『男はつらいよ(第43作)』の地方ロケは、大分県で行われました。
大学に入学した満男がアパートを借り、引っ越ししようとした日、泉が上京してきます。母と離婚した父(寺尾聡)に会うために職場を尋ねますが、父はすでに会社を辞めて日田(ひた)市に引っ越したとのこと。そこで泉と満男は、日田に向かいます。
場面が日田に変わると、鏡坂公園からの俯瞰映像が映し出されます。
川は三隈川(筑後川)。真ん中の小山は亀山公園、その右は日田温泉の旅館街です。
【映画】 日田にやって来た泉、三隈川の堤防道路の端に座っています。
【現在】 三隈川の南岸から北岸を撮りました。向かいの小山は亀山公園、その右の建物は日田温泉にある旅館「ひなのさと」と「亀山亭ホテル」です。街灯は、撮影当時は道路の左側にありました。
【映画】 お父さんが勤めている製材所の事務所から満男が出てきます。
【現在】 製材所はすでになく、更地にされていました。日田に行く前に確認したら、2020年撮影のストリートビューに、安心院製材所が映っていたのですが…。
【映画】 製材所から出てきた満男は、泉のところに走り寄ります。
【現在】 対岸の背の高い建物は、日田温泉の「みくまホテル」です。
【映画】 今日会社は休みだと聞いた満男は、「行こう、勇気を出して」と泉を促し、お父さんの家に向かいます。
【現在】 三隈川に架かっている橋は、銭渕橋(ぜにぶちばし)です。
【映画】 泉と満男が日田に行った日は、日田祇園祭の日です。
【現在】 この通りは、古い町並みが残る豆田町の御幸(みゆき)通りです。通りに面し建っている建物は、国指定重要文化財になっている草野本家です。
【映画】 泉と満男の前をブラスバンドが通り過ぎます。
【現在】 右の建物が草野本家です。
【映画】 泉と満男はお父さんの家の近くまで来て、様子をうかがいます。そこへお父さんが自転車に乗って帰って来て、一緒に暮らしている幸枝(宮崎美子)と言葉を交わします。
【現在】 お父さんの家(ふたば薬局)に使われた建物は、旧高瀬家店舗住宅でした。
【映画】 泉に気づいたお父さん、駆け寄って話しかけ、泉と満男を家に招き入れます。
【現在】 左のナマコ壁の建物が草野本家です。泉と満男は、御幸通りを向こうから歩いて来ました。
【映画】 少し話をした後、お父さんは泉たちを連れて祭りに行きます。泉たちが歩いているのは、草野本家近くの路地。儒学者廣瀬淡窓(たんそう)の生家広瀬資料館の前です。
【現在】 資料館は改修中でした。改修により屋根にあった卯建(うだつ)が取り外されていました。建物にもう少し寄って撮りたかったのですが、改修のため寄れませんでした。
【映画】 前を祭りの山鉾が通り過ぎます。
【現在】 ここは三隈川の南岸から、銭渕橋を渡って北岸に来た隈町です。右の青い屋根の建物は照蓮寺。ロケ当時、突き当りにあった家はなくなり、寺の駐車場になっていました。
【映画】 画面奥の伊東薬局の前で、道はYの字に分かれています。薬局前の電柱近くに、日田バスの「札の辻」停留所の丸い表示が立っています。大勢の見物客がいるなか、そこに山鉾が入って来ます。
【現在】 伊東薬局は、建て替えられたようです。現在、このあたりを日田バスは走っていません。代わりに「ひたはしり号」が走っていますが、「札の辻」停留所はありません。振り向くと左後方に、3階建てのビルがありました。おそらくこの場面の俯瞰撮影は、このビルを借りて行われたのでしょう。
【映画】 「札の辻」に入った山鉾が揺らされます。
【現在】 泉たちが立って見ていたのは、電柱の左のあたりです。電柱にある「南志ちや」の看板は、ロケ当時もありました。
【映画】 お父さんに「帰って来て」と言えなかった泉、幸枝に「お父さんをよろしくお願いします」と言い残し、この場を去ります。
【現在】 後ろに見えるビルは、日田温泉街に建つ温泉旅館群です。泉はこの方向に走って行きました。
【映画】 泉に追いついた満男、その先に寅さんと泉のママ(夏木マリ)がいることに気づきます。
【現在】 三隈川北岸のボート乗り場です。シーズンオフなのか、営業を止めてしまったのか…。
【映画】 泉たちを探しに来たママと寅さんに再会し、抱き合います。この後、4人は天ヶ瀬温泉に向かいます。
【現在】 右にボート乗り場、左に日田温泉旅館の「ひなのさと」があります。向こうに見えるのは、三隈川に架かっている銭渕橋です。
ちびとらさんたち先達の情報をもとに、2月下旬に日田のロケ地を回って来ました。第43作が公開されたのは、1990年の冬。すでに30年以上の月日が経過しています。
三隈川の北側の隈町は、日田祇園祭のクライマックスである札の辻入りの場面が撮影されたところですが、建物が倒されて駐車場になっているところが目につきました。一方、古い町並みが残っている豆田町は、電柱の地中埋設化がされるなど、観光地として整備が進められていました。ともにロケ当時とは変化がありましたが、対照的でした。