誰にも醜聞があります。たとえそれが、事実であろうが、なかろうが(笑)。
ここでは最近の「韓国の醜聞」を集めてみました。疑惑を感じた方は、リンクをたどってくださいね。
JTBCは(2015年)8月15日夕方のニュース番組で、
「安倍談話について、世界各国が立場を出しました。ちゃんとした謝罪をしなかったという批判的な内容が主流を成しましたが、唯一、アメリカだけが日本の立場を支持したことで、議論が起きています・・・・(中略)・・・・これは日本とアメリカの事前調整の結果だと思われます」
と、まるで世界中が批判しているのに日米だけが仲良くしているような雰囲気作りを頑張っています。
:P.246-247 シンシアリー「韓国人による震韓論」扶桑社2015年12月20日初版第4刷発行〔Web版をまとめたものか?〕
ここで「JTBC」とは
韓国中央日報系列のケーブルテレビチャンネルだとのことで、2015年8月15日の番組からシンシアリーが引用しています。例の「安倍談話」に関する記事を、韓国語から日本語へ翻訳したものです。
だまされてはいけません。韓国の風土病のようなものですが
韓国のマスメディアが使う「世界各国」「周辺国」という言葉は、「中国」だけ
を意味するようです。
たった中国・韓国2カ国だけを「世界各国・周辺国」にしてしまう「捏造(ねつぞう)」にご注意下さいませ。
世界中の人が自分と同じ「正直な人間だ」と思ってはいけません。
あなたが悪意ある人間になってはいけませんが、世界各国でウソ八百・捏造・偽造が蔓延していることを知った上で「自分に客観性」が残っていれば、それはすばらしいことなのです。
別に韓国だけに限らないのですが、同様なことは
「多くの韓国の国民が」という時にみられます。
本当に「多く」なのかどうか、について何も考えずに、ひたすら「煽動目的」で「多く」が使われるので、注意したいところです。
上の「安倍談話」に関する反響例では
アジア諸国やアメリカから肯定的な意見が出ているのに、なぜか韓国・中国だけがいつも否定的で情緒的です。反日を政治的に利用して国民を「あおる」のが快適なので、やめられないようです(笑)。
もちろん韓国・中国に客観性など、存在しません。もし存在したら、そんな無茶なことを言えるはずがありません。
どんなことに対しても「情緒的に反日」を唱えることにしている、このことそのものが、その証拠です(笑)。
日本でも、もちろんみられます。
それほどひんぱんではありませんが、たった1国「アメリカ」の、しかもほんの一部の人が知っているだけなのに、「世界的に有名な」とすることがあります。自らキャンペーンを張る場合の特徴ですね。
「多く」のアメリカ人が知っている日本人なのに、日本人が知らないこともあるし、マリリン・モンローのように「多く」の日本人が知っているアメリカ人なのに、アメリカ人が知らないことがあるのです。それぞれの引用のしかたで違いがでるのでしょう。
そうです、どうやら「みんなが知っている」と思いこんではいけないようです。
私たち日本人でも
- 「みんな」と表現しようとする場合、本当に「みんな」でいいのかどうか、もう一度考えるものです。
- ほんの一部のことを「みんな」にしてはいないか、と。
- 単なる自分だけの思い込みで、ほんの一部なのに筆がすべって「みんな」にしてはいないか、と。
「いつも」と「みんな」という言葉をなるべく使わないようにする。使うときは慎重になって、絶対にまちがわない自信があるかどうかを、よくよく検討する。 :P.42 板坂元「考える技術書く技術」講談社現代新書
しかしながら
韓国のマスメディアには、本当に「みんな」でいいのかと慎重になる「習慣」はない、と言えます。
もしもそれが「時々」ならば別に取り立てて言うほどのことではありませんが、「常に」なのですから、韓国マスメディアの信頼性が疑われてしまいます。
尤も十分すぎるほど長く疑われ続けていて、いまだに変わりそうにありませんが・・・・。
女性の言う「みんな」とはたいてい3人である
女性のよく使う言葉に「みんな○○だ」「みんなそうしている」というのがあります。
たとえば、「みんなあなたのことを嫌っているわよ」「みんなあなたのことを不快に思っているわよ」などと言われたらドキッとします。社内全員から嫌われているのかと解釈してしまいます。
しかし、こういう場合の「みんな」とは、たいてい「3人が」という意味です。:P.61-63 岩月謙司「なぜ男は『女はバカ』と思ってしまうのか」講談社新書
たまたま「女性」の例ですが
3人だけの同意(それも強要したひとときの同意)に過ぎないのに、これを一般化して「みんな」としたい気持ちは、痛いほどよくわかります。
♪ 痛い痛い、イタタタタ ♪
この反動で
「私はこう思う」というのも、よく見かけます。
「あくまでも個人の意見であり、私には他人に強制する意図はない、また一般化してはいない」という意味ですが、悪くすると「自分自身はこう思うのであり、これを否定することは許さない」とふんぞり返っているようにも受け取られかねず、少し注意が必要かも。
民放のCM放送中、画面の右あたりに
- 個人の感想です
- 個人の意見です
などと表示されますね。←あ~ら、見てたのね(笑)。
「みんな」がそう言っている、こういうのを聞いていると
日本人からすれば、中国・韓国の人たちの主張のしかたが、どこかで聞いたことがあるような・・・・。
そうです、女性たちの言い方ですね。
だからと言って
中国・韓国の思考が男性的ではなく女性的である
とまで断定はできませんが、「情緒に走りがち」という点で似ているのです。
情緒的に話をすることが有益な場合もありますが
情緒ではなく筋道が大切な場合にでも、情緒のみの表現で「自分はこう思う」を多発されると、やりきれませんね。
さて、みなさまは
- 情緒的な言動
- 論理的な言動
を、うまく使い分けていますか(笑)。