ポイントはここ
最初は
(なんとなく)(大雑把に)
「空の巣かあ」
(なんかやだな)
が
座って落ち着いて見ることで
全体が(わかる範囲で)明らかになり
(明らかにして、ではないんだなあ)
そこから新しい展開が生まれる足場になるような理解を心身ともに得ること、だな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/09/23545526e9c3ed945ab24c87543a6fff.jpg?1712912912)
ポイントはここ
最初は
(なんとなく)(大雑把に)
「空の巣かあ」
(なんかやだな)
が
座って落ち着いて見ることで
全体が(わかる範囲で)明らかになり
(明らかにして、ではないんだなあ)
そこから新しい展開が生まれる足場になるような理解を心身ともに得ること、だな。
少し深く潜って無音の水にゆらゆらと映るに任せると、立ち上がらせた仮の像(この場合は小鳥である私が見た巣)に角度に応じた色と意味がふわりと浮かびあがる。
どれも全てではないし暫定の意味合いだけどそれぞれが何かをまとっている。
もちろん空の巣というのは誰もが知る子育ての終わり。
番う時期、命懸けで産み守り育てる時の終わり。
だけどそれだけじゃない。
その空っぽさ、からっと気楽なちょうどよい小枝の乾燥具合を小鳥の私は好ましく思っている。
自分ひとりにちょうどいい寝床、でもなんならいつでも捨てることもできる。
というか三匹の子豚じゃないけどそもそも小枝だし、捨てることもわかっている。
いまはゆっくり楽しむことをして/終わらせているところ。
巣を。
簡素でシンプルな巣は私の過去の時間、無駄なものや終わったものは取り除けられ整えられ、私にだけわかる満足のいく素敵な作品、と同時に
わかった
巣は
私/前からの私
もう少ししたら
手放すらしい
ラテ
はエスプレッソにたっぷりミルク
オレ
はブレンドとミルクの半々
今回はラテ
コクがあって美味しい
もー
何回聞いても忘れちゃうけど
死ぬまでにはこのくらいわかるようになりたい
大抵は体操みたいなソマテイックワークなんだけど、今回はアニマルクロシングというフォーカシングの手法を二人組になってやった。
これも禅の教えの己事究明(漢字合ってる?)自分というものを深く究めて明らかにする、のひとつの方法とのこと。
なんでもいいから動物(実際にいるのでも架空でも)になったつもりで質問に答える。
例えば、とぼとぼ歩く老犬、瞬発力をなくしたチーター、子熊を連れて歩くしろくま(これは大里先生)、木々を飛び回る猿(藤原さん)
では、やってみましょう。
(とやった内容を前に書きました)
表現して表現したものに質問されてもう一歩自分というものの風景に踏み込む。
それまで気がつかなかった姿が現れる。
自分に見えない自分のすがた。
「自己を究明するのが禅」と一照さんは言う。
一照さんは飛ぶ鳥と言っていたけど、どんな鳥だったのかな。
教えていただきました。
「僕は、はるか下の町(葉山?)を見下ろしながら、心地よく旋回を楽しんでいる一匹の(群れの中ではなく)鳶、でした」
己事究明のアニマルクロシング(どう森は無関係)の続き。
今回の坐禅前プログラムも前回と同じフォーカシングの手法、アニマルクロシングだった。
今の自分の生きざまを動物に例えて、ペアになって質問しあう。
(私生きざまって言葉があんまり。ここは「心地」じゃないかと思うんだ。色のないシンプルな体感にフォーカスするためにも)
私は前回と同じ鳥なんだけど種類は違い、大体の大きさと色(ひよどり系)以外ははっきりしない。
自分の外見も種類もわからないのにすごくくっきりはっきり巣だけは見える。
その良さ、自分のものという感じ、執着、安心感。
自分は巣立っているし子育ての季節でもないから巣にいるのはおかしいとは思うんだけど。
飛べると確認するために飛んでは飛べるなと納得してその巣に戻ってくる。
だけど考えたら鳥は自分の外見も名前も知らないよね。
飛んで食べてつがいをみつけて子どもを育てて死ぬまで生きるだけだよ。
そうしな、鳥。