
南千住、山谷涙橋に世界長という酒屋さんがありました。
朝6時開店でした。
手配師たちが帰ったあと、仕事にあぶれた人たちが集まってきました。
当時、一杯110円のコップ酒が多く売れました。
らっきょ数粒と梅干一粒は、10円でした。
一升瓶から直接コップに注ぎました。受け皿はなしでも摺り切り一杯。
美味しそうに口を近づけながら飲まれました。
私は、この町に溶け込むように働いていました。
教授に学校を辞めた方が良いと言われていました。

哀しいような、お祭り騒ぎでした。
毎日決まって、日本酒を6杯飲まれる建具師の方がおられました。
ある日、近くのカウンターバーでお酒をご馳走になりました。
親分さんの手には、根性焼きの跡が手のあちこちに残っていました。
開口健さんの「日本三文オペラ」を読んだのは、その頃だったでしょうか。

私は、午前中は山谷で働き、午後は銀座で働いていました。
松屋裏の酒屋さんで、酒の配達をしていました。
エレベーターで乗り合わせたこれから飲みに行かれる紳士たちもいました。
こちらでビールと言えば小瓶でした。いったいいくらで売られていたのでしょう。
夜7時、お姉さんたちは客待ち顔でテーブルにトランプを広げていました。
山谷に較べ、ゆっくり時間が流れている感じでした。
私は、どちらも2ケ月で辞めました。
どちらにも私の居場所を見つけることはできませんでした。
その後、故郷に帰り家業である蜜柑の仕事をしました。
蜜柑の行商を手伝っていました。お袋は何も聞かずに、喜んでいました。
親父に大学を辞めたいと言い出せないまま、
阿蘇外輪山の牧場に住み込みで働くことにしました。
時おり降る雪は、ほほに突き刺さりました。
一頭、子牛が行方不明になりました。
私は、暗闇の中を探して歩きました。
隣の牧場まで歩く途中、寒い中じっとしている親牛の目が、
懐中電灯の光に反射しました。
隣の牧場の知り合いは、そんなこと放っておけと言われました。
子牛の価値は低かったのでした。
その子牛は、私の知らぬ間に、麓に連れて行かれて売られたのでした。
3月になり、牧場も辞めて、大学に帰りました。
教授に詫びを入れ、復学しました。
その後も酒を飲みました。
田中小実昌という作家は、新宿裏通りのカウンターバーで、
輪ゴムを噛みながらウイスキーを飲むと聞きました。
今は、家で飲む酒も、時おり友人と飲む酒も同じように落ち着いています。
これからも医者に止められるまで、飲むでしょう。
時おり、自分の所業を振り返りながら飲むのです。
酒は裏切らない。酒に振り回されない飲み方をしたいと思います。
2015年2月26日
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