hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
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天地とまじわる

2017-03-27 11:31:52 | お話
🌍🌎天地とまじわる🌏🌎


「ああ、天地は至って大きく、万物は至って衆(おお)い。

而(しか)して人間は万物の中の1つとして天地間に存在しており、

その形はと言えば、天地に比して極めて微小である。

天地未生(みしょう)の時(創造以前)より、

時節が至って天地の滅却する後(既壊の時=終末)まで、

天地の前を見、天地の終わりを察してみれば、天地は実に広大であって究極がない。

而して、人間は(最大限で)100年の齢(よわい)を保って天地と生命を共にしている。

しかし、たとえ100年の寿命を保つにしところで、

長い天地の時に比べれば何程でもない寸刻の時間である。


しかしながら、たとえその形が小であっても、

天地に参(まじ)わって存在しているものがある。

たとえ時間においては、しばしばであるとしても、

至広至大の天地の無窮と相終始するものがあって存在している。

たとえば、孔子や孟子のごとく、伯夷(はくい)や叔斉(しゅくせい)のごとく、

世界の存在する限り、

その教訓が遺り、万世の末まで人道の手本をとどめてさえおけば、

たとえ体は数千年の昔に死んでしまっても、

その心は、数千年の後までなお生きている。

これを天地と共に参(まじわ)るといい、

天地と相終始する者があって存在しているというのである」


(浅見絅斎(けいさい))

人の承認欲求

2017-03-26 15:01:42 | お話
🌸🌸人の承認🍀欲求🌸🌸


僕は昔から「人はどうすれば幸せになれるのか」を考えていました。

なぜ生きて、なぜ死ぬのか。

死ぬのに、なぜ生きている間に大変な思いをしなくてはいけないのか。

そんな疑問を持っていました。

僕自身は両親にも恵まれていましたし、別に不幸な境遇でもありませんでした。

でも何となく、「今を生きている」という充実感がなかったように思います。

20代の時、僕はバックパッカーとして世界を旅しました。

はじめにタイやカンボジアに行きました。

その時の旅があまりにも楽しくて、初めて「生きている」という実感を得られたのです。

日本に帰国してから、またお金を貯め、今度は友達3人でインドへ行くことにしました。

上海までの片道切符だけ買って、後は無計画での旅でした。

上海からラオスという国へと向かっていた時のことです。

ラオスに入ろうとする国境近くで、友達の1人が亡くなってしまったのです。

それは観光客がいないような田舎のことでした。

調子が悪くなった友人を町医者に連れていって点滴をしてもらったのですが、

良くならなかったので近くの大きな病院まで何時間もかけて行きました。

それでも間に合わず、息を引き取りました。


その時、僕は自分がいかに無力かを痛感しました。

本当に何もしてあげることができなかったのです。

そして、

「人って、本当に死ぬんだ。

人って、生きているのが当たり前じゃないんだ」

ということを初めて実感したのです。

その友達はほんとにいい人でした。

少し言葉が悪いですが、僕はその時、

「なんで世の中にはもっと悪い人がたくさんいるのに、

友達が若くしてこの世を去らなくてはいけないのか」

と思ったのです。

そこから僕は

「人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか」

「どうすれば幸せになれるのか」

といったことを、ずっと考え続けていくことになりました。


それを考えていく中で気づいたのは、

「自分らしく生きる」

ということでした。

それは、都合のいい自分だけを認めるのではなく、

悪い自分も認めるということです。

しかし、この

「悪い自分」「マイナスの自分」

を、私たちは無意識のうちに抑えつけている場合が多いのです。

たとえば、僕は4人兄弟で、姉に次いで2番目に生まれた長男でした。

親も悪気はなかったと思うのですが、

「お兄ちゃんだからできるよね」

と当たり前のように言われてきました。


今でも覚えています。

幼稚園で予防接種があったんです。

その時、必ず先生に

「けんちゃん、先頭に来てくれる?」

と呼ばれるのです。

そしてこう言われます。

「最初の子が泣くと、後ろのみんなが泣いちゃうから。

けんちゃんなら大丈夫だよね」

と。

先生は僕が「1番泣かない子」に見えたのでしょう。

でも内心は全然違いました。

ホントはドキドキして怖かったのです。

でも平気なふりをして泣かずに注射を受けられる子供でした。

僕は「怖いと思う自分」に気づかないように、心の奥のほうに閉じ込めていたんですね。


そもそも、僕たちはいつから「自分らしさ」を失ってしまったのでしょう。

実は、僕たちも純粋に自分らしく生きていた時期がありました。

それは、赤ちゃんの時です。

「こんなに泣いたら、お母さんを困らせるかもしれないから泣き止まないと」

なんて考えたことはなかったはずです。

僕たちは成長する過程で、いろんな思い込みを刷り込まれていきます。

「こうしなきゃいけない」
とか

「こうすることが正しいんだ」

と思うようになっていくのです。

もともとの、まっさらの状態でずっと過ごせたらいいのに、

そんな「思い込み」や「こだわり」で頭の中をいっぱいにして大人になっていくわけですね。

ところが大人になってから、

「注射が怖くて泣いたら嫌われるかもしれない」

とか

「本当の自分を出したら周りの人から評価されないんじゃないか」

というのは「思い込み」だったと気づいていきます。


つまり、わざわざ身につけたその「思い込み」や「こだわり」を、

今度は、手放していく作業をしていくのです。


もし「魂」というものがあるとしたら、

僕は「思い込み」や「こだわり」を手放す過程で、

自分たちの「魂」は成長していくのではないかと考えています。

一度身につけたものを手放すというめんどくさいことをしているのは、

"魂の成長" のためなのではないか、と。

そう考えると、

「なんで僕たちがこの世に誕生して、つらいことを経験しなければいけないのか」

という疑問も、何となく分かりそうな気がするのです。


では、なぜ僕たちは、あるがままの自分を認めることが苦手なのでしょうか?

もちろん自分を認められる人もいますが、

「こんな自分なんて」

と思っている人も少なからずいらっしゃるでしょう。

この「自分を認めて欲しい」ということを「承認欲求」といいます。

私たちは三つ承認欲求があるといわれています。

1つ目が存在そのものを承認してほしい
「Be(存在そのもの)の承認欲求」。

次に行動や行為を認めて欲しい「Do(行動)の承認欲求」。

そして、

結果や成果を認めてほしい
「Have(成果)の承認欲求」

があります。

ただ、僕たちは小さい頃から後者の2つばかりで評価されてきました。

たとえば、お手伝いをシッターから褒められる、
勉強したから褒められる、

これは行動を承認していますよね。

そして、いい大学に入って、いい会社に入って、いい結果を残した、

とか、

社会的地位を得た、というのは「成果の承認」になります。

ところが、肝心の最初の「存在そのものの承認」は認めてもらう機会が少ないので、

なかなか感じられないまま大人になっている人が多いのです。

勉強ができてもできなくても、

健康であっても病気であっても、

「私」という人間そのものの存在価値が変わるわけではありません。

「あなたは、どんなあなたでも素晴らしいんだよ」

「どんなあなたでも、生きている価値があるんだよ」

と、存在そのものを承認することが、本当は大事なのです。


(「みやざき中央新聞」心理カウンセラー・心理療法家、則武さんより)

「たましい」の意味

2017-03-25 13:11:04 | お話
🍀🍀「たましい」の意味🍀🍀


「魂」という字を現在では「たましい」と読みますが、

本来は「たま」。

「たま」と「たましい」は別の言葉です。

「たま(魂、霊)」が「しい」の状態にあるのが「たましい」で、

人間本来の魂(心)を表す言葉は「たま」です。

盲(めいし=目+しい)は、目の見えない人のことです。

つまり、「しい」という言葉の意味は、

「器官があっても機能を発揮できない状態」

ということです。


では、「たま(心)」の機能とは何でしょう。

それは

「肉体のコントロール」です。

日本人の感覚では、本来心(魂)と肉体はバラバラではなく、1つなのです。

だから、心が肉体から離れた状態は「しい」なのです。

それで日本人は、「たま」が肉体から離れていかないように、

神事を通して、さまざまな鎮魂の行事をしてきました。


その「たま」の出所について、

そこを日本人は「神」と考えました。

だから
「たまは、直接、神様に通じる」
と信じました。

例えば、明治天皇が、

「目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり」

「目に見えぬ 神の心に 通うこそ 人の心の まことなりけれ」

と詠みましたが、

これらは、違和感なく、私たちの心にストンと落ちてきます。


そして日本人は、どんなにとんでもない悪人が悪態をついても、

「ところで、それはお前の本心か?」

と尋ねたくなります。

それは日本人が、

「人間の本心は神に通じる清いもの」

という前提に立っているからです。

これも日本人特有の感覚の一つです。


親・先祖からは肉体をいただき、神様からは「魂(たま)」をいただいて

人はこの世に生まれます。

だから昔の人は、子供を
「授かり物」とか「賜り物」
と呼んだのです。


人類は、iPS細胞やクローンなど、生命倫理に関わるさまざまな技術を獲得しています。

しかし、どんなに最高の知識を集め、最高の技術を準備し、最大の資金を投下しても、

人を1からつくり出すことはできません。

お米も、「工場で1からつくり出した」という話は聞いたことがありません。

お天道様のもと、まず、自然の恵みというものがあって、

そこに人間の知恵や努力が合わさることでつくり出しているのです。

我々は、食事をいただくとき、

「いただきます」と言います。

これは

「賜り物をいただきます」

という、天地自然への感謝の言葉です。

食べ終わって

「ごちそうさま」と言います。

この「さま」は人様の「さま」ですから、

人に対する感謝の言葉です。


食材を生産してくださった方、

流通に乗せてくださった方、

料理してくださった方、

そして、美味しくいただける身体をくださった親・先祖に対する感謝なのです。


(「みやざき中央新聞」新潟燕市鎮座戸隠神社 禰宜 渡邉さんより)

宝塚ぶす25カ条

2017-03-24 20:42:55 | 
宝塚 ぶす 25カ条

・笑顔がない
・お礼を言わない
・おいしいと言わない
・目が輝いていない
・精気がない

・いつも口がへの字の形をしている
・自信がない
・希望や信念がない
・自分がブスであることをしらない
・声が小さくイジケている

・自分が最も正しいと信じている
・グチをこぼす
・他人をうらむ
・責任転嫁がうまい
・いつも周囲が悪いと思っている

・他人を嫉妬する
・他人につくさない
・他人を信じない
・謙虚さがなくゴウマンである
・人のアドバイスや忠告を受け入れない

・なんでもないことにキズつく
・悲観的に物事を考える
・問題意識を持っていない
・存在自体が周囲を暗くする
・人生においても仕事においても意欲がない

以上らしい。

わかるような気がする。

男も気をつけよう。(^_^)

今日のおやつ

2017-03-24 17:13:14 | 日記
今日のおやつ。

平井さん作の「バナナケーキ」と、リスのシッポさんの「クグロフ(パイナップルのケーキ)」

今日はこんな感じで、。

夜に、ヤマザキデイリーで、
「福井UMe-Naプリン」

濃厚な味わいです。