への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

芸備線と松本清張

2023年11月30日 | 雑記

先月、NHKBSプレミアムで、「松本清張・鉄道の旅」の再放送がありました。その中で、清張が雑誌『』に投稿した『ひとり旅』の朗読がありました。朗読されたのは、小説『砂の器』のヒントになった、「奥出雲の東北なまり」の一節です。

 

放送後、『ひとり旅』の一文を開いてみました。

そこには、清張が広島から芸備線と伯備線を乗り継いで、父の故郷(鳥取県矢戸村)に行く一泊二日の旅が簡潔に書かれていました。ただ旅をしたのは「ある年の冬」とのみ記され、昭和何年なのかは書いてありませんでした。

 

調べてみると、清張が初めて父の故郷を訪れた年は、よく分からないようです。たとえば、『週刊松本清張2号』は昭和21年とし、「松本清張生誕100年記念企画展」は昭和23年頃としています。

二度目の訪問は昭和36年。この一文が雑誌に掲載されたのは昭和30年。ということは、この一文は父の故郷を初めて訪れたときの記憶をもとに書かれた、ということでしょう。

『ひとり旅』の一文とその頃の時刻表(昭和22年12月号)をもとに、清張の旅を追ってみました。

 

 

広島発午後一時ごろであった。備後十日市駅にきた時は薄暮だった。うすく雪が降っている。汽車が駅を出ると、遠くの、うすい雪原の向うに三次の町が見えた。空は既にうすぐろく暮れなずんでいる。~ 家々からは灯がチラチラする。その灯に向って歩くこの汽車で降りた人々のうしろ影が、私に哀切にみえてならなかった。

時刻表を見ると、14時30分に広島発の汽車があります。一文と1時間近く合いません。行った時期が違うのでしょうか。備後十日市駅(いまの三次駅)に着いたのは16時47分。12月に入ると三次の日没は午後5時前、「薄暮」という表現がふさわしい時刻です。

 

清張が旅をした頃、芸備線の旅客は、旧型客車オハ35系が運んでいました。

 オハ35の車内(『中日新聞』より)です。

天井には丸い室内燈、床は全面がワックスがけされた木製、ボックスシートや壁面はニス塗り。独特の雰囲気がありますね。への次郎も子供の頃、山陽本線で乗ったことがあります。

 

当時、芸備線でこの旧型客車をけん引していたのは、

急こう配に強い8620形という蒸気機関車でした(『芸備線の軌跡』より)。

 

それから汽車は闇を走った。~ 乗客は雪の駅に降りてゆくばかりだ。『庄原』『高』『西城』『備後熊野』と駅員の連呼が変わる。駅の灯と次の駅の灯の間は何も見えない。ひどい山間らしく黒い山の影が窓に迫っている。~ 

汽車が備後十日市駅を出たのは17時00分。ここから先は山間部ということもあり、人家はほとんどなくなり、灯といったら駅の灯だけになったようです。

 

備後落合というところに泊った。汽車はここまでだった。小さな宿屋で谷の底のような場所である。一部屋に案内されたのではなく、八畳ばかりの間の真中に掘りこたつがあり、七八人の客が四方から足を突込んで寝るのだ。夫婦者もいれば見知らぬ娘も交る雑魚寝であった。

時刻表を見ると、備後落合駅に着いたのは18時27分。この汽車は、ここが終点です。備後落合は山間の駅、しかも季節は冬。駅に降りたとは、真っ暗だったと思います。

 

昭和12年の備後落合駅です(『芸備線の軌跡』より)。

清張が乗った汽車は、向こうから走って来て、真ん中の芸備線ホームに入りました。跨線橋を渡ると木次線ホームがあって、その右に駅舎。駅舎を出て、山沿いに右手前に来ると、大きな屋根が写っています。これが、清張が泊った旅館ではないでしょうか。跨線橋は戦争中に供出されたので、清張が目にすることはありませんでした。

 

清張が「奥出雲の東北なまり」を聞いたのは、実は、この旅館に泊まった時でした。テレビで朗読された個所です。

朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が覚めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけていた。

 

この旅館での、この体験が、後に『砂の器』につながっていきます。

『砂の器』を発表する直前の清張(『西日本新聞』より)。

 

翌朝、清張は備後落合から備中神代(こうじろ)駅に向かいます。「早い汽車で」と書いているので始発でしょう。備中神代で、倉敷から来た伯備線の汽車に乗り換え、中国山地を超えたところにある生山(しょうやま)駅で下車し、バスで父の故郷に向かいます。ただこの部分、さらりと書かれていました。この一文の主旨は、芸備線にあったようです。

 

 

清張はのちに、あの旅館で聞いた「奥出雲の東北なまり」から、代表作『砂の器』を構想していきます。のちに小説家を志す清張にとって、この芸備線の旅は、大きな収穫を得た旅になりました。

 

清張が芸備線を旅して70余年、いま芸備線の備後庄原~備後落合~備中神代間で、存廃議論が起こっています。

(『朝日新聞』より)

全区間159・1キロのうち、4割超にあたる68・5キロが対象だそうです。

清張が生きていたら、なんというかなぁ…