🍀🍀おやじたちの社会貢献🍀🍀
私が理事長を務める退職自衛官を中心とした
「日本地雷処理を支援する会(JMAS(ジェーマス))」が発足したのは2001年。
以来、カンボジアやラオス、パラオ、パキスタンなど世界6カ国で地雷や不発弾を処理してきました。
現地で活動する自衛官たちは、現役時代に地雷や不発弾処理に携わってきた高度な技術を持つ専門家ですが、
平均年齢は64歳、最高齢は70歳にもなります。
世間では悠々自適の生活に入る年齢の
"おやじたち"
が、なぜ危険を伴う現地へと赴くのか…。
その原点は当会設立の経緯にあります。
自衛隊が初めて国際平和維持活動(PKO)に参加した1991年。
その際、内戦などにより世界有数の
「地雷・不発弾汚染国」
と呼ばれていたカンボジアに派遣された自衛官が
目にしたのは、
地雷によって、手足を失った子どもたちや
不発弾の爆発によって、次々と命を落としていく住民たちの現実でした。
しかし、当時の政府の方針もあり、自衛隊は橋や道路などの復旧作業にしか携わることができず、
自衛官たちは不発弾や地雷で傷ついていく住民を、ただただ見ている他ありませんでした。
そうした中で退官を迎えた自衛官から、やがて
「戦争の後始末は、戦争を知っている者たちがやるのが常識だ」
「自分の技術を社会のために役立てたい」
「人生の仕上げの段階で悔いを残したくない」
との声が上がり始め、10数名の退官自衛官の有志によって発足したのかJMASです。
とはいえ、「下からの声」で発足したため、政府や行政の援助があるわけでもなく、
資金の工面など苦しい船出でした。
それでも皆で私財を拠出し合い、
何とか2002年にカンボジアから本格的に活動を開始。
内戦などに関わった軍人に会い、地雷をどのあたりに埋めたのかを聞き出すことから始め、
村々を巡りながら民家の床下や木の根元などに転がっている迫撃砲や不発弾、地雷を、一つひとつ地道に回収・処理していきました。
当会の転機となったのは、
国際協力活動の現場で有意義な貢献を行っている個人や団体を顕彰する
「第10回読売国際協力賞」に選ばれたことでした。
世間の注目が集まったことで、政府の無償援助資金をいただけることになり、
徐々に寄付などの支援の輪も広がっていったのです。
そして2004年からは、現地で専門家を育成して正しい処理方法を普及する方針を打ち出し、
「教えること」により重きを置くようになりました。
というのは、自分たちで地雷を処理して帰国してしまうだけでは、ほんの一部しか処理できず、被益効果が見込めないからです。
また、現地の有力者に要望をお伺いし、地雷を処理した跡地に道路や耕作地、学校、井戸、寺院をつくり社会全体の復興を図る取り組みにも注力していきました。
その後も、カンボジアに続けと、2005年にラオス、2006年にアフガニスタン、
2008年にアンゴラ、2009年にパキスタン、
2012年にパラオと、事業を広げ、
現在までに約40万発の地雷・不発弾を処理する成果をあげました。
退職自衛官が現地で大きな事故に遭遇することもなく、
限られた人数でここまで活動を続けることができたのは、
多くの方々のご支援とともに、
我々が「基本に忠実に動く」という自衛隊に脈々と息づく伝統を守ってきたからに他なりません。
地雷や不発弾を処理する際には、適切な計画を立て、手順を守り、万が一にも事故が起きないよう処理していきます。
「たぶんこうだろう」では処理をせず、
処理の手順が不明確な場合には、100%安全な方法がわかるまで、
周囲に誰も入れないようにして、そっとしておくのです。
カンボジアで、7年間活動を続ける今井氏も、
「地雷処理において最も求められるのは100%の安全であり、
処理に任ずる処理作業間の隊員の安全も100%、
処理跡地を活用する人たちの安全も100%でなければならない。
その品質をつくり出すのは
愚直なまでに基本を繰り返し実行する隊員である」
と述べています。
それからもう一つ、カンボジアのPKOに始まる国際貢献の中で
自衛隊に培われた
「現地の人の目線に立って、誠実にじっくりと進める」
という気風も忠実に守り活動してきました。
例えばラオスでは、
現地の組織が、自衛隊に蓄積された地雷・不発弾の処理方法の導入に難色を示し、なかなか事業が始められませんでした。
しかし、それでもこちらの主張を押しつけることは決してせず、
何度も会議や説明会を重ね、現地の方々の信頼を得たところで事業を始めました。
現地の方々との協力関係が築けなければ、国際貢献は絶対にうまくいかないのです。
理事長を拝命して今年で4年になりますが、当会で活動する退職自衛官たちに接していると、
「自分の特技が何歳になっても社会のために生かせることは、本当に幸福だ」
という思いが、しみじみと込み上げてきます。
当会で最高齢の70歳で活動していた中條氏は、ラオスで手足のしびれを感じ、帰国して検査を受けたところ脳梗塞と診断され、即入院。
しかし回復するや、すぐにラオスへと飛び立っていきました。
気さくな性格で「いつまでもいてほしい」と現地の人々から慕われている中條氏の胸中には、
きっと、彼らの笑顔があったに違いありません。
我われが活動しているこの瞬間にも、シリア内戦など、世界中で地雷や不発弾が際限なく増え続けています。
現地の人々の笑顔、
そして世界の平和のためにも、
我々 "おやじたち" の
国際貢献に終わりはないのです。
(「致知」4月号、致知随想、日本地雷処理を支援する会 理事長 荒川龍一郎さんより)
私が理事長を務める退職自衛官を中心とした
「日本地雷処理を支援する会(JMAS(ジェーマス))」が発足したのは2001年。
以来、カンボジアやラオス、パラオ、パキスタンなど世界6カ国で地雷や不発弾を処理してきました。
現地で活動する自衛官たちは、現役時代に地雷や不発弾処理に携わってきた高度な技術を持つ専門家ですが、
平均年齢は64歳、最高齢は70歳にもなります。
世間では悠々自適の生活に入る年齢の
"おやじたち"
が、なぜ危険を伴う現地へと赴くのか…。
その原点は当会設立の経緯にあります。
自衛隊が初めて国際平和維持活動(PKO)に参加した1991年。
その際、内戦などにより世界有数の
「地雷・不発弾汚染国」
と呼ばれていたカンボジアに派遣された自衛官が
目にしたのは、
地雷によって、手足を失った子どもたちや
不発弾の爆発によって、次々と命を落としていく住民たちの現実でした。
しかし、当時の政府の方針もあり、自衛隊は橋や道路などの復旧作業にしか携わることができず、
自衛官たちは不発弾や地雷で傷ついていく住民を、ただただ見ている他ありませんでした。
そうした中で退官を迎えた自衛官から、やがて
「戦争の後始末は、戦争を知っている者たちがやるのが常識だ」
「自分の技術を社会のために役立てたい」
「人生の仕上げの段階で悔いを残したくない」
との声が上がり始め、10数名の退官自衛官の有志によって発足したのかJMASです。
とはいえ、「下からの声」で発足したため、政府や行政の援助があるわけでもなく、
資金の工面など苦しい船出でした。
それでも皆で私財を拠出し合い、
何とか2002年にカンボジアから本格的に活動を開始。
内戦などに関わった軍人に会い、地雷をどのあたりに埋めたのかを聞き出すことから始め、
村々を巡りながら民家の床下や木の根元などに転がっている迫撃砲や不発弾、地雷を、一つひとつ地道に回収・処理していきました。
当会の転機となったのは、
国際協力活動の現場で有意義な貢献を行っている個人や団体を顕彰する
「第10回読売国際協力賞」に選ばれたことでした。
世間の注目が集まったことで、政府の無償援助資金をいただけることになり、
徐々に寄付などの支援の輪も広がっていったのです。
そして2004年からは、現地で専門家を育成して正しい処理方法を普及する方針を打ち出し、
「教えること」により重きを置くようになりました。
というのは、自分たちで地雷を処理して帰国してしまうだけでは、ほんの一部しか処理できず、被益効果が見込めないからです。
また、現地の有力者に要望をお伺いし、地雷を処理した跡地に道路や耕作地、学校、井戸、寺院をつくり社会全体の復興を図る取り組みにも注力していきました。
その後も、カンボジアに続けと、2005年にラオス、2006年にアフガニスタン、
2008年にアンゴラ、2009年にパキスタン、
2012年にパラオと、事業を広げ、
現在までに約40万発の地雷・不発弾を処理する成果をあげました。
退職自衛官が現地で大きな事故に遭遇することもなく、
限られた人数でここまで活動を続けることができたのは、
多くの方々のご支援とともに、
我々が「基本に忠実に動く」という自衛隊に脈々と息づく伝統を守ってきたからに他なりません。
地雷や不発弾を処理する際には、適切な計画を立て、手順を守り、万が一にも事故が起きないよう処理していきます。
「たぶんこうだろう」では処理をせず、
処理の手順が不明確な場合には、100%安全な方法がわかるまで、
周囲に誰も入れないようにして、そっとしておくのです。
カンボジアで、7年間活動を続ける今井氏も、
「地雷処理において最も求められるのは100%の安全であり、
処理に任ずる処理作業間の隊員の安全も100%、
処理跡地を活用する人たちの安全も100%でなければならない。
その品質をつくり出すのは
愚直なまでに基本を繰り返し実行する隊員である」
と述べています。
それからもう一つ、カンボジアのPKOに始まる国際貢献の中で
自衛隊に培われた
「現地の人の目線に立って、誠実にじっくりと進める」
という気風も忠実に守り活動してきました。
例えばラオスでは、
現地の組織が、自衛隊に蓄積された地雷・不発弾の処理方法の導入に難色を示し、なかなか事業が始められませんでした。
しかし、それでもこちらの主張を押しつけることは決してせず、
何度も会議や説明会を重ね、現地の方々の信頼を得たところで事業を始めました。
現地の方々との協力関係が築けなければ、国際貢献は絶対にうまくいかないのです。
理事長を拝命して今年で4年になりますが、当会で活動する退職自衛官たちに接していると、
「自分の特技が何歳になっても社会のために生かせることは、本当に幸福だ」
という思いが、しみじみと込み上げてきます。
当会で最高齢の70歳で活動していた中條氏は、ラオスで手足のしびれを感じ、帰国して検査を受けたところ脳梗塞と診断され、即入院。
しかし回復するや、すぐにラオスへと飛び立っていきました。
気さくな性格で「いつまでもいてほしい」と現地の人々から慕われている中條氏の胸中には、
きっと、彼らの笑顔があったに違いありません。
我われが活動しているこの瞬間にも、シリア内戦など、世界中で地雷や不発弾が際限なく増え続けています。
現地の人々の笑顔、
そして世界の平和のためにも、
我々 "おやじたち" の
国際貢献に終わりはないのです。
(「致知」4月号、致知随想、日本地雷処理を支援する会 理事長 荒川龍一郎さんより)