる願いは、どれほど重いものだったのかが、語られる言葉のひとつひとつによって、分断を免れた我々の心すらも打つ。


さらに演説において、40年というのが、人間の生のスパンにおいて非常に大きな意味を持つと述べられている。

旧約聖書に照らして、遠い過去の聖書の言葉から警告を聴くのである。

「暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果2対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしております。‥

われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。

かつて起ったことへの責任は若い人たちにはありません。

しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。‥

人間は何をしかねないのか、これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

道徳に反し究極の完成はありません
いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。

われわれは人間として学んでまいりました。

これからも人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております」

若い人たちへは、他のあらゆる人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにと、年長者へは、率直さによって心に刻み続けることの重要性を若い人びとが理解できるように手助けする義務がある、と説く。

「ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう」、若い人びとへの助力を求めている。

「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」

こう結んで終わる演説は、今を日本に生きる私達にも、たくさんの示唆あるいは警告をもたらしはしないだろうか。


リヒャルト・ヴァイツゼッカーの生涯

リヒャルト・ヴァイツゼッカーは1920年、外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(男爵)の三男一女の末子としてシトゥットガルト新宮殿で生まれる。

父の仕事により、スイス、デンマーク、ノルウェーで育ち、ベルリンに戻る。
祖父カールは法律家で、ヴュルテンベルク公国首相を務めている。

父は海軍少佐から転じて外交官に、ヒトラー政権下で外務次官、ヴァチカン駐在大使。

父の弟は神経学者。

リヒャルトの長兄カール・フリードリヒは高名な物理学者・哲学者であり、第二次大戦中はドイツの原子爆弾開発をしていた。

リヒャルトは1938年(18歳)に奉仕義務によりドイツ国防軍に入営、翌年の1939年9月1日のポーランド侵攻作戦に動員された。

侵攻の翌日、同じ部隊の上官であった3歳上の次兄ハインリヒが、リヒャルトの数百メートルの目前で戦死した。

ポーランド侵攻作戦後は、西方転戦、1941年からはバルバロッサ作戦など東部戦線に参加。

リヒャルトは従軍のあいだ、国防軍の犯罪にも不条理にも直面し失望する一方で、国防軍のなかの見知った者達による1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も身近で見、軍の一部には共感する部分もあったという。

手前にリヒャルト その後ろにハインリヒ 右端カール


1945年、戦後は大学で歴史学と法学を学ぶ。

しかし、父が、外務省に絡んだ一連の裁判(米軍による継続裁判で、連合国による裁判ではない)にかけられることとなり、リヒャルトは休学して弁護団の助手を務める。

その際に手にし、目にしたドイツの犯罪に関する多数の報告書は、リヒャルトに大きな衝撃をもたらした。

英国のチャーチルの援護を得たにもかかわらず、父は有罪となり5年拘留を下されたが、1年半で釈放された。

裁判の後、父エルンストはその残りの生涯で二度と笑顔を見せなかったという。

父エルンストと若き日のリヒャルト

父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー

兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


エルンストは外務次官という立場にあり、人権犯罪を知りながらもそれを抗議しなかった。

しかし、たとえそこで抗議を起こし、「殉教」したところで、誰一人救うことはできないのは明らかだった。
われわれはこういうとき、どうすればいいのだろうか。そしてそれを誰がどう裁けるのだろうか。
リヒャルトはどう考えたのだろう。

彼はのちの演説のなかで、法と裁判だけでは不十分であり、市民的勇気が必要だと説いている。

沈黙を破る勇気を一人一人の市民が持つべきだと、強い意志の言葉をわれわれは突きつけられている。


リヒャルトは裁判が終わって復学、1955年に法学博士号を取得。

その後は、西ベルリン市長を経て、国政の陰で道徳的な牽引者として信頼を集め、1984年、ヘルムート・コール首相当時に第6代大統領に就任した。

この当時、実はドイツ国内での敗戦国としての立ち位置の考え方には揺らぎがあった。

経済的に発展し、世界に存在感を示してきたドイツ連邦が、その戦争責任をどう考えるのかに、コール首相はこう舵を切った。

「後から生まれた者の恩恵」と称し、敗戦時に15歳だった自分やその後の世代に戦争責任はない、と。


1984年 ドイツ連邦のコール首相とフランスのミッテラン大統領

それは、重苦しい過去から目を背けたがっていた大衆の感情に沿うところがあった。こうしたところから生まれた様々な議論の中で、他国にも目が向けられ、東欧からのドイツ人追放とて「人道に反する罪」に値する、ドイツ人も被害者である、という意見も上がった。

そんな中でむかえた1985年だった。
戦後40年の大統領演説は、その羅針盤になる重要な機となるのは、予期されていた。

その中で、コール首相より10歳年長かつ実戦経験も持つヴァイツゼッカー大統領によって、あのような演説が国民に届けられたのであった。

「歴史の真実を直視せよ」

さらに、戦争を知らない若い世代にも過去にたいする罪はなくても責任はあると説いた。

演説内容を事前に知った議員のうち、保守派のおよそ30人は賛同できないとして欠席した。議場の反応も薄かった。社会もすぐに絶賛したわけではなかった。しかし、言葉の力は深く響き続け、ドイツ国民ばかりでなく、世界に広く静かに反響を及ぼした。


 

太平洋戦争の収支決算報告

2021-11-16 17:00:08 | 日記
戦争に負けた日本が払い続ける「50兆円」のツケとは?

デイリーBOOKウォッチ

2020/10/13


太平洋戦争の収支決算報告

 戦争を扱った本は多いが、本書『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)はなかなかユニークな視点の一冊だと思った。

「戦費・損失・賠償から見た太平洋戦争」という副題がついている。

あの戦争で日本は一体どれだけのものを失ったのか。それを多角的に多方面から数字を拾って紹介している。

戦争で失ったものの大きさ、戦争のばかばかしさに改めてあきれる。

金銭面から解剖
 
著者の青山誠さんは特に現代史研究者というわけではなさそうだ。

経歴によると、大阪芸術大学卒。著書に『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉新書)、『戦術の日本史』(宝島SUGOI文庫)、『金栗四三と田畑政治』(中経の文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。

ウェブサイト『BizAiA!』で「カフェから見るアジア」、雑誌『Shi-Ba』で「日本地犬紀行」を連載中だという。
 本書は以下の構成。

 【序章】日本が戦争をした理由・・・毎年積み上げられた巨額の軍事費、軍事費確保のために使われたアメリカの脅威、など
 【第一章】戦争に費やされたお金について・・・危険領域をはるかに上回る巨額の軍事費、異常事態がまかり通る危険な財政運営、国民への借金はすべて踏み倒された!?......など

 【第二章】戦争で失われた人命と財産・・・太平洋戦争の戦没者は310万人、など

 【第三章】敗戦で失った植民地と占領地・・・敗戦によって半減した日本の領土、など

 【第四章】終わらない償い・・・敗戦後に待ち受けていた〝賠償金〟という責苦、など

 最盛期には800万人を超える兵力を動員し、とてつもない額の戦費を使い、国力を限界まで傾け、持てる人的資源、物的資源を注ぎ込んだ太平洋戦争。

3年9か月にわたる戦争で、日本は多くの人命を失っただけでなく、官民の在外資産、海外領土を喪失した。

国内外の損失はどれほどのものだったのか。

また、戦後に国際社会に復帰するためにどれほどの賠償をおこなったのか。

太平洋戦争を戦費・損失・賠償など、金銭面から解剖すると、かつてない戦争の姿が見えてくる――というのが本書の骨子だ。

アメリカが仮想敵国

 改めて、本書を通して「カネ」の側面からあの戦争を振り返ると、いろいろと尋常ならざる実態が見えてくる。

 まず日本はなぜ戦争に突き進んだか。

日本はすでに1923(大正12)年に定めた「帝国国防方針」(第2次改定)でアメリカを仮想敵国として重視。

軍事費を増大させていた。

国家財政に占める軍事費は30%にもなり、本書によれば、昭和16年には前年の倍近くに膨らんでいる。

すでにアメリカとの戦争を見込んで、軍は戦争をするために予算を獲得していたわけだ。

同年12月8日の真珠湾攻撃直前まで、さまざまな和平交渉が模索されていたが、「カネ」の面では十二分に戦争を想定していたことになる。

この辺りは目からうろこだ。

 本来なら、勝算がわからない戦争への突入は躊躇するのが自然だろう。

しかし、これだけの金を使って軍備を増強したのだから、「使ってみたい」というのが軍人の性だという。

「実戦部隊の提督たちは理性よりも軍人のこの本能が勝っていたように思える」と著者は記す。

 似たような動機は政治家や経済人にもあったようだ。

戦前の日本は、1932年の満州国建国後に「日満支経済圏」の建設に取り掛かり、1940年には輸出の51.1%、輸入の21.9%が日満支経済圏の貿易で占められていた。

すでに中国の一部は占領していたが、国民党の政府を屈服させて支配を中国全域に広げれば、貿易量はさらに増える。

 くわえて東南アジアにも経済圏を広げようとしていたが、そこは欧州の植民地。思うように進まない。

戦争という手段で獲得できれば、軍人にとっては、石油などアメリカとの戦争のための軍事物資が調達できるし、財界人にとっては、経済面での大東亜共栄圏をつくることができるというメリットがあった。

 こうして「カネ」の話を軸に、本書は太平洋戦争に突き進んでいた裏事情を解説する。

インフレ紙くずに
 その結果はどうなったか。

まず戦費。通常の予算では賄えないから公債を乱発した。

高金利ということで買い求めた企業や国民も多かったが、戦争でパーになった。

正確には戦後のインフレで紙くずになった。

軍艦や軍用機などの装備や多数の人命の喪失、空襲などの被害は膨大なものになる。

 さらに本書で再認識したことに、領土の喪失がある。

戦前の日本は約67万平方キロの領土を保有していたが、現在は約37万平方キロ。半分近くを失った。

台湾、朝鮮、南樺太などだ。

南洋群島に保持していた広大な委任統治領も消えた。

本書ではこれらの損失にも言及している。

 台湾は、明治時代の併合時は「不良債権」といわれていたが、長年の経営努力で砂糖、バナナ、パイナップルなどの優良産地として発展していた。

約40万の邦人が居住し、1833社の日本企業があった。

彼らが台湾内に所有していた財産は、終戦時の評価で約425億円。当時の日本の国家予算の約2倍だった。

 朝鮮にも長年多額の資本が投下されていた。

まだ独り立ちできるだけの経済力には達していなかったが、南部の米作や北部の工業地帯が発展し始め、特に北部は鉱山資源が豊かだった。

終戦時には90万人近い日本人が住んでいた。

こちらは台湾の約2倍、約891億円の財産が残されていた。現在の物価水準だと、約17兆円になるという。

 南樺太では炭鉱、鉄道などのインフラは日本が整備し、水産、森林、石炭資源などが豊富だった。

戦後になって近隣では石油、天然ガスが出ており、失ったものは大きい。

千島列島も失ったが、戦後、ロシアの水域で漁業を行うために払う入漁料などは新たな負担になっている。

広大な南洋群島海域はマグロやカツオの好漁場。ここでも戦後は入漁料を払っている。
 満州や中国各地への莫大な投資も泡と消えた。

本書によれば、海外領土は日本が戦争に負けなかったとしても、いずれは日本の支配から脱却した可能性が高いとされているが、その場合は平和的なプロセスを経たはず。

「莫大な投資を回収し、企業や個人資産を持ち出す余裕は与えられただろう・・・石油や天然ガス利権を保有できた可能性もある」と本書は指摘する。

 戦前からの植民地だった台湾や朝鮮半島などにくわえて、中国や東南アジアの占領地に残してきた日本資産を合計すると、その総額は3794億9900万円。

空襲で焼け野原にされた日本内地の被害額の約6倍になるという。

支払い義務が後遺症に

 このほか本書は戦後の賠償にも論及している。

賠償金を支払う相手は、外国だけではない。

自国民に対する戦争の償いも国家財政の大きな負担になった。

金額だけでいえば、むしろ、こちらのほうが桁違いに大きいという。

動員された800万将兵の大半に恩給受給資格があり、その金額は元の階級が高いと多い。

昭和40年代中盤の段階で、恩給受給者は約280万人。

年間総支給額は約2300億円。

国家予算の3~4%を占めていた。

1994年段階では約180万人で年間1兆6400億円。国家予算の2.4%に相当する。

 これまでに日本国内の旧軍人や軍属、戦争被害者に支払われた恩給や遺族年金の総額は50兆円を超えているそうだ。

国民年金や厚生年金よりも手厚いという。

対外賠償の1兆300億円と比べると大差がある。

 本書はこのように戦争を「収支」という面からクールに見つめなおしている。

とにかく、いったん戦争をやってしまうと、戦後も後遺症が「カネ」の形でも残ることが理解できる。

令和の今も支払いが続いている。

 こうして振り返ると、単純に言えば、御先祖が獲得した権益や蓄積した資産をすべて失っただけでなく、子孫にも膨大な負債を残した――これがあの戦争の収支決算ということになる。

戦争にゴーサインを出した責任者たちは、少なくとも日本国の「経営者」としては失格だ。

ところが戦争に深く関与した軍の上位者ほど恩給も多かったというから驚く。

こうした側面からあの戦争を問い直すと、結果論とはいえ、多くの日本人にとって、なんとも首肯しがたいものがあるのではないか。

 BOOKウォッチでは関連書籍を多数紹介している。

戦争では様々な特殊工作、裏工作にも巨額の金が必要だったが、『軍事機密費』(岩波書店)は、日本が戦争を遂行するに当たってそうした金をどのように調達し、使ったかについての克明な記録だ。

 『傀儡政権――日中戦争、対日協力政権史』 (角川新書)は日本が中国につくった多数の「傀儡政権」全般について論じている。

『機密費外交――なぜ日中戦争は避けられなかったのか』(講談社現代新書)は、「外交機密費」を足掛かりにしながら分析している。

『阿片帝国日本と朝鮮人』(岩波書店)は戦前、日本が満州国経営のためにアヘンを利用していたことに詳しい。

『従軍慰安婦と公娼制度』(共栄書房)によると、戦前の中国には約200もの「日本人町」があったという。

『あのころのパラオをさがして――日本統治下の南洋を生きた人々』(集英社)は戦前の南洋群島の話。

多数の日本人が住んでいた。

『草はらに葬られた記憶「日本特務」』(関西学院大学出版会)は、「日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」を扱っている。

『移民たちの「満州」』(平凡社新書)は今や歴史のかなたに忘れられつつある満州への移民について詳述している。『増補 遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』(皓星社)は朝鮮で生まれて育った日本人の体験記だ。
 ベストセラーになった『なぜ必敗の戦争を始めたのか』(文春新書)や『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)は、戦争に行きつくまでの動きがわかりやすい。

『戦争調査会』(講談社)は戦後、幣原喜重郎首相自身が中心となって進めた「敗戦の原因及び実相調査」についての新書だ。

 『かくされてきた戦争孤児』(講談社)は、戦後社会に無視され、置き去りにされてきた孤児たちの口惜しさと無念の思いを、孤児自身による調査や聞き取りをもとにまとめた貴重な一冊だ。

日本では軍人・軍属には手厚いが、空襲死者やその遺族に対しては、いっさいの援助がない、と憤っている。

 『兵器を買わされる日本』 (文春新書)は安倍政権になって、「米国政府」からの兵器購入額が爆発的に増えていることを報告している。

(BOOKウォッチ編集部 aki)



絶望感しかない日本の若者が「保守化」せざるを得ない理由

2021-11-16 15:56:56 | 日記
絶望感しかない日本の若者が「保守化」せざるを得ない理由

福田晃広:清談社



2020.2.29 5:20

右肩上がりの経済成長が望めない日本社会。

その社会情勢のなかで、「そこまでお金がなくても最低限の生活ができればいい」と考える保守的な若者が増えているといわれている。

いまの若者がなぜ保守化してしまったのか、

若者の意識の変化について、関東学院大学経営学部教授で、著書『若者保守化のリアル』(花伝社)がある中西新太郎氏に詳しい話を聞いた。
(清談社 福田晃広)

若者を世代で

一くくりにできない現代社会

自由を求める気持ちが希薄で、「ルールを守る方がラクでいい」と考える若者たちが増えている 

 一口に若者といっても、どうくくっていいのか意外と難しい。

人によって若者像はそれぞれ異なり、大学生までと考える人から、社会人になっても若者だとイメージする人もいるからだ。

 特に現代社会において、世代で分けることは簡単ではないと中西氏は語る

「国際的に若者の定義は21歳までとしていますが、たとえば日本の行政では、34歳までとなっています。

以前は高校や大学を卒業後、社会人となった場合、大人として扱われていましたが、いまでは就職できたとしても、低賃金で生きていくことに精いっぱいなため、一人前とはいえなくなっている。

そのような社会背景があることから、より一層、若者と大人の境目がわかりづらくなっているといえます」(中西氏、以下同)

 職に就き、親元を離れて独立するのが一般的だった傾向が崩れてきたのは、バブル経済崩壊以降の1990年代後半である。

 その時期は就職氷河期といわれ、これまで当たり前であった就職ができない若者たちがあふれ、のちに経済白書で97年はフリーター元年と命名されるほどだった。
 
「いまの若者は積極性がない」といわれるようになったのも、その時期にあたると、中西氏は指摘する。

「簡単に言いますが、戦後最大ともいえるような不景気による社会環境の影響があまりに大きかったのも確か。

就職氷河期を経験していない上の世代が、若者たちの気質のせいだと、責任を押し付けるような見方をしていました。

フリーターだけでなく、ニートや引きこもりの問題も出てきて、若者が消極的になってきたというイメージが定着し始めたといえます」

自由よりもルールに

縛られることを望む若者たち

 若者の消極化の文脈でいえば「いまの若者は上昇志向がない、現状に満足している」などといった、若者の保守化も指摘されている。

 いまの若者の考え方として、自由に価値を置かなくなってきていることも特徴的だと中西氏は指摘する。

「たとえば、80年代までは、中学や高校の制服はないほうがいいという声が多かったのですが、いまはむしろ毎日違う服装にするのが面倒くさいといった理由で、制服を望む子が大半。

大学でも、もちろん学業が本業なので当然なのですが、昔と違って真面目に授業に出席する学生が多い。

加えて、親からの仕送りが期待できない学生の場合、アルバイトもしないといけないほど忙しい。

となると、なかなか要領良く生活する余裕もないのが現状。

なので、そういう意味でも、自由よりもちゃんとルールを設けて守るほうが楽でいいと考える若者が多数派になってきています」

 中西氏によると、恋愛面でも若者たちは自分が勝手に決めつけたルールに縛られ、面倒くさいものだと敬遠しているのだという。

「先ほど言ったように、いまの大学生は授業やアルバイトに忙しく、趣味や恋愛に時間を使っている暇がないのが現状。

さらに『毎日連絡を取らないといけない』『毎日一緒に帰らないといけない』などといったルールがあるものだと思い込み、わざわざ付き合おうとしない。

恋人がいる学生に『クリスマスをどう彼女と過ごせばいいのか、おすすめのコースを教えてください』と聞かれたこともあります。

それほど型にハマった思考に縛られた若者が増えているといえます」

 アベノミクスで景気が上向いても、賃金水準は上がらないまま。

いまの若者世代は、好景気を一度も味わったことがない世代だ。
 
 日本最大の匿名掲示板「2ちゃんねる」の創設者である西村博之氏は著書『このままだと、日本に未来はないよね。』(洋泉社)で、

日本経済が右肩下がりになる可能性が高いと指摘した上で、「10年以内に日本の若者が暴動を始める」のではないかと予測している。

 中西氏は、デモのようなわかりやすい形というよりも、突発的に起きる事件が増えるのではないかと、推測する。

「2018年11月から12月にかけて、日本財団が18歳~22歳の男女3126人を対象にした調査によれば、

『本気で自殺したいと考えたことがある』と答えた割合は全体で30%。

男女別だと男性26%、女性が34%となるほど、約3割の若者が人生に絶望しているのです。

一方、2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京都アニメーション放火殺人事件に象徴されるような、はた目からは動機や目的が理解できない日本独特の事件がポツポツと出てきています」

「そう見ていくと、すでに行き場のない若者が行動に移しているともいえる。目に見える暴動よりも、どこで何が起こるのかわからない、というほうが、社会として問題です」

 ギリギリの生活を強いられ、希望の持ちようがない日本社会で生きる若者たち。

決して満足できる状況ではないにもかかわらず現状維持を望むほど、彼らは疲弊しきっている。

一見従順に見えて、内面にはやり場のない怒りを抱えている…。これが日本の若者の「リアル」なのだ。