三月十八日(日)
九州南部および東部に敵艦載機八百機來襲。
ドイツのルントシュテット元帥は、アイゼンハワーに対し、和平條件を申込んだとの報あり。
すなわちドイツはすべての條件を受諾するが、ただナチ政権の持続を條件とするというのだ。
そして、対ソ戰爭をするために後援せよというのだそうだ。アイゼンハワーは無條件降伏以外は受付けぬと返事したとのこと。
三月十九日(月)
国民学校(初等)を除き、全国授業を停止することに、昨日の閣議で決定。向う一ヵ年は学業は全部なくなったのだ。今までのような学校なら、なくなってもいいかも知れぬ。
三月二十八日(水)
二十五日に敵、沖繩、慶良間列島に上陸と発表。
三井高継君と逢う。靴が破れていた。財閥の巨頭三井一家の人も、衣食住が自由にならないのである。
三月三十日(金)
同盟通信の富田君の話に、和平問題について陸海軍の中でも意見が割れているとのことだ。海軍と陸軍航空隊方面では、英国かソ連を通じて、和平工作をやろうと言っているが、陸軍の大部分が絶対抗戰説であると。そこで小磯内閣も強気で行くことになったそうだ。強硬説を主張すれば、そのほうには暗殺などがないので、当局者はつねに強硬なのだ。
島中雄作の家が強制疎開の命令をうけた由。なにしろ五日ぐらいの楢予期日しかないので、丁寧にやっている暇がない。全部引き倒したり、柱を切断したりのぶっ壞しだ。
戰爭というものの力を見よ。一晩のうちに何十万戸を燒きつくし、さらに残ったものを一片の命令書で取り壞すのである。米国の戰後処分をまたずして、すでに日本は日清戰爭以前の資産状態にかえりつつある。
戰爭は文化の母なり、と軍部のパンフレットは宣伝した。それを批判したから、われらは非国民的な取扱いをうけた。
いま、その言葉を繰返して見ろ! 戰爭は果して文化の母であるか? 恐るべき母。
三月三十一日(土)
オリエンタル・エコノミストに空爆の惨状を描いて、米人に警告する一文を書く。
国民の無知は想像以上である。浅草観音は震災にも燒けなかったし効顯あらたかだから、今度も燒けまいと考えて、観音にかけつけたものが多かった。それが浅草区で死んだものが多かった一因だという。また今日の朝日の投書欄によると、ラッキョウを食えば爆彈に中らぬとか、心掛けの惡いもののみが災害をうけるというような、迷信的見解が戰災地に一般的になっているとのことだ。
四月一日(日)
松本烝治氏來訪さる。孫が数人いるが、どこかに疎開させねばならぬ。が、鎌倉の別莊も、御殿場の別莊も、取り上げられる状態にあり、使うことができぬ。軽井沢に貸してくれる別莊があるが、食糧に困るという他の忠告もあって、これもダメ。新潟にでも疎開させようかと苦慮していると。それから時局談をする。
松本博士いわく、「考えたって仕方がないので、近頃は小説ばかり読んでいる。ディッケンスの本を読んでいるが面白いよ」と。同氏によれば斎藤内閣の商工大臣をやったが、次の内閣に居残ってくれと交渉されたが断った。また、宇垣流産内閣のときに、内務大臣を交渉されたが、司法ならばと受諾したそうだ。
こういう有為の材を、ただ小説を読ませておくとは勿体ない。が、これが現状だ。
四月二日(月)
駅の近くでピアノを百五十円で売りますと言っている女の子がいた。安い、ときいてみると、その日の午後三時までに取りに來なくてはダメだというのである。運輸機関がなくなった現在を語るものである。
四月三日(火)
長谷川如是閑氏を訪問。馬場恒吾氏も來る。暫らく見ないうちに、いかにもおとろえが見える。
馬場氏は戰爭は八月ごろすむだろうという。松本博士もそうした見通しであった。長谷川氏はそうも行くまいよという。僕も勝敗の数は明らかだが、一年ぐらいは続くだろうと言った。
四月五日(木)
国際関係研究会あり、太田三郎君(外務省課長)の談話である。ソ連を中心とする研究である。頭はいい人のようだが、強情で、独断的で、威圧的である。ただ、意思と体力が強いから、これで押し通せば、あるいは大をなすかも知れぬ。
小磯内閣総辞職。正午に経済倶樂部に行くと、すでに後継内閣首班に鈴木(貫太郎)が押されるだろうと噂されていた。太田君は鈴木を一億玉碎の旗頭だろうといった。が、僕のかねて聞いているところではそうでなく、かつ重臣方面の空気からみて、今ごろそうした人を出すはずはないと考えられる。鈴木文史朗君がかつて鈴木に会見し、非常に感服していたのを覚えている。彼はコチ/\の右翼派にあらず、リベラルな誠忠の士といわれている。
ただ果して総理大臣として然るかどうかは、事実によってみるほかなし。大將という看板が、人物を擬裝せしむるものであるから。
四月七日(土)
鈴木大將は誠忠の士のようだ。しかし、手許に大臣候補者なく、狹い範囲からの選択である。ロクなものが集まるはずはない。
日ソ中立條約不延長に対して、惡声一つ放つものなし。元來ならば「ロシア討つべし」といった議論が飛び出すところだ。
田村幸策君の話――日本がソ連と近づけば、米国はヤキモキして日本に手をのべてくる。そういう考えが日本人知識階級に非常に多いと。その通りだ。日本人は国際関係をみるのに極めて勢力均衡的で、それがとくに右翼や軍人に多い。それがリアリスチックでなく、自己独断的だ。
四月八日(日)
内閣の顏ぶれが昨夜決定、発表された。要するに義理を各方面に果したという格好だ。組閣の知惠袋は岡田啓介大將で、その関係から婿の迫水久常を参謀とし、結局書記官長にした。平沼への義理立てには乾分の太田耕造を文相にもってきた。大日本政治会から岡田忠彦(厚相)と桜井兵五郎(国務相)をとった。あとは迫水の友人や自身の海軍関係の後輩である。
外相の東郷(茂徳)は軽井沢にいて間に合わなかったので、一緒に発表されなかった。この人選は惡くない。だれか鹿兒島県人は若いときは平凡だが、老人になるとよくなる人があると言った。東郷はその一人である。小日山直登(満鉄総裁)は満州から上京しつつある。
その構成は雜多だ。しかし、依然として右翼的つまり革新的である。やはりフォーカスが合わぬ。そこが現在の日本を表徴する。
外務省の深井君きたり、昨日あたりまで省では広田が外相になるだろうと言っていたとのことだ。
四月九日(月)
鈴木首相は「政治は元來嫌いだ」と新聞記者に言った。この政治嫌いな海軍大將を引き出さねばならぬところに、現代日本の悩みがある。
蝋山君の話では、重光に一応留任の勧告があったが、重光はこれを拒絶したとのことである。
ある人はこれを身代り内閣といった。広瀬(豊作)藏相は勝田主計の婿さんである。重臣がでる代りに、その第二世を出したのだ。
毎日新聞の報ずるところでは、小磯が現役に復して陸相になろうとしたが、陸軍が反対したので沙汰やみになったと。
沖繩では日本の連合艦隊が出動し、最後的な奮鬪をしたそうだ。敵側の放送によれば日本の四万五千トン級の戰艦を撃沈したとか、これは日本でも認めている。
四月十日(火)
「この国民は何という従順な国民だろう」と植原悦二郎氏がいえば、信夫(淳平)博士(国際法学者)、永井松三氏(元大使)もこれに和す。この意は強制立退きで、家をメチャクチャにこわされて、それでも默っているという意味だ。実際、電車からその両側をみれば、住宅をメチャクチャに破壞している。まるで空襲の後と同じだ。壁をこわして、繩をつけ、引き倒すのである。瓦などすっかりこわされている。この資材の不足のときに、タタミや陶器類が四散し、見るにたえないものがある。
植原君の話では、いつかその主任技師の交詢社での話に、土地は陛下のものであり、国策によりこわすのに何の遠慮もなくドシ/\やると言った。植原氏は聞くにたえず、中座したとのことである。
四月十一日(水)
僕は最後まで重光に人間的なものを発見せず、また政治的偉大性というものも感ぜず、單に事務官僚としか考えなかった。僕がジャポニカスに働いていることを知りながら、高柳君のみを相手としていた事実が、僕に多少の偏見を与えたかも知れぬ。それでも差支えない。僕らや蝋山君にそうした感じを与えたことが、官僚式であることを示すものだからだ。しかし、そうした感じをヌキにして公平に判断しても、僕は彼の外交がすぐれているゆえんを発見しなかった。
近ごろ僕はくだらない本を買う。大東亞戰爭下に、いかに下劣な刊行物が横行していたかを考証せんがためだ。しかし、最も不愉快な仕事だ。こんな書籍に書棚を貸すのは嫌だ。乞食を奧座敷に寢せるような気がする。
四月十二日(水)
小日山直登、運通相に就任。国務大臣に安井藤治という陸軍中將就任。阿南(維幾)陸相の同級の親友だというだけの理由らしい。
眞面目なる明治研究家菊田貞雄君逝く。「征韓論」の著者である。大熊眞君を失い、またこのマジメな学者を失う。落胆にたえず。
四月十三日(金)
ルーズベルト大統領、脳溢血にて逝去すとの報あり。
四月十四日(土)
昨夜、敵機百七十機東京を空襲。明治神宮、宮中の一部燒かる。例によってどこが燒けたか一切不明だが、かなり広範にわたって燒失、戰爭の惨状まことに言語に絶す。
四月十七日(火)
沖繩の戰況が絶望的であるのは、誰も知っていることだ。が、新聞はまだ「神機」を言っている。無論、軍部の発表によるものだ。しかし、国民は信じまい。だれも信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。
ルーズベルトの葬儀は十五日行われた。暸の話では、食事のとき学校でルーズベルトの死をきいて喝采したが、二人とか三人だけ集まったときの話になると、みんな惜しいことをしたと言ったそうだ。その翌日経済倶樂部に行ったが、戰後経営を彼にやらせたかったという意見が絶対多数だった。これだけひどい目にあっても敵を呪う気持ちが少いのは、意外というほかはない。
四月十九日(木)
陸軍は依然として敵を本土に上陸せしめ、そこで迎え討たんとする作戰であるが、米内が頑張って沖繩の海辺で決戰することになったという。陸軍は最後までバカバカしいことを考えているものである。
東洋経済の鎌田君という記者、爆撃で足をやられ、足先きを切断したが、それが原因で死去した。死体を入れる棺桶がないので、東洋経済の別館をこわした古材木で棺桶をつくった。燒き場を利用することも困難だが、リヤカーか何かで運ぶらしい。悲劇をそのままだ。
四月二十日(金)
小汀君の話では、十三日の空爆の罹災者五十八万人、十五日の分は六十万人、それに三月十日のものを合わせると、二百二、三十万を突破するという。
沖繩の戰況がよいというので各方面で樂観続出。株もぐっと高い。沖繩の敵が無條件降伏したという説を、僕もきき、暸もきいた。中にはアメリカが講和を申し込んできたというものがある。民衆がいかに無知であるかがわかる。が、この種のデマは日本中に根強く伝えられているらしい。
四月二十二日(日)
今朝の新聞は内務省に百二十五名の異動を行ったことを報じている。これは読売によると久しく沈滯鬱積された人事を刷新するためだそうだ。が、やるものもやるものだが、新聞記者も新聞記者だ。僕の知っている町村(金五)新任警視総監をみても、開戰当時は富山県知事であったのが、警保局長、休職、新潟県知事、警視総監と代っており、安積得也君のごときも、東京府経済部長、栃木県知事、綜合計画局第三部長それから東海北陸副総監である。非常時だ非常時だと言いながら、わすか三年ばかりの間にこの頻繁な更迭である。何が久しく沈滯鬱積した人事か。
つまり、役人中心の政治である。いわゆる革新主義――実は封建的観念主義が、まだ政治の中心をなしているのだ。さすが毎日も社説で「官吏の異動を停止せよ」という。新聞が内閣の施策を批判したのは、これが近來はじめてである。
四月二十三日(月)
赤軍ベルリンに突入す。最後までナチはふみとどまり玉碎。かかる戰爭方法が賞讃さるべきか。無條件降伏を強制した米、英の戰法も將來批判されるであろうが、玉碎戰法もまた後世史家の論題たらん。
東洋経済の評議員会に出席。蝋山君のいうところでは、重光は留任を運動したるよし。また彼は首相の地位を狙ったともいわれる。
四月二十四日(火)
沓掛までの切符を二枚入手。各方面へのお礼で沓掛への切符一枚が五十円ぐらいにつく。窓口の出札掛りはこうしたお礼を公然とるよし。
四月二十五日(水)
午前五時半、予定のごとく沓掛着。井出君の家にて朝食のご馳走にあずかり、山莊に至る。
四月二十六日(木)
暸とともに畠に着手。井出君のところに馬鈴薯のタネイモと堆肥をもらいに行く。僕は大八車を曳いて帰る。途中で馬糞を一つ拾う。生憎く拾いとるものがないので、手でつかんで車に入れる。女学生が通るので、さすがに手づかみにするのが恥かしく、近くの紙きれを使う。だが、女学生たちも紳士の馬糞拾いは珍しくないらしく、振りかえっても見ない。
馬糞を拾いながら、こうすることが国家や社会のためかと思う。ディヴィジョン・オヴ・レーバーがなくなり、われら自身が土方のようなことをやらせられるのである。
四月二十八日(土)
午後、正宗白鳥氏を訪う。彼は嚴寒を高原に送って、むさ苦しい田舍労働者となり了る。「飢と寒気と戰って動物のように生きてきた」と吐き出すようにいう。彼は隣りの土地を買った。一坪二十円なにがし、東京郊外の値段だ。「働くのが嫌だ」というが、さればとて働かねば食えぬ。その土地の樂なところを開墾することを勧め、彼もそれに従うと決心したようだ。
帰りに坂本君のところに寄る。たまたま鳩山一郎氏あり。吉田茂(前駐英大使)が、確か十五、六日ごろ憲兵隊に引張られたと話していた。樺山愛輔(貴議・千代田保險社長・後枢密顧問官)伯も家宅捜査された。また評論家の岩淵辰雄も憲兵に引張られたとのこと。「馬場恒吾はどうですか」といっていた。閣議かどこかで敗戰主義者を全部あげるという議があったが、それでは六千万人ぐらいをあげなくてはならぬからと取りやめになったと笑う。
僕もかねてからそういうことになるだろうと考えていた。最後のもだえである。
それにしても僕の身辺が無事なのが不思議だ。ただ一つ奇妙なことは、四月十五日の空襲の夜、二人の男が僕の家に來て、「下丸子の工場にいたが、家族を防空壕に避難させた。家は燒かれたらしい」と暫く話し込んでいった。僕は当時消火に努力しながら、この人々に対し無辜の市民を空爆する米敵を呪った。「戰爭だから住民をやるのは仕方がないが、工場が惜しい」とも言った。そう考えないでは決してないが、こういう場合に自己防衞の意味があったことは否定できぬ。
この二人は何人であったか知らぬ。しかし、あらゆる場合に憲兵政治がスパイ行為をしていることは事実だ。
正宗氏の話では、軽井沢の万平ホテルにソ連大使館が疎開してきたが、そのボーイは全部憲兵だと話していた。
四月二十九日(日)
天長節、畠をやる、寒し。
国民義勇隊なるものを組織して、本土防衞の準備を進む。ドイツの玉碎主義と同じ行き方である。
田舍にも漸次宣伝組織が入り込み、動きがとれぬようになってきている。正宗氏のところで労働者を雇おうとすると、まず町の労務事務所に届出で、その許可をうける。労働者とともに監督がきて、どの仕事はしてもよく、どの仕事はやってはいけない、と一々干渉する。一日の公定賃金は八円だが、十円は普通であり、中には一日に八十円も請求したものがあるという。労働者三、四名に一人の監督――俸給生活者がつくわけである。
四月三十日(月)
晩のラジオでドイツのヒムラーが米英に対して、無條件降伏を申し出たと伝う。米英はソ連を含む連合国に同樣の申し出でがなければ受付けないという。また、ムッソリーニもその一味とともにとらえられたことを報ず。
五月一日(火)
相変らず畠をやる。花壇をつくる。生活は食うことのみにあらず。願くば困苦の間にも、多少の文化的享樂を許されよ。
井出君がきて、町でドイツが無條件降伏したことが盛んに問題になっていることを伝う。昨日井出君がきたとき「ドイツが危いようですね」と言うから、「すでにドイツはカタがついたのだ」といった。彼は不承々々であった。が、帰って晩のラジオで無條件降伏を聞いたのだ。「どうしてドイツは頑張らなかったのだろう」と、どこでも不思議な話として話し合っているそうだ。新聞がつねに優勢らしく伝えるので、一般人にはドイツの苦境がわからなかった。そして、突如として現出した事件のように思うのだ。
近ごろの手続きの煩雜なこと限りなし。軽井沢に到着の日、水道をあけてくれるように町役場に依頼したが翌日くる。そして「水道の口は台所と風呂場だけあける」という。水洗便所は使わないが、洗面所だけは欲しいというと、「戰爭中は我慢してもらいます」といい、「それでグズグズいうなら、全然水道を遮断します」と頭からいう。戰爭は田舍者をも不親切にするのである。
五月二日(水)
坂本(直道)氏のところに寄る。また、たま/\鳩山一郎氏あり。ティー・タイムにご馳走になりながら、愉快に話す。そこでの話――
鈴木内閣の出現の事情――重臣会議でまず口を開いたのが東條である。彼は、「この際、戰爭を妥協で打ち切るか、然らざれば最後まで戰い拔くか、このことを決定して置く要あり。私は絶対に戰い拔くことを主張する」といった。平沼(騏一郎)がこれに和し、鈴木も同じく、「絶対に戰い拔く」といった。近衞は、「戰爭をどうするかというようなことは、後継首相の決定すべきことで、ここで論議すべきことではない」といい、岡田大將がこれに賛成した。これに対し、若槻は、「御下問されたことは首相の人選であるから、その他のことは問題外だ」と述べた。
それから人選に移り、鈴木は、「いちばん若い人が局に当るがよい」とて、近衞を意味する発言をしたが、これに賛成するものなく、つぎに平沼が「鈴木大將を」と述べて、これに決定したとのことである。
これより先き、陸軍は迫水を書記官長に推薦し、内閣支持の條件とした。米内は鈴木に対し、その非を申入れたが、すでに深く食い込んで、どうすることもできなかった。軍は鈴木に三つの條件を出し、これを承諾させたが、その中には「軍部を尊重すること」という一條があった。
坂本君は東郷茂徳君が外相になる前に立ち話をしたことがある。東郷は戰爭終結をソ連に期待しているようであった。ソ連をして口をきかせるために樺太をかえし、共産党の公認などを條件とすれば十分だろうといっていたという。
鳩山氏はソ連が口をきいても、米英がそれによって、いくらかでも讓歩するだろうか。自分はしないと思う。自身は率直に英米に対し、日本の條件を出すのがいいではないかと思うと言った。
僕はとにかく戰爭を終結せしむる必要がある。それがためには、(一)無條件降伏、(二)ソ連を仲介に立てるか、(三)蒋介石を立てるか、(四)英国あたりに言いだすか、いずれの道でも目的を達すれば、それをとるべきだと言った。
談話はきわめて愉快であった。無知がいかに罪惡であるかが、三人の一致した意見である。国民を賢明にする必要がある。それには先ず言論の自由を許すのが先決問題だ。
ヒトラー死せりとの報あり。ムッソリーニ殺害されたと伝う。
水道洩り、森角という店に修繕をたのむ。「承って置きましょう」という。まるでお役所だ。「お引受けできません」というのである。何か人間と交渉するたびに、不愉快限りなく、神経衰弱になるおそれあり。
五月三日(木)
ヒトラーが戰爭指揮中死せりとラジオは伝う。この梟雄はまず終りを完うしたりというべきである。ヒムラーは無條件降伏を申し出で、デニッツは徹底抗戰を声明す。ドイツ国内四分五裂した情勢を示すに足る。
(日記は五月五日で終っている)
底本:「暗黒日記 普及版」東洋経済新報社
1954(昭和29)年6月15日第1刷発行