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与える人が大人

2016-06-06 12:15:28 | お話
🍀🍀与える人が大人🍀🍀


カトリックに、アッシジのフランシスコという聖人がいます。

その方が残した「フランシスコの平和の祈り」の中に、私の大好きな1節があります。

「主よ、

慰められるよりも慰めることを、

理解されるよりも理解すること、

愛されるよりも愛することを

求めさせてください」

というものです。

大人と子供の違いは、ここにあるのではないかと思います。

「誰も自分を愛してくれないと感じるのは、
あなたは誰も愛さないからである」

と幸之助さんも言われています。

小さい頃から親に愛されている人は、世の中を信じています。

自己肯定感が高いのですね。

世の中に存在する価値が、しっかりと育まれている。

そういう人は考え方が基本的にポジティブで、何をやっても成功しやすいと思います。

親から愛を受けられなかったという方には同情しますが、得られなかった過去がどうやっても取り戻せません。

それを嘆くより、愛を受けたと言う視点を広く持ってみてはどうでしょうか。

親でなくても、人は多くの人に支えられているのです。

ひとりきりで、他人と一切関わることなく生きている人なんて、この世にはいません。

必ず、誰かの愛と助けに支られて、生きています。

例えば食事ひとつとっても、自分で野菜や肉を取ってこられる人は、ほとんどいないでしょう。

美味しく食べて欲しい、栄養になってほしいという誰かの愛情でつくられたものを、口にしています。

自分ひとりの力で生きていると思ったら、大間違いです。

「いつも誰かに支えられている」と考えれば、自然と前向きな自身も湧いてきます。

ひとりで生きて、ひとりで死ぬつもりでも、必ずどこかで誰かと関わっている。

それが人間社会の素晴らしさです。

そのことを十分に認識できれば、愛されることばかりを望まずに、愛することをもできるようになるはずです。

愛されないとを感じるのは、愛していないからではないでしょうか。

他を愛すると言う生き方は、奪うことを代もらうことよりも、

与えることに主眼を置く生き方です。

多くの人は愛されたいと思っているはずです。

しかし、大人になれば愛はもらうだけではなく、授ける側にもならなければなりません。

人を愛することができるというのが、大人だということを感じないといけない。

与えられるよりも、与えることが大切なのです。

リーダーは特にそうです。

幸之助さんの「いいものをより安くたくさん」、そして「水道哲学」などは、持っているものを人に与え、みんなを幸せにしようという、

仏教的な利他の心が根底にあったのでしょう。

これはアッシジの聖フランシスコにも通じるものです。

私はサラリーマンの方に「会社と親は似ている」と、よくいます。

新入社員が若い頃は、子供と同じように、会社に育ててもらうじゃないですか。

でも、ある一定以上勤めたら、逆に会社に貢献していかなくてはダメです。

30代半ばも過ぎていて、会社からもらうことしか考えていない人がいますが、

どれだけ貢献するかということを思わないといけない。

与えることにより、多くを与えられるのです。

私の先輩で、本当に何でもしてくれる方がいます。

ご飯を食べに行けば全部おごってくれるし、仕事もほとんど無償で助けてくださる。

そういう人には、こっちも何かあげなくてはいけないと、必ず思います。

できれば、何も持っていない若いうちから、与える人生でありたいですね。

お金持ちになったら寄付する、時間ができたらボランティアをするというのも悪くは無いですが、

どんな状況でも与えられる人になりたい。

そして、お返しはあなたではなく、あなたの子供が受け取るくらいが、ちょうどいいと思います。

自分が死んだ後に、子供に何か困ったことがあり、その子が、あなたの生前の知り合いを訪ねたときに、

「あの人のお子さんなら何とかしましょう」と、仕事を世話してくれたり、一食ぐらい食べさせてくれたら、あなたの人生は大成功だと思います。

逆に「あんな奴の子供なんて会いたくもない」と追い返されたら、あなたの前世は失敗です。

惜しみなく与えて、次の世代ぐらいで返ってくる。

それぐらいで考えたほうが気楽です。

そして、与えるものは何でも良いのです。

お金があればお金でもいいし、笑顔が素敵なら笑顔を差し上げれば良い。

親切が好きなら親切でもいいのです。

人が喜ぶものなら、何を差し上げてもいいのです。


(「松下幸之助パワーワード」より)

痛みと苦しみ

2016-06-06 12:11:36 | お話
🌸🌸痛みと苦しみ🌸🌸

ここでは、痛みと苦しみは完全に違うことについてお話しします。

体をけがしたり、病気になれば、痛みが起こります。

つまり痛みとは肉体的な感覚です。

これに対して苦しみは、先にお伝えしたように、起きたことに対して個人的にとらえること、

つまり物事が自分に対して起きているととらえることから生まれます。

たとえば、足を折ったとします。

すると、痛みを感じます。

そして、この痛みだけでなく、さらにそれを経験している人というものは生じた瞬間から、苦しみが起こるのです。

動物がげがをすると、痛みはそこに生まれても、彼らは苦しみを感じません。

動物の脳は経験を自分のものとしてとらえるまで発達していないので、その痛みを自分の痛みと認識しないからです。

生まれたばかりの赤ちゃんにも同じことが言えます。

まだ言葉を知らず自己意識も芽生えていないうちは、苦しみがありません。

けれども、大人は自分の考えや思いをその赤ちゃんに投影してみるので、

たとえば赤ちゃんが椅子から落ちたなら、赤ちゃんは苦しんでいるととらえるのです。

実際、赤ちゃんにはそれが起きたことすらわかりません。

人はさらにそこから生まれる感情を自分のものとしてとらえるので

精神的な苦痛がもっと増すことになります。

たとえば足を折った原因を考えるとき、

自分の不注意のためと思えば自分を責めるかもしれませんし、

他人のせいだと思えば他人を責める気持ちが湧いてくるでしょう。

後悔や憎しみの気持ちを幻想の「私」は持つのです。

さらに、足を折ったためにしばらく会社にいけないとなると、

会社に申し訳ないという気持ちが湧くかもしれませんし、

仕事ができないためお金が稼げないという不安も出てくるかもしれません。

未来に対する心配や不安が起こるのです。

つまり、出来事に対する因果関係を見つけようとすることが、精神的苦悩を大きくしているということです。

先ほどもいましたが、どんな感情もそれ自体に問題はないのです。

また、そこにストーリーがなかったとしても、いかなる感情も湧き得ます。

問題は、それらの感情を自分の感情として所有することによって初めて起こるのです。


(「すでに愛の中にある」より)