艱難汝を玉にす②
🔸福地、ご創業からほどなくご社名を「キノシタ印刷」から「佐川印刷」へ変更なさいましたね。
同じ京都の佐川急便さんの資本が入っているのかと思いましたら、
そういうことは全然ないそうですけれども、どういうお考えで社名を変更なさったのですか。
🔹木下、創業してほどなく、佐川急便創業者の佐川清元会長とご縁をいただいて、
運命が大きく変わったという思いがございましてね。
ご本人のお許しをいただいて、昭和51年に「佐川印刷」に改めたのです。
当時の佐川急便さんは、まだいまほど大きくありませんでしたけど、勢いがありました。
お伺いすると、ものすごい元気をもらうんですよ。
この会社は伸びるなと思って通い始めたんです。
最初、佐川清元会長のこたは
「あの背の低い方が社長さんか」
と遠くから拝見するだけだったのですが、
私がいつも
「毎度っ! キノシタ印刷です!」
って大声で入っていくものですから非常に目立ちましてね(笑)。
1年ぐらい経つ頃には、
「木下君、お茶でも飲んでいきなさい」
と、本社の裏にあるご自宅によく招かれるようになりました。
お茶はいいから、早く仕事が欲しかったんですけれども(笑)。
🔸福地、なかなか仕事には結びつかなかったわけですな。
🔹木下、途中で何度も、もう通うのはやめようかと思いました。
それでも、ローラー作戦で、近所一帯をいつも回っていましたから、
まぁ、いいや、と気を取り直してはお邪魔していたんです。
そして3年3ヶ月通った時に、初めて名刺のご注文をいただいたんです。
九州の会社を買収に行かれる時に、お名刺に誤植が見つかり、
その印刷会社を辞めて、木下のところに出してやれということになったようなんです。
総務の方からご連絡をいただいた時は、もう涙が止まりませんでしたわ。
これは特急で納めるべきだと思って、
お世話になっている職人さんのところに飛んで行き、
その日の夕方の5時半ごろにでき上がった名刺をお持ちしたんです。
そしたら、まだ社長は会社におられて、
「もうできたのか」
と随分喜んでくださいました。
それが、功を奏したのか、徐々に仕事をいただけるようになったんです。
🔸福地、佐川清さんとの出会いが、大きな転機になったわけですね。
感謝の表し方にもいろいろありますけど、
「佐川印刷」という社名にその思いを込めて、40年以上経った今も忘れず抱き続けるというのは、
なかなかできないことです。
木下さんの心の底流にあるその深い感謝の念が、今日の成功に結びついたのでしょうね。
🔹木下、私も裸一貫なら佐川清元会長も裸一貫でしたね。
新潟の板倉から京都に出て、リヤカーを曳(ひ)いて運送業を立ち上げられたんです。
そこから、あれほどの大きな発展を遂げられた原点には、
お客様からお預かりした荷物は肌身離さない、
命がけでお届けするという飛脚の精神があったんです。
ご自分の仕事を自慢したりとか、そういうところは全然なくて、
表向きはいつも淡々となさっていましたけれども、
本当に努力の方で、私はものすごく好きでした。
一度、約束の時間に遅れて、酷(ひど)く怒られたことがありましたが、
約束とか、節度とか、そういう面ではとても厳しい人でした。
ドライバーさんを、ものすごく大事にされていまして、
よく皆さんを集めて鍋料理をなさっていたのに私も加えていただいて、
いろんなお話を聞かせていただきました。
そういう中で、経営とはこういうものだよという哲学を授けていただいたように思います。
🔸福地、佐川清さんからはどんなことを学ばれましたか。
🔹木下、例えば、商人としてやっていくならお客様に可愛がってもらえ、とおっしゃっていました。
可愛がってもらうだけの中身を持っていかなければいけないわけで、
そのために一生懸命やるということですね。
一期一会という言葉もお好きでした。
人様との出会いを大切にしろよと。
口でおっしゃるだけでなく、佐川清元会長ご自身が、まさにその言葉のとおりに実践なさっているんです。
それから、会社の中にいても仕事はない。
現場へ出ろ、というのも印象的でした。
スピードが大事だと。
もたもたせずに、やるべき時にパッとやりなさいと。
🔸福地、スピードについては、私も営業時代に
「より早く、もっと速く」とよく言いました。
「より早く」というのは早く着手すること。
いつまで考えているんやと(笑)。
「もっと速く」は着手したらスピード上げるという意味なんですが、
今の佐川清さんのお話にも通ずるものがありますね。
それにしても、自転車1台で始められた佐川印刷を、
わずか40年余で歴史ある業界大手に迫る有力会社にまで育てあげられた手腕には感服させられます。
ここまでのお話以外にも、いろんなご努力があったのだと私は思うんですよ。
例えば、アサヒビールが伸びたのはスーパードライのおかげだとよく言われますけど、
スーパードライがあそこまで売れた要因の1つに、
当時の樋口社長の設備投資に対する絶妙の勘がありました。
普通の理屈で考えたら、クレイジーと言われるような投資を断行して、
それが見事に的中するんです。
いまでもよく覚えていますけれども、
私がまだ営業部長の時に参加した設備投資の会議で、
樋口さんは、
「いまから設備投資をして、来年何%まで増産できるのか?」
と生産担当副社長に確認しましてね。
50%まで可能だというので
「すぐやってくれ」
と即断したんです。
その仕事を命じられたのが私なんですけど、
10 %増でも大変なことをところを50%増ですから、
現場からは
「福地、何を考えているんや!」
と散々言われながらもやり遂げました(笑)。
それでも市場の反響が凄まじくて、100 %増までいかなければ完全にニーズを満たせない。
何とか70 %増までもっていって凌いだんですが、
あそこでもし常識的に10 %増の設備投資ですませていたら、
今日のスーパードライはなかったと思うんです。
木下さんも大変積極的な設備投資を重ねてこられて、
そういう樋口社長の判断に通ずるものを感じるのですが、
いかがでしょうか。
🔹木下、私どもの場合は、佐川急便さんのお仕事を大切に守らせていただくために設備を充実させてきた面が大きいですね。
1番最初に機械を入れたのが、佐川急便さんの配送伝票を印刷する活版の機械でしたけれども、
佐川急便さんがどんどん大きくなって、伝票の枚数も増えていくので、
その機械を1台増やい、2台増やして懸命にその成長についていったんです。
当時の佐川急便さんの勢いはとにかくすごかったんですね。
昭和53年、54年、55年とずーっと伸びて、
1番多い時で当社の仕事の83%くらいを占めていましたから。
そうやって機械が増えると、佐川急便さんだけに使うのはもったいないから、
他の会社の伝票もどんどん扱うようになる。
そのうちカラーの伝票も扱えるようにしよう、
コンピューター伝票にも対応しよう、
伝票以外にもカレンダーやカタログや本など、いろんなアイテムを扱えるようにしようということで、
さらに機械を刷新し、技術革新をする。
今度は、そこにソフトを組み込んで、お客様の必要とするデータを瞬時に発信できるシステムをご提案する。
そういう積み重ねで、どんどんビジネスが発展していったわけです。
もちろん、ただ設備を充実させたからではなく、
一生懸命働いた成果として仕事が増えたわけですけれども。
(「致知」3月号、佐川印刷会長 木下さん、アサヒビール元会長 福地さん対談より)
🔸福地、ご創業からほどなくご社名を「キノシタ印刷」から「佐川印刷」へ変更なさいましたね。
同じ京都の佐川急便さんの資本が入っているのかと思いましたら、
そういうことは全然ないそうですけれども、どういうお考えで社名を変更なさったのですか。
🔹木下、創業してほどなく、佐川急便創業者の佐川清元会長とご縁をいただいて、
運命が大きく変わったという思いがございましてね。
ご本人のお許しをいただいて、昭和51年に「佐川印刷」に改めたのです。
当時の佐川急便さんは、まだいまほど大きくありませんでしたけど、勢いがありました。
お伺いすると、ものすごい元気をもらうんですよ。
この会社は伸びるなと思って通い始めたんです。
最初、佐川清元会長のこたは
「あの背の低い方が社長さんか」
と遠くから拝見するだけだったのですが、
私がいつも
「毎度っ! キノシタ印刷です!」
って大声で入っていくものですから非常に目立ちましてね(笑)。
1年ぐらい経つ頃には、
「木下君、お茶でも飲んでいきなさい」
と、本社の裏にあるご自宅によく招かれるようになりました。
お茶はいいから、早く仕事が欲しかったんですけれども(笑)。
🔸福地、なかなか仕事には結びつかなかったわけですな。
🔹木下、途中で何度も、もう通うのはやめようかと思いました。
それでも、ローラー作戦で、近所一帯をいつも回っていましたから、
まぁ、いいや、と気を取り直してはお邪魔していたんです。
そして3年3ヶ月通った時に、初めて名刺のご注文をいただいたんです。
九州の会社を買収に行かれる時に、お名刺に誤植が見つかり、
その印刷会社を辞めて、木下のところに出してやれということになったようなんです。
総務の方からご連絡をいただいた時は、もう涙が止まりませんでしたわ。
これは特急で納めるべきだと思って、
お世話になっている職人さんのところに飛んで行き、
その日の夕方の5時半ごろにでき上がった名刺をお持ちしたんです。
そしたら、まだ社長は会社におられて、
「もうできたのか」
と随分喜んでくださいました。
それが、功を奏したのか、徐々に仕事をいただけるようになったんです。
🔸福地、佐川清さんとの出会いが、大きな転機になったわけですね。
感謝の表し方にもいろいろありますけど、
「佐川印刷」という社名にその思いを込めて、40年以上経った今も忘れず抱き続けるというのは、
なかなかできないことです。
木下さんの心の底流にあるその深い感謝の念が、今日の成功に結びついたのでしょうね。
🔹木下、私も裸一貫なら佐川清元会長も裸一貫でしたね。
新潟の板倉から京都に出て、リヤカーを曳(ひ)いて運送業を立ち上げられたんです。
そこから、あれほどの大きな発展を遂げられた原点には、
お客様からお預かりした荷物は肌身離さない、
命がけでお届けするという飛脚の精神があったんです。
ご自分の仕事を自慢したりとか、そういうところは全然なくて、
表向きはいつも淡々となさっていましたけれども、
本当に努力の方で、私はものすごく好きでした。
一度、約束の時間に遅れて、酷(ひど)く怒られたことがありましたが、
約束とか、節度とか、そういう面ではとても厳しい人でした。
ドライバーさんを、ものすごく大事にされていまして、
よく皆さんを集めて鍋料理をなさっていたのに私も加えていただいて、
いろんなお話を聞かせていただきました。
そういう中で、経営とはこういうものだよという哲学を授けていただいたように思います。
🔸福地、佐川清さんからはどんなことを学ばれましたか。
🔹木下、例えば、商人としてやっていくならお客様に可愛がってもらえ、とおっしゃっていました。
可愛がってもらうだけの中身を持っていかなければいけないわけで、
そのために一生懸命やるということですね。
一期一会という言葉もお好きでした。
人様との出会いを大切にしろよと。
口でおっしゃるだけでなく、佐川清元会長ご自身が、まさにその言葉のとおりに実践なさっているんです。
それから、会社の中にいても仕事はない。
現場へ出ろ、というのも印象的でした。
スピードが大事だと。
もたもたせずに、やるべき時にパッとやりなさいと。
🔸福地、スピードについては、私も営業時代に
「より早く、もっと速く」とよく言いました。
「より早く」というのは早く着手すること。
いつまで考えているんやと(笑)。
「もっと速く」は着手したらスピード上げるという意味なんですが、
今の佐川清さんのお話にも通ずるものがありますね。
それにしても、自転車1台で始められた佐川印刷を、
わずか40年余で歴史ある業界大手に迫る有力会社にまで育てあげられた手腕には感服させられます。
ここまでのお話以外にも、いろんなご努力があったのだと私は思うんですよ。
例えば、アサヒビールが伸びたのはスーパードライのおかげだとよく言われますけど、
スーパードライがあそこまで売れた要因の1つに、
当時の樋口社長の設備投資に対する絶妙の勘がありました。
普通の理屈で考えたら、クレイジーと言われるような投資を断行して、
それが見事に的中するんです。
いまでもよく覚えていますけれども、
私がまだ営業部長の時に参加した設備投資の会議で、
樋口さんは、
「いまから設備投資をして、来年何%まで増産できるのか?」
と生産担当副社長に確認しましてね。
50%まで可能だというので
「すぐやってくれ」
と即断したんです。
その仕事を命じられたのが私なんですけど、
10 %増でも大変なことをところを50%増ですから、
現場からは
「福地、何を考えているんや!」
と散々言われながらもやり遂げました(笑)。
それでも市場の反響が凄まじくて、100 %増までいかなければ完全にニーズを満たせない。
何とか70 %増までもっていって凌いだんですが、
あそこでもし常識的に10 %増の設備投資ですませていたら、
今日のスーパードライはなかったと思うんです。
木下さんも大変積極的な設備投資を重ねてこられて、
そういう樋口社長の判断に通ずるものを感じるのですが、
いかがでしょうか。
🔹木下、私どもの場合は、佐川急便さんのお仕事を大切に守らせていただくために設備を充実させてきた面が大きいですね。
1番最初に機械を入れたのが、佐川急便さんの配送伝票を印刷する活版の機械でしたけれども、
佐川急便さんがどんどん大きくなって、伝票の枚数も増えていくので、
その機械を1台増やい、2台増やして懸命にその成長についていったんです。
当時の佐川急便さんの勢いはとにかくすごかったんですね。
昭和53年、54年、55年とずーっと伸びて、
1番多い時で当社の仕事の83%くらいを占めていましたから。
そうやって機械が増えると、佐川急便さんだけに使うのはもったいないから、
他の会社の伝票もどんどん扱うようになる。
そのうちカラーの伝票も扱えるようにしよう、
コンピューター伝票にも対応しよう、
伝票以外にもカレンダーやカタログや本など、いろんなアイテムを扱えるようにしようということで、
さらに機械を刷新し、技術革新をする。
今度は、そこにソフトを組み込んで、お客様の必要とするデータを瞬時に発信できるシステムをご提案する。
そういう積み重ねで、どんどんビジネスが発展していったわけです。
もちろん、ただ設備を充実させたからではなく、
一生懸命働いた成果として仕事が増えたわけですけれども。
(「致知」3月号、佐川印刷会長 木下さん、アサヒビール元会長 福地さん対談より)