2週間ぶりに伊勢本街道の歩き・榛原駅から高井まで約5キロを歩いておくことにした。
その先は伊勢本街道の難所・山中の峠越えとなり、二人だけの歩きにちょっと不安を感じるのでツアーを利用することにしたのである。
前回観光案内所で頂いていた地図の小冊子『伊勢本街道の最大の難所 大和高原「うだの難所をいく」』がなかなか解りやすくて有難い!
6月15日(金)
榛原駅を出たのは10時40分、今日はR369号線を歩くことになる。先ずは墨坂神社(すみさかじんじゃ)に立ち寄った。
兎田川(宇陀川)に架かる朱色の長い橋を渡ると神社に通じている。神社は朱と白の広がる神社で、第10代崇神天皇(すじんてんのう)にゆかりがあるようである。案内板の文字が消えかけて読み取り難かったが、かろうじて読めた一部分をメモっておこう。
日本書紀によれば、崇神天皇の御代春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩ま
れた時、或夜御夢に神人が現われて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀れ・・・」とのお告げにより
御勅祭されたところ、たちどころに疫病は平癒し、もとの天下泰平となったと記されている。
本殿右手には金毘羅社など複数の神様が祀られていたし、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)や龍王宮や祓戸社(はらえどしゃ)といろいろあった。柿本人麻呂の歌碑もあったが、私には読めなかった・・・
いろいろ在ってあまり良く解らないまま大きな朱の鳥居をいくつかくぐって再びR369号に出た。
(画像はクリックすると拡大する)
しばらく行くと、弘法大師の岩清水があった。
100円の自販機が設置されていて気分を損ねてしまった。弘法大師は100円なんて要求されないよ。お商売に大師の御名を使っちゃいけないよ、と言いたかった。
冷めた気分で歩いていたが、川岸に「鮎解禁7月1日より」の看板を読み気分転換できた。ふと見ると続いているはずの1本の川なのに何処からか水の流れが逆になっていた!?。川岸の草取りをされていた方に「この川で鮎が捕れるんですね!」と話かけると話題がはずみ、兎田川と内牧川の水の流れの疑問も解決した。
それから先ほど見た船尾垣内(ふなおがいと)の道標であるが、奈良県下で最も古い花崗岩製の道標で、風化した文字は皆目見えなかったけれど、「右いせみち 寛文四年(一六六四) 梵字(阿弥陀三尊)奉供養巡礼同行十二人 左やまみち 十月十五日」と刻まれているそうだ。そして実はこの道標、今は定位置に落ち着いたそうだが、昔はあちらに放置されこちらに放置されしていたそうな。お花がきちんと添えられているのはこの方の手によるらしい。
蛍の話になると「昨日も見ましたよ。」と。そうか・・・この辺は空気も水もきれいで人の心もきれいなんだと思った。他にもいろいろ楽しい話をありがとうございました。
道路右手に「庚申石・山の神」が祀られていた。それから10分ほど歩くと御井神社(みいじんじゃ)に来た。境内のお掃除が行き届き、気持ちのいいきれいな神社であった。境内隅の案内板に天然記念物“ツルマンリョウ”が自生していると書いていたので、いったい普通の“マンリョウ”とどう違うのか?と裏山の入り口にあるマンリョウを見て、お見かけした地元の方にも尋ねたが「知らないねぇ・・・解らないなぁ」と。。。。。
今日もおにぎりとお菓子でお腹を満し、残すは高井のバス停まで後2キロ。時計を見ると12時半、高井で午後1時42分の榛原駅行バスに乗りたかった。
「弘法大師爪書き不動尊」の立札があった。当然の事ながら磨崖仏の線は全く見分けることは出来なかったが、地域の人々の信仰は続いているようである。
また左の方にある小さなお堂は往時の参詣人やお伊勢参りや大峯山参りの旅人のお茶接待所だったようで今でも地元では「茶所」と呼んでいるそうである。
あちらこちらに“お伊勢参り”が盛んだった頃を想わせる所があって思うに、私の歩きは伊勢神宮に到着しても“お伊勢参り”本来の意図とは外れているのを再認識する次第。歩いた人達の道を歩くことを楽しんで、健康歩きの一手段なんだよなぁ。まっいいか・・・・・歩を進めよう。
途中民家の方と話す機会があって「もうすぐ街道は山の中に入るのですけど、この季節なので蛇に気を付けてくださいね。」と教えられ、ギョッ!とした。出会わないようにと祈りながら、彼は枯れた木の枝を拾って地面を叩きながら歩いてくれた。短い距離であったが再び国道に出るまでは冷や冷やしながら歩いたよ。
2方に別れる地点で仏隆寺方面と同じ左手に行くと高井のバス停があった。
左の写真はバス停の横、次の石割峠へはここから入って行くのだと納得してバスを待つことしばし、無事乗ることが出来た。
5キロと思えば5キロ、10キロの覚悟で歩けば10キロ覚悟の歩きである。歩き終えた後ホッとして感じる疲れは同じで、今日も10キロ歩いた日と同じ程の疲れを感じた。彼はそんなはずはないと言うけれど。。。。。(笑)
その先は伊勢本街道の難所・山中の峠越えとなり、二人だけの歩きにちょっと不安を感じるのでツアーを利用することにしたのである。
前回観光案内所で頂いていた地図の小冊子『伊勢本街道の最大の難所 大和高原「うだの難所をいく」』がなかなか解りやすくて有難い!
6月15日(金)
榛原駅を出たのは10時40分、今日はR369号線を歩くことになる。先ずは墨坂神社(すみさかじんじゃ)に立ち寄った。
兎田川(宇陀川)に架かる朱色の長い橋を渡ると神社に通じている。神社は朱と白の広がる神社で、第10代崇神天皇(すじんてんのう)にゆかりがあるようである。案内板の文字が消えかけて読み取り難かったが、かろうじて読めた一部分をメモっておこう。
日本書紀によれば、崇神天皇の御代春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩ま
れた時、或夜御夢に神人が現われて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀れ・・・」とのお告げにより
御勅祭されたところ、たちどころに疫病は平癒し、もとの天下泰平となったと記されている。
本殿右手には金毘羅社など複数の神様が祀られていたし、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)や龍王宮や祓戸社(はらえどしゃ)といろいろあった。柿本人麻呂の歌碑もあったが、私には読めなかった・・・
いろいろ在ってあまり良く解らないまま大きな朱の鳥居をいくつかくぐって再びR369号に出た。
(画像はクリックすると拡大する)
しばらく行くと、弘法大師の岩清水があった。
100円の自販機が設置されていて気分を損ねてしまった。弘法大師は100円なんて要求されないよ。お商売に大師の御名を使っちゃいけないよ、と言いたかった。
冷めた気分で歩いていたが、川岸に「鮎解禁7月1日より」の看板を読み気分転換できた。ふと見ると続いているはずの1本の川なのに何処からか水の流れが逆になっていた!?。川岸の草取りをされていた方に「この川で鮎が捕れるんですね!」と話かけると話題がはずみ、兎田川と内牧川の水の流れの疑問も解決した。
それから先ほど見た船尾垣内(ふなおがいと)の道標であるが、奈良県下で最も古い花崗岩製の道標で、風化した文字は皆目見えなかったけれど、「右いせみち 寛文四年(一六六四) 梵字(阿弥陀三尊)奉供養巡礼同行十二人 左やまみち 十月十五日」と刻まれているそうだ。そして実はこの道標、今は定位置に落ち着いたそうだが、昔はあちらに放置されこちらに放置されしていたそうな。お花がきちんと添えられているのはこの方の手によるらしい。
蛍の話になると「昨日も見ましたよ。」と。そうか・・・この辺は空気も水もきれいで人の心もきれいなんだと思った。他にもいろいろ楽しい話をありがとうございました。
道路右手に「庚申石・山の神」が祀られていた。それから10分ほど歩くと御井神社(みいじんじゃ)に来た。境内のお掃除が行き届き、気持ちのいいきれいな神社であった。境内隅の案内板に天然記念物“ツルマンリョウ”が自生していると書いていたので、いったい普通の“マンリョウ”とどう違うのか?と裏山の入り口にあるマンリョウを見て、お見かけした地元の方にも尋ねたが「知らないねぇ・・・解らないなぁ」と。。。。。
今日もおにぎりとお菓子でお腹を満し、残すは高井のバス停まで後2キロ。時計を見ると12時半、高井で午後1時42分の榛原駅行バスに乗りたかった。
「弘法大師爪書き不動尊」の立札があった。当然の事ながら磨崖仏の線は全く見分けることは出来なかったが、地域の人々の信仰は続いているようである。
また左の方にある小さなお堂は往時の参詣人やお伊勢参りや大峯山参りの旅人のお茶接待所だったようで今でも地元では「茶所」と呼んでいるそうである。
あちらこちらに“お伊勢参り”が盛んだった頃を想わせる所があって思うに、私の歩きは伊勢神宮に到着しても“お伊勢参り”本来の意図とは外れているのを再認識する次第。歩いた人達の道を歩くことを楽しんで、健康歩きの一手段なんだよなぁ。まっいいか・・・・・歩を進めよう。
途中民家の方と話す機会があって「もうすぐ街道は山の中に入るのですけど、この季節なので蛇に気を付けてくださいね。」と教えられ、ギョッ!とした。出会わないようにと祈りながら、彼は枯れた木の枝を拾って地面を叩きながら歩いてくれた。短い距離であったが再び国道に出るまでは冷や冷やしながら歩いたよ。
2方に別れる地点で仏隆寺方面と同じ左手に行くと高井のバス停があった。
左の写真はバス停の横、次の石割峠へはここから入って行くのだと納得してバスを待つことしばし、無事乗ることが出来た。
5キロと思えば5キロ、10キロの覚悟で歩けば10キロ覚悟の歩きである。歩き終えた後ホッとして感じる疲れは同じで、今日も10キロ歩いた日と同じ程の疲れを感じた。彼はそんなはずはないと言うけれど。。。。。(笑)