🍀🍀何処までがあなた?🍀🍀
「 "本当はすべてが僕" って話が、やっぱりわからないんです。
どう考えても僕は僕だし、僕以外は僕以外だし」
うん。じゃあ聞くけどね。お前はどこからどこまでが「自分」だと思っている?
え?
だからさ、お前が「僕」って言うときの、「僕」と「僕以外」の間にある境界線だよ。
自分を分けているボーダーはどこにある?
「境界線か…。そう言われると、ちゃんと考えたことはないなぁ…」
仮にね、1本の木を思い浮かべてみなよ。
その木は、どこからどこまでが「木」なのかな。
「木」と「木以外」を分ける境界線はどこにあるのかな。
お前の何倍もの大きさで雄大にそびえ立つ、そんな大きな木も、
時を、ず〜っと、ず〜っとさかのぼると、たった1粒の小さな「種」だったはずだ。
『となりのトトロ』のワンシーンじゃあるまいし、
ある晩突然「にょきにょき〜っ」って現れたとなんてことは考えられないよね。
種が土に埋まり、そこに雨や暖かな日差しが降り注ぎ、やがて「芽」が出る。
その「芽」が育ち、「苗」となり、「苗」はさらにすくすくと成長して、「木」になった。
この当たり前のことさえも、よくよく考えると、とても不思議な現象だとは思わないか。
だって、元の種を割り、中をのぞいてみても、そこには「幹」も「枝」も「葉」もないんだぞ。
もともとなかったモノが、いま「ある」んだ。
「幹」も「枝」も「葉」ももっていなかった小さな種が、
いつの間にか、大きな大きな「巨木」に変化を遂げた。
でも、その「巨木」が「巨木」になるためには、「種だけ」では、無理だったんだ。
そこに、「土」や「その土を豊かにする微生物」、「水」、「空気」、「日光」などの、
「種」の以外の要素があったからこそ、「種」は「木」となることができたんだよ。
「種」+「土」+「微生物」+「水」+「空気」+「日光」+「etc」= 「木」
ほら、こうなるともう、どこからどこまでが「木」として独立しているかわからないだろう。
その中の何か1つご欠けても、その木にはなりえないんだよ。
そしてさ、その木についている1枚の葉を考えてごらん。
あるときは「木」の1部としてとらえられていた葉も、枝から離れたとたん、人間にとって「落ち葉」って名前を変えられるんだ。
さらにその「落ち葉」が腐敗すると「腐葉土」と呼ばれる。
今度はいつの間にか「植物」から「土」だ。
その名称や定義は、人間が勝手につくり上げたものだろう。
「境界線」は、いつだって人間の頭の中、「リアル」ではなく「イマジネーションの世界」の中にしかないんだ。
「境界線」が「境界線」として実在してるわけじゃないんだよ。
「本当だね… 」
だろう?
「木」を「人間」に置き換えても同じことなんだよ。
お前の体は、何でできている?
「えーと…、たしかアミノ酸と、タンパク質と… 」
いやいや、私が言いたいのはそういうことじゃないんだよ。
いいかい?
おまえの体は、おまがこれまでに食べたり飲んだりしてきたものででき上がっているんだ。
そうだろう?
「あぁ、そういうこと!」
そういうことだよ。
だからね、おまえは、どうやって「何か」と切り分けた「自分」を定義できると思っているんだよってことだよ、私が言いたいのは。
できないだろう。
「ここからここまでが僕です」だなんて。
たとえば、「自分」と「水」という区分けは、
おまえがその水を飲んでしまった時点でわからなくなってしまうじゃないか。
だって人間の体の70%は水だもんな。
人体を原子レベルで見てみれば、
構成要素は、酸素・炭素・水素・窒素・カリウム・リンなど。
そのうち酸素は全体の6割以上となるが、
では空気中にある酸素と、人体内の酸素の境界線はどこにあるというのだろう。
どこからが「空気」でどこまでが「人体」と切り分けられるだろう。
肺の中にある酸素は「空気」か「人体」か、血中にある酸素は?
「名前」ってのはな、あくまで「状態」を指し示す記号なんだ。
「固定された何か」「独立した何か」なんてもともと存在しないんだよ。
すべてはつながっている。
たった一つの同じエネルギーが、たえず形・状態を変えて生きつづけているんだ。
「う〜ん… .。
とはいっても、やっぱり僕が他人とつながっている1つのものとは思えない。
もし佐藤さんが僕だと言うなら、僕は自分の手を動かすのと同じように、佐藤さんを動かせることになる。
でも、催眠術でもかけない限り、僕は佐藤さんのことを思い通りにコントロールすることなんてできないもん。
ほら、やっぱり僕と佐藤さんは別物だよ」
あはははは!
「何がおかしいのさ!」
だっておかしいだろう。
思い通りにコントロールできないから自分ではない、というのなら、おまえは自分じゃなくなってしまうじゃないか。
「?」
おまえは、自分自身のことを思い通りにコントロールできているとでも思っているのかい?
絵を描こうとしたときに、本当に思い通りに手が動いているかい?
ダンスを踊ろうとしたとき、本当に思い通りに体が動いているかい?
体の老化現象を、自分の意志で止めることができるかい?
呼吸を、血流を、鼓動を、消化を、新陳代謝を、思考を、感情を、
常時自分の意志でコントロールしているのかい?
まさか、まさか。
むしろ、そのほとんどが無自覚のうちに行われているか、
自分の思い通りにならずに苦しんでいるのがおまえの状況じゃないか。
他人のコントロールどころか、
自分のコントロールすらできないのに、思い通りにコントロールできないから僕じゃない、という理屈は成り立たないだろう。
「でも、でもさぁ、やっぱり自分を自覚する "主観" が確実にあるよ。
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、これだけの数だけ "僕" と "僕以外" の存在をしっかり感じる要素があるのだから… 」
その「主観」こそが錯覚の始まりなんだよ。
五感で感じられるものがすべてじゃない。
人間の認識能力は実に不完全なものなんだ。
さて、どうやって説明しようかな… .。
よし、説明してあげるから風呂に入ろう。
「え? 風呂?」
いいから、いいから。
さぁ、湯船につかって。
…よし、じゃあ湯船の中から、手の指だけを出してくれ。
多くの人間は、「自分」に対して「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が
独立して存在してると思っている。
たとえるなら、「自分」は右手の人差し指で、「Aさん」は左手の薬指で、「Bさん」は左手の親指といったぐあい。
もともとは「人体」という、1つの大きな存在であるにもかかわらず、
「右手人差し指」「左手薬指」「左手親指」が独立して存在していると勘違いしている状態なんだ。
なぜそういった勘違いが生まれてしまってるかというと、
認識能力の限界によって、それぞれの「つながり」をとらえることができていないから。
「水上」が人間で五感で認識できる領域で、
「水中」がその認識能力を超えた領域だ。
本当はつながりを持っているにもかかわらず、
自分の認識能力において水中がどうなっているかを把握できない状態では、
水の外に出ているいる「指」は、まるで独立して存在しているかのように感じてしまう。
そこから生まれた
「認識できない=つながりがない」
というこの考えが間違いの発端になっている。
「私という独立した存在がある」というこの錯覚・思い込みは、
仏教では「有身見(うしんけん)」という言葉で説明されていてね、
煩悩の1つなんだ。
この「自」と「他」を分離する壁がなくなる状態、
つまり、自我が消えた状態のことを「無我」と言う。
「無我」は読んで字のごとく「我が無い」という意味だが、
それは「存在が消滅する」ということではない。
「自他を分ける壁がなくなり、あらゆる存在と1つとなり、
"私" という独立した概念がなくなる」ということなんだ。
「存在」は「存在」としてありつづける。
「世界にはたくさんの命がある」という勘違い・思い込みは、
人間が長きにわたってはまっている呪縛だ。
多くの人間には、鈴木さんの命、佐藤さんの命、犬の命、虫の命、植物の命…、
そうやって、無数の命が存在してると思っている。
でも本当はそうじゃない。
おまえの体の細胞が、日々変化しつづけているのと同じことだよ。
伸びた爪を切っても、命はなくならない。
髪を切っても「あぁ、自分は死んだ!」とはならないだろう。
髪を切っても、おまえはおまえとして生き続けている。
髪の命、爪の命、内臓の命、心臓の命、脳の命、と分けて存在してるわけじゃない。
爪を生かしているのも、髪を生かしているのも、
内臓いい顔してるのも、心臓を生かしているのも、
脳を生かしているのも、
たった1つの同じ命だ。
それと同じように、
おまえを動かしているのも、佐藤さんを動かしているのも、
鈴木さんを動かしているのも、動植物を動かしているのも、
地球を動かしているのも、太陽を動かしているのも、
壮大な宇宙全体を動かしてるのも、
同じ命だ。
命は、たった1つしかないんだよ。
そして、その命、生命そのものが、おまえの本来の姿なんだ。
自分が、自分の命を所有してるわけじゃない。
"命が自分" なんだよ。
だから、おまえを生きている命と、私を生きている命は、1つの同じもの。
私が「私はおまえだよ」だとか、「すべてがおまえだよ」って言うのは、そういうことなんだ。
(「あの世に聞いた、この世の仕組み」雲黒斎さんより)
「 "本当はすべてが僕" って話が、やっぱりわからないんです。
どう考えても僕は僕だし、僕以外は僕以外だし」
うん。じゃあ聞くけどね。お前はどこからどこまでが「自分」だと思っている?
え?
だからさ、お前が「僕」って言うときの、「僕」と「僕以外」の間にある境界線だよ。
自分を分けているボーダーはどこにある?
「境界線か…。そう言われると、ちゃんと考えたことはないなぁ…」
仮にね、1本の木を思い浮かべてみなよ。
その木は、どこからどこまでが「木」なのかな。
「木」と「木以外」を分ける境界線はどこにあるのかな。
お前の何倍もの大きさで雄大にそびえ立つ、そんな大きな木も、
時を、ず〜っと、ず〜っとさかのぼると、たった1粒の小さな「種」だったはずだ。
『となりのトトロ』のワンシーンじゃあるまいし、
ある晩突然「にょきにょき〜っ」って現れたとなんてことは考えられないよね。
種が土に埋まり、そこに雨や暖かな日差しが降り注ぎ、やがて「芽」が出る。
その「芽」が育ち、「苗」となり、「苗」はさらにすくすくと成長して、「木」になった。
この当たり前のことさえも、よくよく考えると、とても不思議な現象だとは思わないか。
だって、元の種を割り、中をのぞいてみても、そこには「幹」も「枝」も「葉」もないんだぞ。
もともとなかったモノが、いま「ある」んだ。
「幹」も「枝」も「葉」ももっていなかった小さな種が、
いつの間にか、大きな大きな「巨木」に変化を遂げた。
でも、その「巨木」が「巨木」になるためには、「種だけ」では、無理だったんだ。
そこに、「土」や「その土を豊かにする微生物」、「水」、「空気」、「日光」などの、
「種」の以外の要素があったからこそ、「種」は「木」となることができたんだよ。
「種」+「土」+「微生物」+「水」+「空気」+「日光」+「etc」= 「木」
ほら、こうなるともう、どこからどこまでが「木」として独立しているかわからないだろう。
その中の何か1つご欠けても、その木にはなりえないんだよ。
そしてさ、その木についている1枚の葉を考えてごらん。
あるときは「木」の1部としてとらえられていた葉も、枝から離れたとたん、人間にとって「落ち葉」って名前を変えられるんだ。
さらにその「落ち葉」が腐敗すると「腐葉土」と呼ばれる。
今度はいつの間にか「植物」から「土」だ。
その名称や定義は、人間が勝手につくり上げたものだろう。
「境界線」は、いつだって人間の頭の中、「リアル」ではなく「イマジネーションの世界」の中にしかないんだ。
「境界線」が「境界線」として実在してるわけじゃないんだよ。
「本当だね… 」
だろう?
「木」を「人間」に置き換えても同じことなんだよ。
お前の体は、何でできている?
「えーと…、たしかアミノ酸と、タンパク質と… 」
いやいや、私が言いたいのはそういうことじゃないんだよ。
いいかい?
おまえの体は、おまがこれまでに食べたり飲んだりしてきたものででき上がっているんだ。
そうだろう?
「あぁ、そういうこと!」
そういうことだよ。
だからね、おまえは、どうやって「何か」と切り分けた「自分」を定義できると思っているんだよってことだよ、私が言いたいのは。
できないだろう。
「ここからここまでが僕です」だなんて。
たとえば、「自分」と「水」という区分けは、
おまえがその水を飲んでしまった時点でわからなくなってしまうじゃないか。
だって人間の体の70%は水だもんな。
人体を原子レベルで見てみれば、
構成要素は、酸素・炭素・水素・窒素・カリウム・リンなど。
そのうち酸素は全体の6割以上となるが、
では空気中にある酸素と、人体内の酸素の境界線はどこにあるというのだろう。
どこからが「空気」でどこまでが「人体」と切り分けられるだろう。
肺の中にある酸素は「空気」か「人体」か、血中にある酸素は?
「名前」ってのはな、あくまで「状態」を指し示す記号なんだ。
「固定された何か」「独立した何か」なんてもともと存在しないんだよ。
すべてはつながっている。
たった一つの同じエネルギーが、たえず形・状態を変えて生きつづけているんだ。
「う〜ん… .。
とはいっても、やっぱり僕が他人とつながっている1つのものとは思えない。
もし佐藤さんが僕だと言うなら、僕は自分の手を動かすのと同じように、佐藤さんを動かせることになる。
でも、催眠術でもかけない限り、僕は佐藤さんのことを思い通りにコントロールすることなんてできないもん。
ほら、やっぱり僕と佐藤さんは別物だよ」
あはははは!
「何がおかしいのさ!」
だっておかしいだろう。
思い通りにコントロールできないから自分ではない、というのなら、おまえは自分じゃなくなってしまうじゃないか。
「?」
おまえは、自分自身のことを思い通りにコントロールできているとでも思っているのかい?
絵を描こうとしたときに、本当に思い通りに手が動いているかい?
ダンスを踊ろうとしたとき、本当に思い通りに体が動いているかい?
体の老化現象を、自分の意志で止めることができるかい?
呼吸を、血流を、鼓動を、消化を、新陳代謝を、思考を、感情を、
常時自分の意志でコントロールしているのかい?
まさか、まさか。
むしろ、そのほとんどが無自覚のうちに行われているか、
自分の思い通りにならずに苦しんでいるのがおまえの状況じゃないか。
他人のコントロールどころか、
自分のコントロールすらできないのに、思い通りにコントロールできないから僕じゃない、という理屈は成り立たないだろう。
「でも、でもさぁ、やっぱり自分を自覚する "主観" が確実にあるよ。
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、これだけの数だけ "僕" と "僕以外" の存在をしっかり感じる要素があるのだから… 」
その「主観」こそが錯覚の始まりなんだよ。
五感で感じられるものがすべてじゃない。
人間の認識能力は実に不完全なものなんだ。
さて、どうやって説明しようかな… .。
よし、説明してあげるから風呂に入ろう。
「え? 風呂?」
いいから、いいから。
さぁ、湯船につかって。
…よし、じゃあ湯船の中から、手の指だけを出してくれ。
多くの人間は、「自分」に対して「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が
独立して存在してると思っている。
たとえるなら、「自分」は右手の人差し指で、「Aさん」は左手の薬指で、「Bさん」は左手の親指といったぐあい。
もともとは「人体」という、1つの大きな存在であるにもかかわらず、
「右手人差し指」「左手薬指」「左手親指」が独立して存在していると勘違いしている状態なんだ。
なぜそういった勘違いが生まれてしまってるかというと、
認識能力の限界によって、それぞれの「つながり」をとらえることができていないから。
「水上」が人間で五感で認識できる領域で、
「水中」がその認識能力を超えた領域だ。
本当はつながりを持っているにもかかわらず、
自分の認識能力において水中がどうなっているかを把握できない状態では、
水の外に出ているいる「指」は、まるで独立して存在しているかのように感じてしまう。
そこから生まれた
「認識できない=つながりがない」
というこの考えが間違いの発端になっている。
「私という独立した存在がある」というこの錯覚・思い込みは、
仏教では「有身見(うしんけん)」という言葉で説明されていてね、
煩悩の1つなんだ。
この「自」と「他」を分離する壁がなくなる状態、
つまり、自我が消えた状態のことを「無我」と言う。
「無我」は読んで字のごとく「我が無い」という意味だが、
それは「存在が消滅する」ということではない。
「自他を分ける壁がなくなり、あらゆる存在と1つとなり、
"私" という独立した概念がなくなる」ということなんだ。
「存在」は「存在」としてありつづける。
「世界にはたくさんの命がある」という勘違い・思い込みは、
人間が長きにわたってはまっている呪縛だ。
多くの人間には、鈴木さんの命、佐藤さんの命、犬の命、虫の命、植物の命…、
そうやって、無数の命が存在してると思っている。
でも本当はそうじゃない。
おまえの体の細胞が、日々変化しつづけているのと同じことだよ。
伸びた爪を切っても、命はなくならない。
髪を切っても「あぁ、自分は死んだ!」とはならないだろう。
髪を切っても、おまえはおまえとして生き続けている。
髪の命、爪の命、内臓の命、心臓の命、脳の命、と分けて存在してるわけじゃない。
爪を生かしているのも、髪を生かしているのも、
内臓いい顔してるのも、心臓を生かしているのも、
脳を生かしているのも、
たった1つの同じ命だ。
それと同じように、
おまえを動かしているのも、佐藤さんを動かしているのも、
鈴木さんを動かしているのも、動植物を動かしているのも、
地球を動かしているのも、太陽を動かしているのも、
壮大な宇宙全体を動かしてるのも、
同じ命だ。
命は、たった1つしかないんだよ。
そして、その命、生命そのものが、おまえの本来の姿なんだ。
自分が、自分の命を所有してるわけじゃない。
"命が自分" なんだよ。
だから、おまえを生きている命と、私を生きている命は、1つの同じもの。
私が「私はおまえだよ」だとか、「すべてがおまえだよ」って言うのは、そういうことなんだ。
(「あの世に聞いた、この世の仕組み」雲黒斎さんより)