日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

「ポストイットの現実」のつづきのつづき

2017年12月23日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校

気になって気になってたまらない、どうしても許せないあの人のああいうところ。

それはもしかしたらこちらが貼ったポストイットに相手が反応しているのかもしれません。

「こうしたらまた絶対こう来る!」って貼ったら、相手は期待通りに貼るでしょう(大抵の場合他に貼りようがない)。

貼らないでニュートラルでいたらどうなるかな?

試してみて。


(あと気になってたまらないところって、実は自分が自分で気になってること。自分に言いたいことって人にすごくうるさく言う。片付けて!とか。私だけですかね?)

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「ポストイットの現実」のつづき

2017年12月23日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
工作みたいに自分で作ってる現実に閉じ込められているかも、ってひとつ前の記事で書きました。

ポストイットを貼るのがいけないわけじゃないです。

ただ、今それで自分が苦しいなら、楽になることもできますよ。

すごく簡単。

ただ「ああ、ポストイット貼っちゃってるなあ」って思うだけ。

無理に前向きとかポジティブな気持ちにならないでいい。

「あ、これももしかしたらポストイットかも」って意識するだけ。

そうするとそこから自由になれる。

私の経験上「そうは言ってもこれは違う」って思っているものほど怪しい。

明らかにこれは動かしようのない事実だと思う部分こそ、あなたが真っ先に貼ったポストイットかもしれないです。









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「ポストイットの現実」理論

2017年12月21日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
現実って実はかなり自分で作ってるんですよ。

ちょっと仕組みを説明しましょう。

まずひとつ、宙に点があるとして。
これを「事実」としましょう。

例えば「子どもが学校に行っていない」

そうするとそれを見た人、例えば親がその点にポストイットを貼り始めます。

「みんなができることができない」
「学校で何かあった」
「育て方が悪かったのか」
「将来お先真っ暗」

そうするとひとつの点だったものがいつの間にか面になり、自分が作っているにも関わらず人はそれに沿った言動をするのです。
思考はポストイットの壁から離れることができない。

ポストイットの反対側でそれを見たり聞いたりしている人(例えば子ども)もそれに沿った反応をせざるを得ません。

「そんなことない」
「違う」
「なにがなんだかわからない」
「そうなんだ‥」

同意するにしても反抗するにしても、それに沿ってポストイットを貼ることになるから仮想現実が両側から強化される。

その子はただ学校に合わないだけ、以上。
かもしれないのに。


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病院

2017年12月19日 | 苦しむ人とともにあること
数年間、病院ばっかりだったことがあった。

一週間に4回も病院とか、1日で2軒はしごとか。

子どもの病院、親の病院、義理の親の病院、あげくの果てには猫もハムスターも入院したんだった。

病院に来ると背中がすうすうする。

そうだった、そうだった。

今この瞬間にも死にそうな子どもがいるんだ。

それは私の子どもや親だったこともある。

そうだった、助けてもらったんだった。

私もみんなに助けてもらったんだった。

ちょっとの待ち時間にお茶を飲んでるようにみえるけど

心の中で光る柱を立てるように祈る。

祈ることしかないこともあるから。

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自己紹介

2017年12月17日 | 日記
「気難しくて、手の内を見せないんですよ」

その人が自分のことをそう言った時、あ、と思った。

私もそういうところあるなと思って。

手の内を明かさないんじゃないんだけど。

多くの人が自己紹介で言うようなことをあんまり言わない。

それが自分って思ってないのかも。
話したいって内的な必然性がないみたい。
そういう要素は確かに私の中にあるけれど、合計がイコール自分ってわけじゃない。
相手がいちいちラベルに反応してそこから「私」像を作り始めるのを、あーってみることになるし。
だったらいっそ今目の前にいる私だけ見てもらう方がいいのでは、と。
だって確固とした私なんてない。
あるとしたらその場その場のなまものの「私」。

いろいろ言ったけど、どうかな。
もしかしたら単に説明するのがめんどくさいだけかな。

‥‥ごめんなさい。


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