ただ坐るなんならにんげんするよりホーム

人気のない夜の大学病院で透明なエレベーターを待ちながら、今年の夏もみんなと山に行けないけどいつか行ける日が来るかしらとマミさんに聞いた。
返事は確か「もちろんよ」だったと思う。
あれは何年前だっただろう。
山と海の町に住み、絵を描いて縫い物をして、夏にはみんなと山に行く。
こんないいところにたどりつきました。
それでですね
なんと
電車の空調はクーラー!
そして
久しぶりに見たよ、人のつま先。
用事を済ませて山あいの役場を出ると満開を少し過ぎた桜が散り始め早くもつつじが蕾を膨らませて夢心地の様相だ。
よく5月にある完璧な1日のような薫る風がピンクを降らしている。
友だちと絵を描いておしゃべりしてお菓子を食べてお茶を飲んできた帰り道。
自分が変わったのはわかっているけれど、わからないのはこの全てに生きることの最上が宿るのは相が変わったからなのか、見る自分の目が変わったからなのか、相互の共同作業的な働きなのか。
私の中から湧く泉と世界が同じ旋律で歌い奇跡のようにふるえている。
これは夢かな、と少しぼんやりして。
ずいぶんアニマルクロシングが気に入ったんですねって言われるとそれはちょっと違う
多分フォーカシングはそれを使うんだろうけど(何の知識もないのですごい当てずっぽう)意識および体感の焦点の筋をたどり深く理解するやり方は私たちに生まれつきinnatelyに備わっている
その筋のテーマはそこらじゅうにある
心理だろうがNetflixだろうが占いだろうが関係なく、自分のなかで動くものがあれば使える
それらは端、きっかけだから
重要なのはそこからの追い方
ちょっと穴追いに似てるかな
解釈する、んじゃない
解釈しようとする自分を見ているんだから
自ずからするするとほどける解けるに任せる
そのスペースを維持するのがこつかな?