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艱難汝を玉にす①

2017-02-05 19:03:51 | お話
艱難汝を玉にす①


🔸福地、木下さんがお始めになったこちらの「京都清宗根付館」は、
いつお伺いしても落ち着いた心持ちになりますね。

🔹木下、ありがとうございます。

もとは文政3年(1820年)に建てられた武家屋敷で、京都市の文化財にも登録されておりましてね。

ここなら根付が盛んにつくられていた時代の空気を感じていただけると考えて、

展示場所に選ばせていただいたんです。

部屋の間取りなど当時の状態は維持した上で、

展示ケースなんかは全部私がデザインして形にしてもらったんです。

🔸福地、根付というのは、男性が着物姿で巾着や印籠を持ち運ぶときに、

落とさないように紐の先に取り付けたアクセサリーだそうですね。

これまであまり馴染みがありませんでしたけれども、

木下さんにご紹介いただいて夫婦ともども根付にはまってしまいました(笑)。


🔹木下、根付というのは日本にしかない独特の文化だと思うんです。

高円宮妃久子殿下が根付文化の維持発展に非常に熱心でいらして、

優れた根付師を表彰なさっていますけれども、私もこの魅力にはまりましたね。

かれこれ40、50年前から個人的に収集していたものが

3,000点以上になったものですから、

大切な根付文化を支えたいと考えて、

平成19年にこの根付館を立ち上げて公開させていただいているんです。


🔸福地、懇意にしていただいている方から

「ぜひ一度ご覧になるといいですよ」

と勧められてお伺いしたのが、

木下さんとのご縁の始まりですが、

あれはちょうど2年前の、御社が創業45周年の節目を迎えられた年でしたね。

🔹木下、福地さんにその時お贈りいただいたご著書を拝読すると、

お客様をいかに大切にするかということを、とても強調なさっていましたね。

お仕事のレベルこそ全然違いますけれども、

私の常々考えていることとすごく共通点がございまして大変勇気づけられました。

それで無理を承知で、45周年の記念講演をお願いしたところ、

快くお引き受けいただきまして、本当に感謝しております。


🔸福地、こちらこそ、素晴らしいご縁をいただきました。

木下さんのお話の端々から窺えるお客様満足への思いは、

私どもアサヒビールの基本理念とも重なりますし、

印刷を科学するという考えにも、

環境問題への真剣な取り組みにも、非常に共感を覚えます。

何よりも、木下さんのお人柄につくづく惚れ込んで、お付き合いさせていただいております。

🔹木下、恐縮です(笑)。


🔸福地、いま佐川印刷さんは、グループ全体でどのぐらいの規模になりますか。

🔹木下、年商1041億円で、正社員が約2,000人です。

グループ会社には、印刷用紙の調達や開発を行うジャパンニューペーパーや、時刻表で知られるジェイティビー印刷など五社を抱えていますが、

最近は、ソフト開発を手掛けるエスピーメディアテックという会社がかなり伸びていますね。

🔸福地、日本有数の印刷会社といえますけれども、最初は木下さんが自転車1台で立ち上げあげられたそうですね。

🔹木下、はい。父親をちょっと早くに亡くしましてね。

中学、高校時代に、毎朝新聞配達と牛乳配達を3年ずつやったのですが、

一生懸命働けば、お客様が喜んでくださると実感できたことが、

自分で事業を手掛ける原点になったと思います。


🔸福地、新聞配達と牛乳配達をなさったのですか。


🔹木下、母親には「そんなことをしたらダメだ」と反対されましたけれど、

少しでも家計を支えたいと思いました。

毎朝4時過ぎに起きて販売店へ行くんですけど、

自分で

「遅れない、休まない、怠けない」

というモットーを掲げて、6年間、
一日も休みませんでした。

🔸福地、まだ若いうちからご自分でそういう心構えを打ち立てるというのは、なかなかできないことですよ。

🔹木下、いや、そんな大それたことをしたという意識はないんです。

ただ、配達エリアの中に京都の中央市場がありまして、

水産会社がたくさん並んでいるんですが、

薄暗くて、静まり返っているところで、カターンと音が響いたりするものですから、

もう怖くて怖くて(笑)。

それ以外は、とても楽しかったですね。

配達先のお客様が、ありがとうと喜んでくださるのが、すごく励みになっていたんです。

13、14軒くらいからお礼のお手紙をいただいたんですけれども、

その時の感動がいまだに働く力の源になっているように思います。


そういう家庭状況でしたから、大学への進学は断念して、

高校を出て証券会社に入って頑張っておったんですけど、

やっぱりお客様に損をさせることもあるんですね。

眠れない時もありまして、結局3年で退職させていただきました。


🔸福地、それで、どうなさったのですか。

🔹木下、辞める半年ほど前に、友人がある印刷会社の社長を紹介してくれて、

仕事が終わると、いつも遊びに行っていたんです。

10数名の小さい印刷会社でしたけど、証券会社と違って、

そういう具体的にものをつくる仕事に惹かれるものがあったんですね。

毎晩11時、12時頃まで忙しくやっていて、

見ているうちに、手伝ったりもするようになり、

その社長さんの人柄にも惹かれて入社することになったんです。


私も若かったものですから、

少しでもお客様を増やして事業を拡大したいという思いを非常に強く持っていましてね。

その社長さんとは、いろいろ夢を語り合っていたんですが、

だんだん自分の思いがその会社の中では収まりきらなくなって、

6年4ヶ月ほどお世話になった後、独立させてもらうことにしたんです。


🔸福地、なるほど、そういういきさつで印刷業を。それが47年前ですね。

🔹木下、はい。昭和45年、27歳の時でした。

自宅の1室を事務所代わりにしましてね。

毎月、千円か二千円の月賦(ゲップ)で買ったアタッシュケースを抱えて、

自転車1台でスタートしたんです。

ただ、会社を飛び出すのはものすごく不安でした。

最初は何の印刷機械も持たないブローカーでしたし、

とにかくお客様に体でぶち当たっていくしかありませんでした。

いかにお客様の懐に入り込むか、

どんなよいお話をご提供できるかということに必死で、

創業から16年くらいは毎晩3時間半くらいしか寝ていませんでしたね。

まぁ、女房には苦労をかけました。


🔸福地、独立なさった時には、もうご結婚なさっていたのですか。

🔹木下、はい、結婚して3年目でした。1日自転車で外を回って帰ってくるでしょう。

そうすると女房が

「お父さん、今日はどれだけ注文が取れたの?」

って待っているから、かないませんわ(笑)。

それで、また商店街に戻ってチラシの仕事をもらって帰ってきたりしましたけれども、

とにかくゼロで帰ることが嫌でしたね。

頑張った甲斐があって、1年で103件のお客様を開拓して、

「木下が通った後は、ぺんぺん草も生えない」

と言われるようになりました。


(「致知」3月号、佐川印刷会長 木下さん、アサヒビール元会長 福地さん対談より)