「自分と異なる意見を醜聞」とする醜聞。日本にも看過できない醜聞がありそうです。
ここでは、多様性がなく、言論の自由さえ怪しい「韓国そっくりの沖縄」について述べています。
そんなことはない、沖縄は正しいのであり、そんな意見など聞きたくもない、というかたは、どうぞ他のサイトへ移動されますように。
言論の自由を好まれる方のみが、当ブログを御覧下さるよう、♪ワタシ祈ってます~ぅ♪
もちろん以下の意見をどう思うかは、ひとえにあなたにかかっています。私はどう思われようと、動揺などしません(笑)。
かつて当ブログでは
「なぜ沖縄は中国に触れたがらないのか」と称する記事を2014年12月12日に書いております。それから1年半が経過しましたが、すこしでも良くなったでしょうか。
翁長知事、日米首脳会談に失望感 「中身まったく無い」:沖縄タイムス 2016年5月26日
■翁長が
日米首脳会談を「中身がまったくない」
と話しているのを聞いて、落語のようにおもしろいと感じたかたも、いらっしゃるでしょうね。
「中身がない」人は「自分の意見」と異なるものすべてを「中身がない」とするものです(笑)。
これらの人たちには、自分と一緒なら「立派」、それ以外は「意味のないもの」、という二元論で片付ける傾向が見られます。
私がかねてより唱えているのが、「沖縄は韓国そっくり」説です。いや「韓国が沖縄そっくり」とも言えます。
■その後、かなり改善され、
沖縄が、「らしさ」を率直に表現するようになりました。三線の普及もそのひとつでしょう。
しかしかつて、安い費用で東京そっくりを作り出していた時代がありました。名前は挙げませんが、商業至上主義の観点から、東京からパクリ続けていた時代があった、という意味です。
これは日本からパクリ続けていた韓国を彷彿とさせます。
沖縄らしさや韓国らしさを表現するというよりは(内地)日本からパクってきた、という点で、沖縄と韓国は、似ています。
■中国について
まるで飼い慣らされたペットのように黙って何も言わない沖縄と韓国。
現在の沖縄県知事翁長が那覇市長の頃から中国福建省福州市の名誉市民らしいのですが、その称号とともに頭をなでなでしてもらったか、中国共産党に招かれても、南沙諸島で中国が何をしようとも、決して中国には触れることはありません。
いくら「中国が周辺国を刺激しても」、「中国を刺激してはいけない」から、黙っているというのです。
沖縄や韓国では、堂々と反日・反米を唱えることができますが、それは表現の自由があるからではなく、それが当局公認のキャンペーンとなっているからなんです。けっして「沖縄や韓国に言論の自由がある」などとあり得ないことを思ってはいけないようです。
あの口うるさい韓国でさえ、まず中国には触れません。それは、韓国社会が「中国が不利になるような言動を自粛させていている」かのようで、それが嵩じて言論を不活発にしていると言えます。わかりやすく言えば、沖縄や韓国では言論の自由がないのですね。
これが原因で、多くの日本人を味方につけることができなかった沖縄。
ひたすら米軍基地「はんた~い」を叫ぶだけで、この時代にあって中国について一言も語れないのは、異様とも言えます。沖縄が中国について何かを語れば、日本人全体の見方が劇的に変わってくるはずですが、それができないのには、何か問題があると言えます。
いくら米軍関係者が悲惨な事件・事故を起こしても、米軍基地反対がさらに激化するだけで、相変わらず中国には何も言えない沖縄。どこかに問題があると思われます。
中国について何も言わない・言えない、という点で、沖縄と韓国は、似ています。
■沖縄の巷では、人々が好き勝手に言っていますが
公の場で自由にものが言えず、一色なんですね。
- ちょうど北朝鮮のマスゲームのように、一糸乱れぬのが「美しさ」だと信じています。
- マスメディアというものは、取材を通して事実を発掘し、いろいろな見方を読者に選択肢として提供するものです。しかし琉球新報・沖縄タイムスの場合、自らキャンペーンを張っているため選択肢などあり得ず、報道社としては失格でしょう。
- ただし好意的に解釈すれば、かつて流行した横町のミニコミ誌の役割程度なら、十分に果たしていると思います。
- 愚鈍な県民・国民を「ご指導ご鞭撻する」沖縄のマスメディアは、キャンペーン紙へと堕してしまい、報道を生業とする業種ではなく、中国共産党の支配下にある「新華社」程度なんでしょうか。残念なことです。
言論の自由がない、多様性がない、客観性がない、という点で、沖縄と韓国は、似ています。
■自分の意見を認めないのは許せない
これは、自分が世の中で一番正しいのに、これを認めないというのはけしからん、という意味です。
実に尊大で、決して曲げられない、曲らないという人、町でよくみかけますね。
沖縄では、三叉路の突き当たりに石敢當〔いしがんとう〕なるものを置く風習があり、「曲がれない魔物」をそこで吸収させるようです。「魔物は曲がれない」のです。
私も最初、この「魔物は曲がれない」の意味がわかりませんでした。「曲がれるのは正しい人」なのでしょう。
- 古くから琉球の人たちは、自分の意見を曲げずに「人とはこうあるべきだ」「国はこうでなければならない」と主張する一見かしこそうな人のことを「曲がれない魔物」と揶揄(やゆ)し、これを石敢當で吸収するべきだと戒めてきたのではないか、と私は考えるようになりました。
- 翁長を始めとする沖縄マスメディアの「曲がれない一見かしこそうな人」が、実は「魔物」そのものであり、石敢當で吸収される運命にある、と分かり始めたのでした(笑)。
自分が一番正しく、ほかはすべて間違っていると考える点で、沖縄と韓国は、似てます。
■先祖・親子孫を大切にすることは、いいことですが
年齢や氏素性などの序列を気にし過ぎるあまり、一歩もこれからはみ出せないようになると、社会の硬直化を招き、全体的なことなど「どうでもいい」と社会の主流に順応する人ばかりを生産させ、全体を腐敗させ死臭さえ漂ってくるものです。
しかし支配者にとってこれほどありがたい「儒教システム」、はありませんね。
序列とか順位にこだわりすぎる点で、沖縄と韓国は、似ています。
■自分に責任はなく、すべて他者に責任がある
何か問題が起れば、必ず「他者に責任を転嫁する」、これが儒教本来の姿です。
そう自分には「責任がない」、常に他者が悪いのです。
儒教では、現状を維持するのが本分、改善などもってのほかで、今の秩序を守り与えられた身分に甘んじるのを「よし」としてきました。これが破壊されたとしたら、他者に責任がある、と見なします。
いいかえると儒教には、自浄作用がなく、むしろ常に他者に責任を求める働きがあるため、不健康な社会制度だと言えます。
- 沖縄の場合、他者とは内地
- 韓国の場合、他者とは日本
なのでしょう。決して自分では物事を変えられないシステムですから、他者が何をどう言おうと、小賢しく自分の利益をたてに反論するだけで、なんら変化がなく、さっぱり良くなりません(笑)。
自分に責任はないとする点で、沖縄と韓国は、似ています。
今回は、沖縄と韓国が似ているという説を、根拠と共に申し上げてまいりましたが、さてさて、皆様はどう思われますか。