平成27年も
今日で2カ月が終了です。
明日から3月ですね。
さて
先のブログで
庚午(こうご)という町の
歴史を取り上げました。
60年に一度訪れるこの年回りには
色々なできごとがあったようです。
画像をClickすると記事に飛びます。
▼庚午の歴史
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▼庚午の歴史その2
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ところで
庚午の北側に位置する場所に
「己斐」
(こい)
という町があります。
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広島の出身者以外で
この町を
「こい」
と読める方は少ないと思います。
歴史によると
己斐は
鎌倉時代以来の歴史ある地名で
その由来については
いくつかの説があります。
一つは
神功皇后が
長門の熊襲(くまそ)族征討に際して
この地に立ち寄ったとき
“大きな鯉”
を献上したので
「鯉村」(こいむら)と称したというもの
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また
山間の村を意味する
「峡村」(かひむら)が
変化したというもの。
画像の赤丸が
己斐の町ですが
狭い谷に住宅が密集しているのが
わかりますね。
さらに
古くは「許斐」
とも書いたことから
筑前宗像の
「許斐神社」
(このみじんじゃ)
と何らかの関係を有するというもの。
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(ウィキペディアより)
実は
昨年5月のブログ
「龍が奔る杜◎その参」
(↑Clickすると記事に飛びます)
においても己斐をご紹介しました。

その際は
旭山神社(あさひやまじんじゃ)
を取り上げましたが
今回は
「通玄山」
(つうげんやま)
をご紹介します。
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通玄という言葉には
“禅の極地”
という意味があります。
晩年を己斐の地で過ごした
広島藩士、寺西織部信之が
黄檗宗
(おうばくしゅう)
の開祖である
隠元禅師
(いんげんぜんし)
の通玄山という書を
禅門の師を通じて得て
岩に彫刻したものであると
言われています。
黄檗宗は
日本における仏教の宗派であり
臨済宗、曹洞宗に次ぐ
禅宗の一つです。
▼隠元禅師
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ちなみに
隠元禅師は
中南米原産のマメ科の作物を
日本に持ち込みました。
「インゲンマメ」
は彼の名前が基になっています。
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さて
ある日の昼下がり
己斐の高台を
チャリンコで流していましたら
町並みに不釣合いな
岩が目にとまりました。
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住宅地内にあるためか
一部コンクリートの壁で
補強してあるようですが
ここがかつて
山中であったことは
その容姿から伝わってきます。
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岩を囲むフェンスには
随分前に掲示したと思える
己斐中学校名のパネルがあり
一部欠損していますが
以下のように記載されていました。
***********************************
1654年(承応3)年
隠元禅師が瀬戸内海から見える山を
通玄と名づけた。
その後、広島藩士の寺西織部信之が
その山の自然石に通玄山と刻んだ。
今ではその自然石を
通玄石と呼ぶようになった。
広島市立己斐中学校
***********************************
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己斐の歴史
つづきます
◎感謝
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今日で2カ月が終了です。
明日から3月ですね。
さて
先のブログで
庚午(こうご)という町の
歴史を取り上げました。
60年に一度訪れるこの年回りには
色々なできごとがあったようです。
画像をClickすると記事に飛びます。
▼庚午の歴史

▼庚午の歴史その2
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ところで
庚午の北側に位置する場所に
「己斐」
(こい)
という町があります。
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広島の出身者以外で
この町を
「こい」
と読める方は少ないと思います。
歴史によると
己斐は
鎌倉時代以来の歴史ある地名で
その由来については
いくつかの説があります。
一つは
神功皇后が
長門の熊襲(くまそ)族征討に際して
この地に立ち寄ったとき
“大きな鯉”
を献上したので
「鯉村」(こいむら)と称したというもの
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また
山間の村を意味する
「峡村」(かひむら)が
変化したというもの。
画像の赤丸が
己斐の町ですが
狭い谷に住宅が密集しているのが
わかりますね。
さらに
古くは「許斐」
とも書いたことから
筑前宗像の
「許斐神社」
(このみじんじゃ)
と何らかの関係を有するというもの。
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(ウィキペディアより)
実は
昨年5月のブログ
「龍が奔る杜◎その参」
(↑Clickすると記事に飛びます)
においても己斐をご紹介しました。
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その際は
旭山神社(あさひやまじんじゃ)
を取り上げましたが
今回は
「通玄山」
(つうげんやま)
をご紹介します。
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通玄という言葉には
“禅の極地”
という意味があります。
晩年を己斐の地で過ごした
広島藩士、寺西織部信之が
黄檗宗
(おうばくしゅう)
の開祖である
隠元禅師
(いんげんぜんし)
の通玄山という書を
禅門の師を通じて得て
岩に彫刻したものであると
言われています。
黄檗宗は
日本における仏教の宗派であり
臨済宗、曹洞宗に次ぐ
禅宗の一つです。
▼隠元禅師
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ちなみに
隠元禅師は
中南米原産のマメ科の作物を
日本に持ち込みました。
「インゲンマメ」
は彼の名前が基になっています。
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さて
ある日の昼下がり
己斐の高台を
チャリンコで流していましたら
町並みに不釣合いな
岩が目にとまりました。
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住宅地内にあるためか
一部コンクリートの壁で
補強してあるようですが
ここがかつて
山中であったことは
その容姿から伝わってきます。
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岩を囲むフェンスには
随分前に掲示したと思える
己斐中学校名のパネルがあり
一部欠損していますが
以下のように記載されていました。
***********************************
1654年(承応3)年
隠元禅師が瀬戸内海から見える山を
通玄と名づけた。
その後、広島藩士の寺西織部信之が
その山の自然石に通玄山と刻んだ。
今ではその自然石を
通玄石と呼ぶようになった。
広島市立己斐中学校
***********************************
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己斐の歴史
つづきます
◎感謝
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