日本と世界

世界の中の日本

暗黒日記 清澤洌 昭和二十年  (三月十八日(日)――五月三日迄)

2021-11-17 18:24:39 | 日記


三月十八日(日)
 九州南部および東部に敵艦載機八百機來襲。
 
ドイツのルントシュテット元帥は、アイゼンハワーに対し、和平條件を申込んだとの報あり。

すなわちドイツはすべての條件を受諾するが、ただナチ政権の持続を條件とするというのだ。

そして、対ソ戰爭をするために後援せよというのだそうだ。アイゼンハワーは無條件降伏以外は受付けぬと返事したとのこと。

三月十九日(月)
 国民学校(初等)を除き、全国授業を停止することに、昨日の閣議で決定。向う一ヵ年は学業は全部なくなったのだ。今までのような学校なら、なくなってもいいかも知れぬ。

三月二十八日(水)
 二十五日に敵、沖繩、慶良間列島に上陸と発表。
 三井高継君と逢う。靴が破れていた。財閥の巨頭三井一家の人も、衣食住が自由にならないのである。

三月三十日(金)
 同盟通信の富田君の話に、和平問題について陸海軍の中でも意見が割れているとのことだ。海軍と陸軍航空隊方面では、英国かソ連を通じて、和平工作をやろうと言っているが、陸軍の大部分が絶対抗戰説であると。そこで小磯内閣も強気で行くことになったそうだ。強硬説を主張すれば、そのほうには暗殺などがないので、当局者はつねに強硬なのだ。
 島中雄作の家が強制疎開の命令をうけた由。なにしろ五日ぐらいの楢予期日しかないので、丁寧にやっている暇がない。全部引き倒したり、柱を切断したりのぶっ壞しだ。
 戰爭というものの力を見よ。一晩のうちに何十万戸を燒きつくし、さらに残ったものを一片の命令書で取り壞すのである。米国の戰後処分をまたずして、すでに日本は日清戰爭以前の資産状態にかえりつつある。
 戰爭は文化の母なり、と軍部のパンフレットは宣伝した。それを批判したから、われらは非国民的な取扱いをうけた。
 いま、その言葉を繰返して見ろ! 戰爭は果して文化の母であるか? 恐るべき母。

三月三十一日(土)
 オリエンタル・エコノミストに空爆の惨状を描いて、米人に警告する一文を書く。
 国民の無知は想像以上である。浅草観音は震災にも燒けなかったし効顯あらたかだから、今度も燒けまいと考えて、観音にかけつけたものが多かった。それが浅草区で死んだものが多かった一因だという。また今日の朝日の投書欄によると、ラッキョウを食えば爆彈に中らぬとか、心掛けの惡いもののみが災害をうけるというような、迷信的見解が戰災地に一般的になっているとのことだ。

四月一日(日)
 松本烝治氏來訪さる。孫が数人いるが、どこかに疎開させねばならぬ。が、鎌倉の別莊も、御殿場の別莊も、取り上げられる状態にあり、使うことができぬ。軽井沢に貸してくれる別莊があるが、食糧に困るという他の忠告もあって、これもダメ。新潟にでも疎開させようかと苦慮していると。それから時局談をする。
 松本博士いわく、「考えたって仕方がないので、近頃は小説ばかり読んでいる。ディッケンスの本を読んでいるが面白いよ」と。同氏によれば斎藤内閣の商工大臣をやったが、次の内閣に居残ってくれと交渉されたが断った。また、宇垣流産内閣のときに、内務大臣を交渉されたが、司法ならばと受諾したそうだ。
 こういう有為の材を、ただ小説を読ませておくとは勿体ない。が、これが現状だ。

四月二日(月)
 駅の近くでピアノを百五十円で売りますと言っている女の子がいた。安い、ときいてみると、その日の午後三時までに取りに來なくてはダメだというのである。運輸機関がなくなった現在を語るものである。

四月三日(火)
 長谷川如是閑氏を訪問。馬場恒吾氏も來る。暫らく見ないうちに、いかにもおとろえが見える。
 馬場氏は戰爭は八月ごろすむだろうという。松本博士もそうした見通しであった。長谷川氏はそうも行くまいよという。僕も勝敗の数は明らかだが、一年ぐらいは続くだろうと言った。

四月五日(木)
 国際関係研究会あり、太田三郎君(外務省課長)の談話である。ソ連を中心とする研究である。頭はいい人のようだが、強情で、独断的で、威圧的である。ただ、意思と体力が強いから、これで押し通せば、あるいは大をなすかも知れぬ。
 小磯内閣総辞職。正午に経済倶樂部に行くと、すでに後継内閣首班に鈴木(貫太郎)が押されるだろうと噂されていた。太田君は鈴木を一億玉碎の旗頭だろうといった。が、僕のかねて聞いているところではそうでなく、かつ重臣方面の空気からみて、今ごろそうした人を出すはずはないと考えられる。鈴木文史朗君がかつて鈴木に会見し、非常に感服していたのを覚えている。彼はコチ/\の右翼派にあらず、リベラルな誠忠の士といわれている。
 ただ果して総理大臣として然るかどうかは、事実によってみるほかなし。大將という看板が、人物を擬裝せしむるものであるから。

四月七日(土)
 鈴木大將は誠忠の士のようだ。しかし、手許に大臣候補者なく、狹い範囲からの選択である。ロクなものが集まるはずはない。
 日ソ中立條約不延長に対して、惡声一つ放つものなし。元來ならば「ロシア討つべし」といった議論が飛び出すところだ。
 田村幸策君の話――日本がソ連と近づけば、米国はヤキモキして日本に手をのべてくる。そういう考えが日本人知識階級に非常に多いと。その通りだ。日本人は国際関係をみるのに極めて勢力均衡的で、それがとくに右翼や軍人に多い。それがリアリスチックでなく、自己独断的だ。

四月八日(日)
 内閣の顏ぶれが昨夜決定、発表された。要するに義理を各方面に果したという格好だ。組閣の知惠袋は岡田啓介大將で、その関係から婿の迫水久常を参謀とし、結局書記官長にした。平沼への義理立てには乾分の太田耕造を文相にもってきた。大日本政治会から岡田忠彦(厚相)と桜井兵五郎(国務相)をとった。あとは迫水の友人や自身の海軍関係の後輩である。
 外相の東郷(茂徳)は軽井沢にいて間に合わなかったので、一緒に発表されなかった。この人選は惡くない。だれか鹿兒島県人は若いときは平凡だが、老人になるとよくなる人があると言った。東郷はその一人である。小日山直登(満鉄総裁)は満州から上京しつつある。
 その構成は雜多だ。しかし、依然として右翼的つまり革新的である。やはりフォーカスが合わぬ。そこが現在の日本を表徴する。
 外務省の深井君きたり、昨日あたりまで省では広田が外相になるだろうと言っていたとのことだ。

四月九日(月)
 鈴木首相は「政治は元來嫌いだ」と新聞記者に言った。この政治嫌いな海軍大將を引き出さねばならぬところに、現代日本の悩みがある。
 蝋山君の話では、重光に一応留任の勧告があったが、重光はこれを拒絶したとのことである。
 ある人はこれを身代り内閣といった。広瀬(豊作)藏相は勝田主計の婿さんである。重臣がでる代りに、その第二世を出したのだ。
 毎日新聞の報ずるところでは、小磯が現役に復して陸相になろうとしたが、陸軍が反対したので沙汰やみになったと。
 沖繩では日本の連合艦隊が出動し、最後的な奮鬪をしたそうだ。敵側の放送によれば日本の四万五千トン級の戰艦を撃沈したとか、これは日本でも認めている。

四月十日(火)
「この国民は何という従順な国民だろう」と植原悦二郎氏がいえば、信夫(淳平)博士(国際法学者)、永井松三氏(元大使)もこれに和す。この意は強制立退きで、家をメチャクチャにこわされて、それでも默っているという意味だ。実際、電車からその両側をみれば、住宅をメチャクチャに破壞している。まるで空襲の後と同じだ。壁をこわして、繩をつけ、引き倒すのである。瓦などすっかりこわされている。この資材の不足のときに、タタミや陶器類が四散し、見るにたえないものがある。
 植原君の話では、いつかその主任技師の交詢社での話に、土地は陛下のものであり、国策によりこわすのに何の遠慮もなくドシ/\やると言った。植原氏は聞くにたえず、中座したとのことである。

四月十一日(水)
 僕は最後まで重光に人間的なものを発見せず、また政治的偉大性というものも感ぜず、單に事務官僚としか考えなかった。僕がジャポニカスに働いていることを知りながら、高柳君のみを相手としていた事実が、僕に多少の偏見を与えたかも知れぬ。それでも差支えない。僕らや蝋山君にそうした感じを与えたことが、官僚式であることを示すものだからだ。しかし、そうした感じをヌキにして公平に判断しても、僕は彼の外交がすぐれているゆえんを発見しなかった。
 近ごろ僕はくだらない本を買う。大東亞戰爭下に、いかに下劣な刊行物が横行していたかを考証せんがためだ。しかし、最も不愉快な仕事だ。こんな書籍に書棚を貸すのは嫌だ。乞食を奧座敷に寢せるような気がする。

四月十二日(水)
 小日山直登、運通相に就任。国務大臣に安井藤治という陸軍中將就任。阿南(維幾)陸相の同級の親友だというだけの理由らしい。
 眞面目なる明治研究家菊田貞雄君逝く。「征韓論」の著者である。大熊眞君を失い、またこのマジメな学者を失う。落胆にたえず。

四月十三日(金)
 ルーズベルト大統領、脳溢血にて逝去すとの報あり。

四月十四日(土)
 昨夜、敵機百七十機東京を空襲。明治神宮、宮中の一部燒かる。例によってどこが燒けたか一切不明だが、かなり広範にわたって燒失、戰爭の惨状まことに言語に絶す。

四月十七日(火)
 沖繩の戰況が絶望的であるのは、誰も知っていることだ。が、新聞はまだ「神機」を言っている。無論、軍部の発表によるものだ。しかし、国民は信じまい。だれも信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。
 ルーズベルトの葬儀は十五日行われた。暸の話では、食事のとき学校でルーズベルトの死をきいて喝采したが、二人とか三人だけ集まったときの話になると、みんな惜しいことをしたと言ったそうだ。その翌日経済倶樂部に行ったが、戰後経営を彼にやらせたかったという意見が絶対多数だった。これだけひどい目にあっても敵を呪う気持ちが少いのは、意外というほかはない。

四月十九日(木)
 陸軍は依然として敵を本土に上陸せしめ、そこで迎え討たんとする作戰であるが、米内が頑張って沖繩の海辺で決戰することになったという。陸軍は最後までバカバカしいことを考えているものである。
 東洋経済の鎌田君という記者、爆撃で足をやられ、足先きを切断したが、それが原因で死去した。死体を入れる棺桶がないので、東洋経済の別館をこわした古材木で棺桶をつくった。燒き場を利用することも困難だが、リヤカーか何かで運ぶらしい。悲劇をそのままだ。

四月二十日(金)
 小汀君の話では、十三日の空爆の罹災者五十八万人、十五日の分は六十万人、それに三月十日のものを合わせると、二百二、三十万を突破するという。
 沖繩の戰況がよいというので各方面で樂観続出。株もぐっと高い。沖繩の敵が無條件降伏したという説を、僕もきき、暸もきいた。中にはアメリカが講和を申し込んできたというものがある。民衆がいかに無知であるかがわかる。が、この種のデマは日本中に根強く伝えられているらしい。

四月二十二日(日)
 今朝の新聞は内務省に百二十五名の異動を行ったことを報じている。これは読売によると久しく沈滯鬱積された人事を刷新するためだそうだ。が、やるものもやるものだが、新聞記者も新聞記者だ。僕の知っている町村(金五)新任警視総監をみても、開戰当時は富山県知事であったのが、警保局長、休職、新潟県知事、警視総監と代っており、安積得也君のごときも、東京府経済部長、栃木県知事、綜合計画局第三部長それから東海北陸副総監である。非常時だ非常時だと言いながら、わすか三年ばかりの間にこの頻繁な更迭である。何が久しく沈滯鬱積した人事か。
 つまり、役人中心の政治である。いわゆる革新主義――実は封建的観念主義が、まだ政治の中心をなしているのだ。さすが毎日も社説で「官吏の異動を停止せよ」という。新聞が内閣の施策を批判したのは、これが近來はじめてである。

四月二十三日(月)
 赤軍ベルリンに突入す。最後までナチはふみとどまり玉碎。かかる戰爭方法が賞讃さるべきか。無條件降伏を強制した米、英の戰法も將來批判されるであろうが、玉碎戰法もまた後世史家の論題たらん。
 東洋経済の評議員会に出席。蝋山君のいうところでは、重光は留任を運動したるよし。また彼は首相の地位を狙ったともいわれる。

四月二十四日(火)
 沓掛までの切符を二枚入手。各方面へのお礼で沓掛への切符一枚が五十円ぐらいにつく。窓口の出札掛りはこうしたお礼を公然とるよし。

四月二十五日(水)
 午前五時半、予定のごとく沓掛着。井出君の家にて朝食のご馳走にあずかり、山莊に至る。

四月二十六日(木)
 暸とともに畠に着手。井出君のところに馬鈴薯のタネイモと堆肥をもらいに行く。僕は大八車を曳いて帰る。途中で馬糞を一つ拾う。生憎く拾いとるものがないので、手でつかんで車に入れる。女学生が通るので、さすがに手づかみにするのが恥かしく、近くの紙きれを使う。だが、女学生たちも紳士の馬糞拾いは珍しくないらしく、振りかえっても見ない。
 馬糞を拾いながら、こうすることが国家や社会のためかと思う。ディヴィジョン・オヴ・レーバーがなくなり、われら自身が土方のようなことをやらせられるのである。

四月二十八日(土)
 午後、正宗白鳥氏を訪う。彼は嚴寒を高原に送って、むさ苦しい田舍労働者となり了る。「飢と寒気と戰って動物のように生きてきた」と吐き出すようにいう。彼は隣りの土地を買った。一坪二十円なにがし、東京郊外の値段だ。「働くのが嫌だ」というが、さればとて働かねば食えぬ。その土地の樂なところを開墾することを勧め、彼もそれに従うと決心したようだ。
 帰りに坂本君のところに寄る。たまたま鳩山一郎氏あり。吉田茂(前駐英大使)が、確か十五、六日ごろ憲兵隊に引張られたと話していた。樺山愛輔(貴議・千代田保險社長・後枢密顧問官)伯も家宅捜査された。また評論家の岩淵辰雄も憲兵に引張られたとのこと。「馬場恒吾はどうですか」といっていた。閣議かどこかで敗戰主義者を全部あげるという議があったが、それでは六千万人ぐらいをあげなくてはならぬからと取りやめになったと笑う。
 僕もかねてからそういうことになるだろうと考えていた。最後のもだえである。
 それにしても僕の身辺が無事なのが不思議だ。ただ一つ奇妙なことは、四月十五日の空襲の夜、二人の男が僕の家に來て、「下丸子の工場にいたが、家族を防空壕に避難させた。家は燒かれたらしい」と暫く話し込んでいった。僕は当時消火に努力しながら、この人々に対し無辜の市民を空爆する米敵を呪った。「戰爭だから住民をやるのは仕方がないが、工場が惜しい」とも言った。そう考えないでは決してないが、こういう場合に自己防衞の意味があったことは否定できぬ。
 この二人は何人であったか知らぬ。しかし、あらゆる場合に憲兵政治がスパイ行為をしていることは事実だ。
 正宗氏の話では、軽井沢の万平ホテルにソ連大使館が疎開してきたが、そのボーイは全部憲兵だと話していた。

四月二十九日(日)
 天長節、畠をやる、寒し。
 国民義勇隊なるものを組織して、本土防衞の準備を進む。ドイツの玉碎主義と同じ行き方である。
 田舍にも漸次宣伝組織が入り込み、動きがとれぬようになってきている。正宗氏のところで労働者を雇おうとすると、まず町の労務事務所に届出で、その許可をうける。労働者とともに監督がきて、どの仕事はしてもよく、どの仕事はやってはいけない、と一々干渉する。一日の公定賃金は八円だが、十円は普通であり、中には一日に八十円も請求したものがあるという。労働者三、四名に一人の監督――俸給生活者がつくわけである。

四月三十日(月)
 晩のラジオでドイツのヒムラーが米英に対して、無條件降伏を申し出たと伝う。米英はソ連を含む連合国に同樣の申し出でがなければ受付けないという。また、ムッソリーニもその一味とともにとらえられたことを報ず。

五月一日(火)
 相変らず畠をやる。花壇をつくる。生活は食うことのみにあらず。願くば困苦の間にも、多少の文化的享樂を許されよ。
 井出君がきて、町でドイツが無條件降伏したことが盛んに問題になっていることを伝う。昨日井出君がきたとき「ドイツが危いようですね」と言うから、「すでにドイツはカタがついたのだ」といった。彼は不承々々であった。が、帰って晩のラジオで無條件降伏を聞いたのだ。「どうしてドイツは頑張らなかったのだろう」と、どこでも不思議な話として話し合っているそうだ。新聞がつねに優勢らしく伝えるので、一般人にはドイツの苦境がわからなかった。そして、突如として現出した事件のように思うのだ。
 近ごろの手続きの煩雜なこと限りなし。軽井沢に到着の日、水道をあけてくれるように町役場に依頼したが翌日くる。そして「水道の口は台所と風呂場だけあける」という。水洗便所は使わないが、洗面所だけは欲しいというと、「戰爭中は我慢してもらいます」といい、「それでグズグズいうなら、全然水道を遮断します」と頭からいう。戰爭は田舍者をも不親切にするのである。

五月二日(水)
 坂本(直道)氏のところに寄る。また、たま/\鳩山一郎氏あり。ティー・タイムにご馳走になりながら、愉快に話す。そこでの話――
 鈴木内閣の出現の事情――重臣会議でまず口を開いたのが東條である。彼は、「この際、戰爭を妥協で打ち切るか、然らざれば最後まで戰い拔くか、このことを決定して置く要あり。私は絶対に戰い拔くことを主張する」といった。平沼(騏一郎)がこれに和し、鈴木も同じく、「絶対に戰い拔く」といった。近衞は、「戰爭をどうするかというようなことは、後継首相の決定すべきことで、ここで論議すべきことではない」といい、岡田大將がこれに賛成した。これに対し、若槻は、「御下問されたことは首相の人選であるから、その他のことは問題外だ」と述べた。
 それから人選に移り、鈴木は、「いちばん若い人が局に当るがよい」とて、近衞を意味する発言をしたが、これに賛成するものなく、つぎに平沼が「鈴木大將を」と述べて、これに決定したとのことである。
 これより先き、陸軍は迫水を書記官長に推薦し、内閣支持の條件とした。米内は鈴木に対し、その非を申入れたが、すでに深く食い込んで、どうすることもできなかった。軍は鈴木に三つの條件を出し、これを承諾させたが、その中には「軍部を尊重すること」という一條があった。
 坂本君は東郷茂徳君が外相になる前に立ち話をしたことがある。東郷は戰爭終結をソ連に期待しているようであった。ソ連をして口をきかせるために樺太をかえし、共産党の公認などを條件とすれば十分だろうといっていたという。
 鳩山氏はソ連が口をきいても、米英がそれによって、いくらかでも讓歩するだろうか。自分はしないと思う。自身は率直に英米に対し、日本の條件を出すのがいいではないかと思うと言った。
 僕はとにかく戰爭を終結せしむる必要がある。それがためには、(一)無條件降伏、(二)ソ連を仲介に立てるか、(三)蒋介石を立てるか、(四)英国あたりに言いだすか、いずれの道でも目的を達すれば、それをとるべきだと言った。
 談話はきわめて愉快であった。無知がいかに罪惡であるかが、三人の一致した意見である。国民を賢明にする必要がある。それには先ず言論の自由を許すのが先決問題だ。
 ヒトラー死せりとの報あり。ムッソリーニ殺害されたと伝う。
 水道洩り、森角という店に修繕をたのむ。「承って置きましょう」という。まるでお役所だ。「お引受けできません」というのである。何か人間と交渉するたびに、不愉快限りなく、神経衰弱になるおそれあり。

五月三日(木)
 ヒトラーが戰爭指揮中死せりとラジオは伝う。この梟雄はまず終りを完うしたりというべきである。ヒムラーは無條件降伏を申し出で、デニッツは徹底抗戰を声明す。ドイツ国内四分五裂した情勢を示すに足る。

(日記は五月五日で終っている)





底本:「暗黒日記 普及版」東洋経済新報社
   1954(昭和29)年6月15日第1刷発行


韓国、「二股」外務次官、対中外交は国益に必要な“パートナー” 米国を呆れかえさせる「無節操」

2021-11-17 18:07:08 | 日記

韓国、「二股」外務次官、対中外交は国益に必要な“パートナー” 米国を呆れかえさせる「無節操」


勝又壽良のワールドビュー

好評を頂いている「勝又壽良の経済時評」の姉妹版。勝又壽良が日々の世界経済ニュースをより平易に、かつ鋭くタイムリーに解説します。中国、韓国、日本、米国など世界の経済時評を、時宜に合わせ取り上げます



2021年11月17日

  • 韓国経済ニュース時評
  

米中対立が激しさを加えている中で、米国は価値外交を展開して同盟国の結束を呼びかけている。

インド太平洋戦略対話では、「クアッド」(日米豪印)が民主主義防衛で起ちあがっている。

こういう国際環境下において、韓国は依然として中国をパートナー国として位置づけていることがわかった。

米国は、すでに韓国を「クアッド」に加えることを諦めたようである。

韓国に代わって、英国が強力な助っ人として加わる。

具体的には、米英豪三ヶ国の軍事同盟である「AUKUS」である。

米英が、豪州に攻撃型原子力潜水艦8隻の建艦で技術支援することを9月に決めたのだ。

豪州は、ASEAN(東南アジア諸国連合)の疑念を払拭するべく、ASEANとの間に「パートナーシップ」を結ぶという早手回しである。

こうして、韓国がぐずぐずしている間に、韓国の位置は宙ぶらりんになった。

米韓同盟はあるが、その位置は大きく低下した。韓国外交は失敗をしたのである。

 韓国紙『東亞日報』(11月17日付)は、「外交部第1次官が訪米『現実的に中国とのパートナーシップは必要』」と題する記事を掲載した。

崔鍾建(チェ・ジョンゴン)外交部第1次官が15日(現地時間)、米ワシントンで韓米関係を主題に開かれた戦略フォーラムで、

「中国は戦略的パートナーであり、現実的に北京とのパートナーシップは必要だ」とし、韓中関係の重要性を強調した。

これに対し、米政権の元高官は、「韓米同盟が長期的に弱まり、米国の政策決定過程で韓国が見過ごされる危険性がある」と懸念を示した。

 (1)「崔氏は同日、ワシントンにあるシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)と韓国国際交流財団(KF)が共同主催した韓米戦略フォーラムの基調演説で、まず韓米同盟の重要性を力説した。

「韓米両国は21世紀の同盟がどのようなものかを世界に示している」とし、韓米同盟が伝統的な安全保障だけでなく、経済、文化の分野でもパートナーシップを進展させていると評価した」

 米韓同盟によって、韓国の安全保障が保たれている。現に、米軍が韓国に駐留していることで、それが立証されている。

一国の安全保障は、国家存立の基盤である。

その重要性から考えれば、韓国が米国と行動を共にすることは不可欠であろう。

「安保は米国、経済は中国」という、いいとこ取りは外交において無節操というべきだ。

豪州は、輸出首位が中国である。

だが、中国からの理由なき制裁に対抗して、前記のような「AUKUS」という軍事同盟で対抗する姿勢を鮮明にした。

韓国とは、外交姿勢が根本的に異なっている。

(2)「崔氏は質疑応答で、中国に対する韓国の立場を問われ、「戦略的パートナー」とし、「他の国内政策と同様、外交政策も韓国人、韓国中産層の必要と利害関係に合うものでなければならない」と強調した。

また、「中国との貿易規模は米国と日本を合わせたものより大きく、その市場からの収益を享受するのは韓国国民」と説明した。

また、供給網問題を取り上げ、「中国から来る様々な品目への依存度は韓国の問題だけでなくすべての問題」と指摘した」

下線部は、韓国の「二股外交」の言い訳に使われている台詞である。

韓国が、米韓同盟の原点に立ち、民主主義を守る姿勢を明確にすれば、中国もそれを尊重せざるを得ない。

日本を見れば分かるであろう。日米同盟を基本にしているので、中国はそれを前提にした外交を行っているのだ。

韓国のフラフラしている姿勢が、中国の最も攻めやすいところである。韓国は、自ら弱点を見せていると言えよう。


 (3)「北朝鮮問題でも「現実的に北京とのパートナーシップが必要だ」とし、「好むと好まざるとにかかわらず、それが私たちの政策の現実だ」と述べた。

韓国が地理的に中国に最も近い国であることを想起させ、「中国と良い関係を築くよう務めている」と述べた」

韓国が、中国の仲介によって北朝鮮問題を解決しよというのは間違っている。

北朝鮮問題の当事者は、朝鮮戦争を指揮し米国である。

韓国は、米国と一体化してこそ北朝鮮問題を解決できる。

韓国の中国接近は、お門違いというほかない。

(4)「崔氏の質疑応答が終わった後、パネリストとして参加したランドール・シュライバー元国防次官補(アジア・太平洋担当)は、

「一方は重要で核心的な挑戦と見るのに、他方ではこれを受け入れないなら、同盟関係は維持できない」とし、

「(韓国が)そのような形で漂流する場合、(韓米)同盟が次第に弱体化しかねないという点で危険だ」との考えを示した」

 下線部は、韓国の弱点を突いている。

二股外交は、韓国が米中双方から軽蔑される理由をつくっているようなものだ。

朝鮮の宗主国は、中国であったというDNAを持出せば、二股外交は承認されると見ているのだろう。

だが、韓国はその宗主国から侵略されたのである。

目を覚ますべきである。

清沢 洌  太平洋戦争中、戦後を見越し日本外交史研究所を設立

2021-11-17 17:44:20 | 日記
清沢 洌

きよさわ きよし

昭和初期の自由主義転落論争で自由主義擁護の旗手。

太平洋戦争中、戦後を見越し日本外交史研究所を設立。外交史辞典を編纂し、「暗黒日記」を書き残す。
生年月日没年月日関連地域職業・肩書活躍年ゆかりの分野
1890年(明治23)
1945年(昭和20)5月11日
穂高(青木花見)
国際主義自由主義の代表論者・実業家
昭和時代
社会(報道出版)
 
経歴

穂高青木花見に生れました。尋常高等小学校在学中に、望月直弥の影響を受け、研成義塾に学びました。

1906年(明治39)に渡米し、シアトルからタコマへ移り、勤労しながら初等学校に通学しました。

シアトルの新聞社「北米時事」タコマ支社主任となり、討論会・演説会等を催し、またシアトル旭新聞に寄稿もしました。

1914年(大正3)、三大邦字新聞の一つであるサンフランシスコの「新世界」に編集長として招聘(しょうへい)されました。

1918年(大正7)、実業家を志して帰国し、横浜の管川貿易商会に勤務しました。

1921年(大正10)、東京中外新報社外務部長、1927年(昭和2)に朝日新聞社企画次長、報知新聞論説委員として活躍し、退社後、自由人として各雑誌・新聞に執筆しました。

1943年(昭和18)、日本外交史研究所を開設して、所長となりました。1954年(昭和29)、遺稿「暗黒日記」が発刊されました。


「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇

2021-11-17 16:08:21 | 日記
「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇

日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか

丹羽 宇一郎 : 日本中国友好協会会長

8月15日は終戦の日。

あの夏から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。

だが350万人の犠牲をけっして記憶から消してはならない。

「戦争に近づかないために、日本人は、76年前に終わった日本の戦争について学び直すべきである」と訴え続ける、『戦争の大問題』の著者で、日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏が、二度と戦争をしないために心にとどめておくべきことを訴える。

なぜ負けが明白な戦争をやめられなかったのか

昭和の大戦の犠牲者は310万人とも350万人ともいわれる。そのほとんどが戦争末期の1年間に集中している。

いったい終戦の1年前には何があったのか。
『丹羽宇一郎 戦争の大問題』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)

戦時の日本は「絶対国防圏」という最終防衛ラインを定めていた。

太平洋方面における絶対国防圏はマリアナ諸島である。

マリアナ諸島を取られると、日本本土全体が米軍機によって空襲可能となるからだ。

事実、東京大空襲ほか主要都市の大空襲、広島、長崎の原爆投下はマリアナ諸島のサイパン、テニアンから飛び立った爆撃機によるものである。

そのマリアナ諸島を終戦のほぼ1年前、1944年6月の「マリアナ沖海戦」で失った。

この戦闘によって日本海軍は壊滅的な損害を受け、対米戦の敗北が決定的となった。

知らぬが仏というが、知らない仏はいなかった。軍人と役人は仏の顔をしながら、その実、鬼だったのだ。

拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。

「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」
(『戦争の大問題』)

戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。

つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。

対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。

沖縄では実に県民の4人に1人が犠牲となり、広島では14万人が、長崎では7万5000人が原爆の犠牲となり、東京では10万人、その他の都市の空襲犠牲者を合わせると50万人を超える。

この間、多くの兵隊も南方戦線で、中国・アジアで、補給を絶たれ降伏することも許されず病気や飢えによって命を失った。

フィリピンのミンダナオ島に軍曹として派遣された谷口末廣さんはこう語っていた。

「最初は(倒れた戦友を)連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の体力とするのが戦友愛と変わってくる。

死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を貰ったとか、みんな知っている」

戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。

この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。

最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ
大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい何だったのだろうか。

私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株価が下がれば株主から批判される。

ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方から責任を追及される。

手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。

戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。

戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。

それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。

いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。

これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。

私は実現困難と判断したが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。

ただし「他人に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらその責任を取らせるという意味である。

事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取らない。

そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に実行しようとする。

これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所在があいまいなのである。

戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。

「昭和18年8月26日(木) 米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」

「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。

小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。

しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」

(いずれも『暗黒日記』)

清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。

清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。

責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。

戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。

そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。

戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。

責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない。

負けると知りながら必勝を叫ぶ無責任

実際に戦場に立った人たちも、なぜあの戦争をやめられなかったのかと問う人は多かった。

シベリア抑留を経験した與田純次さんもこう語っていた。

「満州(満州国、1932年満州事変によって建国された中国東北部にあった日本の植民地、1945年日本の敗戦と共に消滅)でやめておけばよかったのだ」
(『戦争の大問題』)

できることなら「満州も」やめておけばよかった。

しかし満州事変に国民は大喝采を送った。

「満州事変では関東軍の暴走、朝鮮軍の独断越境(満州の応援に国境を越えて派遣)に、責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」
(『戦争の大問題』)

結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。

では、結果がついてこないときはどうするのか。

結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。

だが、日本人は結果に対する査定もあいまいだ。

国民の大喝采を浴びて建国された満州国だが、結果的には最後まで経済的にお荷物だったし、国際政治上でも益するところがなかった。

戦前でも、石橋湛山などは「日本が国際社会で立ち行くためには、政治的のみならず経済的にも、満州を放棄するほうがむしろ有利である」と主張していた。

だが形だけのものでも、一度手にしたら放棄するのは難しい。当時の指導者も国民も、ここまでやって手放すのは惜しい、ここまで来ていまさらやめられないという気持ちだったに違いない。

権限と決定のあいまいさと、いまさらやめられないは、日本人の悪しき習性であり、今回の東京2020オリンピックや新型コロナ対策でもさまざまな形で影を落とした。

いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。

「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。

陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。

その結果、出した答えが『日本必敗』である」
(『戦争の大問題』)

この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。

つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていたのである。

市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。

「昭和19年9月12日(火) いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」
『暗黒日記』

東條首相は開戦時の演説「大詔を拝し奉りて」で、「およそ勝利の要訣(ようけつ)は必勝の信念を堅持することであります」と強く国民に訴えた。

科学的な検証に目を背け、神風頼みで勝利のみ信じよと国民に迫るのは、とても責任あるトップの言動ではない。

国民には仏のような顔を見せていた軍人、役人だが、『暗黒日記』では文字どおり暗闇の中でうごめく鬼と、その正体が暴かれている。

いまわれわれに問われるもの

皇室と日本を深く敬愛した清沢だが、国民に対しては期待と失望が織り交ざっていた。

「昭和18年7月15日(木) 僕はかつて田中義一内閣のときに、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって国民の目が覚めたと考えたからである。しかし国民は左様に反省的なものでないことを知った。

彼らは無知にして因果関係を知らぬからである。今回も国民が反省するだろうと考えるのは、歴史的暗愚を知らぬものである」
『暗黒日記』
と手厳しく国民の未熟さを指摘するときもあれば、次のように将来の期待を示すこともあった。

「昭和20年1月25日(木) 日本人は、いって聞かせさえすれば分かる国民ではないのだろうか。正しいほうに自然につく素質を持っているのではなかろうか。

正しいほうにおもむくことの恐さから、官僚は耳をふさぐことばかり考えているのではなかろうか。したがって言論自由が行われれば日本はよくなるのではない。来たるべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ」
(『暗黒日記』)
われわれはこの清沢の期待に応えたい。しかし彼の指摘するわれわれの愚かさのほうが正鵠を射ているように思える。

清沢は76年前に今日のわれわれのことを見通していたかのようだ。

いまだに愚かさの先行するわれわれは、努めて自らの行動を慎まねばならない。われわれには依然として動物の血が流れている。

動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない。

2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。

だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。

この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。