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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

片山津温泉

2019-12-28 | 日記
今年最後の温泉旅行、12月16日~19日片山津温泉に行っていた。帰ってから何やかや師走の雑用に追われ日記を書けず日を過ごしてしまった。このまま行くと年を越してしまいそうで、さすが今日こそはとブログページを開く。どこまで思い出せるかちょっと心配だが、兎に角書こう。
そうそう鶴の子干し柿が完成、お正月を待っている。

今回もいつもと同様サンダーバードで加賀温泉駅へ、宿のお迎えバスで八汐旅館に着く。ベランダのすぐ目の前に柴山潟(しばやまがた)が広がり、潟の中から噴水が上がり、後方には雪を頂いた白山連峰が見えた。景色最高!ズームアップしておこう。水鳥が無数に群がっていて渡り鳥だと聞いたが、私には鴨と雁の違いがよく判からないなぁ~.。

     (画像はクリックすると拡大する)

彼の希望で「雪の科学館」に行った。世界で初めて人工的に雪の結晶を作った明治時代の科学者、中谷宇吉郎(なかやうきちろう)の業績が紹介されている。彼は氏の名前を小学校の教科書にあったのを覚えていると言うのである。ホントかな?と思いながら入館した。
片山津出身の中谷氏は十勝岳で天然雪の研究を行い、大学の低温室で人工雪の研究に取り組み、アメリカやグリーンランド、南極へと世界各地に研究を広げていったそうである。「雪は天から送られた手紙である。」と言い残したという宇吉郎の”ひととなり”をビデオで見た。
館内は実に美しい雪の結晶の様々な写真が展示されていた。フイルムの無い時代の話なので更に驚く。

「氷のペンダントを作りませんか?」と声をかけられ、びっくりした。金属の型に氷を挟むと一瞬にして可愛いペンダントの出来上がり!人工霧が舞う中庭の石の原に出て写真を撮った。真っ白い雪が輝く白山連峰が眺望出来た。
雪の華には色んな形があることを学び、氷のペンダント作りを楽しみ、宇吉郎の名は確かに教科書に載っていたのを確認し、気持ちスッキリ館を後にした。

        

  12月17日(火)
今回の旅は3泊4日と長めに日を設定したのは、前回の山代温泉で未練を残した古総湯と「あいうえお小径」にも行きたかったからである。(笑)
キャンバス利用で今日は山代へ行く。朝早めに宿を出て愛染寺(薬師瑠璃光如来を祀る)に立ち寄ってから、バス停に向かった。

山代古総湯でバスを降りると、景色は変わっていた。道路の灯籠はすべて菰で包まれ立木には雪釣りの縄が施され、冬の準備が整っていたのである。
ふぅ~ん・・・北国の冬を想像した。
午前11時7分、薬王院温泉寺の山門をくぐった。紅葉は散り境内は緑一色で一ケ月前の華やかさはなく、この時間帯にお参りの人もなく静かだった。

鐘を撞かせていただいてから「あいうえお小径」をゆっくり踏み出した。傍らに「萬松園 四国八十八ケ所加賀霊場」の一番霊山寺石仏が置かれていた。そして明覚上人の供養塔を過ぎると枯葉が積もる道は展望台「萬松園さざえ堂」まで続いていた。
奇妙な形の建物、展望台の最上階まで登ると加賀市街や白山連峰それに遠く太平洋まで360度見渡すことが出来た。風がヒュウヒュウ少々寒かったが、先月の宿であった加賀百万石ホテルの看板も読めて楽しめた。

            

霊場八十八番目大窪寺の仏様・薬師如来に手を合わせると、歩き遍路のお先達さんのお顔やその時の仲間の顔が次々と思い浮かんで、何かしら嬉しくなり小さな達成感を覚えた。
山を下りて空腹で湯に入るのも危険だし満腹も良くないしと思案していると、古総湯の近くに寿司店が見つかった。目の前で握ってすだれの容器に入れて差し出して下さりお腹は軽く満たされた。山代の昔話も聞かせて下さり心が和んだ。又、近くのお店でお気に入りの九谷ぐい飲みも見つかり思い出大満足。
  
先ずは総湯に浸かり次は古総湯へと”はしご湯”をする。こんなのする人はあまり居ないよな。でも、壁に九谷のレンガがどのようにはめ込まれているのかを是非見たかった私はしたよ。(笑)
熱めのお湯で浸かるのみの古総湯の方は特に周りの九谷タイルとステンドグラスがとてもきれいで印象的だった。2Fで少々休憩する時間もとれて良かった。双方の総湯は沢山の人で賑わっていた。毎日入れたらきっと美人になれるかも。。。。。

  12月18日(水)
勝手気ままな旅、さて、今日は何処へ行こうかな・・・と迷った。片山津観光のなかで橋立港市場や北前船の船主邸見学にも興味はあったが、私は大聖寺川流し舟のこたつ舟が一番に望むところであった。ところが、舟は4月から10月の間だけの営業らしく叶わなかった。近江八幡で乗ったこたつ舟の思い出が、私にそれを期待させていたのである。

無いもの強請りは止めて気持ちは永平寺に飛んだ。一日一往復、片道1000円の直行「永平寺おでかけ号」があったのだ。山代温泉・山中温泉を通って福井県に行くので、わざわざ石川県片山津からではちょっと下手な移動であったが、決めた。(所要時間1時間30分)
紅白歌合戦の後に始まる、ゆく年くる年の風物詩・除夜の鐘を思い出し、曹洞宗大本山永平寺の鐘を見たくなったのである。

永平寺は道元禅師が1244年に開いた座禅の修行道場であるらしい。今から775年前なんだよな。小雨に濡れた苔生す境内への入り口・龍門に立っただけで心が引き締まった。生い茂る大樹の緑の隙間から太陽の光が差し込む様は私の緊張感をいっそう深めた。

通用門から入る。135畳敷の大広間・傘松閣(さんしょうかく)には230枚あると言う見事な天井絵に驚いた。
それから本堂で行われているお勤めに参列させていただき手を合わせた。重厚なお堂に響く読経の声にじっと耳を澄ませていると、自ずと在りし日の父母を思い出した。
回廊で結ばれた七堂伽藍{山門、仏殿、僧堂、大庫院(だいくり)、東司(とうす)、浴室、法堂(はっとう)}に圧倒されながら、廊下を左側通行で静かに歩く。山門下の回廊でしばし立ち止まり、仁王像を拝観する。否、仁王像ではなく四天王像であった。北方・多聞天王と東方・持国天王そして向かい側は南方・増長天王と西方・廣目天王であった。
写真撮影は雲水(修行僧)に直接カメラを向けない事を守れば、ノンフラシュで許されていた。
 
         
                         
          
長い長い廊下で少々疲れ、迷子になりそうな回廊を進んで行くと最後に3分間のミニ座禅体験が出来る観光用の一室があった。
「座禅のこころえ」にこう書いていた。
    坐蒲にはお尻を半分程のせ、脚はタタミにしっかりと安定させます。アゴを少しひいてから、右手の上に左手を重ね、親指同士をつけて、脚の上に置く。
    視線はタアミ半じょう先に落とすべし その上、おなかの中にある空気をゆっくりはく、すると空気が自然と入ってきます。又、くりかえすべし ゆっくり
    ゆっくりどうぞ。」
その通りにするとあら不思議、体が安定して痛くなかった。無にはなれなかったけれど気持ちの良い3分間であった。

鐘楼へは近づけない様になっていて、唐門が開けられるのは大晦日21時から翌日3時の間だけらしい。お勤めに参列させて頂けたのが有難い貴重な体験であったし、ミニ座禅も初体験できて、来て良かったと思えた。

片山津に戻ってから総湯に出かけた。全面ガラス張りのモダンな建物は世界的建築家と言われている人の設計によるらしい。
「潟の湯」と「森の湯」が男女日替わりになっていて、今日は女性が「森の湯」であった。潟は宿からでも散歩でも充分楽しんでいたので私は良かった。
2Fの「まちカフェ」は4時30分迄ということで1分遅れで入れなかった。

塩分を含む温泉の湯は湯冷めに強いので、ゆっくり歩いて温泉配湯所の前を通ってライトアップの浮御堂を見て宿に帰った。
下段左端の写真が温泉配湯所で、中に在る大きな丸いタンクからは湯気がもくもくと立ち昇っていた。浮御堂の中には弁天様が祀られていて、桟橋を伝って近寄ってみると神々しく照らされていた。
                   


  12月9日(木)
午前10時にチェックアウト。篠原古戦場を訪れてから、無事帰宅。
寿永2年(1183年)、源義仲(木曽義仲)が倶利伽羅の戦いで敗走した平家の老将、斉藤実盛の首を抱きかかえ涙する像を見て、敵味方を越えた人間の真心に心打たれた。
奥の細道で芭蕉が詠んだという句碑「むざんやな甲の下のきりぎりす」が有った。
 ☆倶利伽羅古戦場は、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(くりからとうげ)☆






















和歌山城

2019-12-15 | 日記
随分寒くなって庭の手入れを怠っていたが、ふと見ると鉢植えのキダチ・アロエに蕾が付いていた。育て始めて3年位かな初めての事でとても嬉しい。
別名「医者いらず」とか言って、”やけど”に重宝しているだけに鈍な私には一本だけは持っておきたい植物である。(笑)
こんな寒い時期に蕾をつけて何時頃咲くのかなぁ~。

昨日和歌山城(1968年に復元)の見学会があって、参加した。
頂いた資料に依ると、戦国時代、雑賀衆(さいがしゅう)という共同体が紀の川下流一帯にいて、普段は海運や農業、漁業に携わっていたが火縄銃などの武器をよく使いこなしていたので傭兵として活躍していたそうだ。
織田信長と大阪本願寺の間で起きた「石山合戦」で本願寺側を支援した雑賀に、信長は天正5年(1577年)攻め入り雑賀方の城を攻め落とした。いったん信長に降伏した雑賀であるが、その後も本願寺の軍勢に加わり、信長を苦しめ続けたとか。

時代が移り1585年(天正13年)、豊臣秀吉が紀州を平定し虎伏山(とらふす山)への築城を弟の秀長に命じたのが和歌山城の始まりで、秀長は家老の桑山重晴を城代として置き大和郡山城に移った。(築城の担当者は藤堂高虎)
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した浅野幸長(あさのよしなが)が紀州国を拝領し、城下町を整備したそうだ。
下の画像左から2番目は雑賀衆の城・大田城の瓦。右端は二の丸大奥跡で出土した鬼瓦で、「丸に三葉葵」は将軍家と御三家のみ使用できた紀州徳川家の家紋。
          (画像はクリックすると拡大する)

1619年(元和5年)徳川家康の10男頼信が入国して紀州国と伊勢国の一部を含む55万5千石の紀州藩が成立した。2年後江戸幕府より銀2000貫を賜り、和歌山城の改修に取りかかり、掘を埋め二の丸を西に拡張、砂の丸・南の丸を造成して徳川一門にふさわしい城としたそうだ。
尾張・水戸と共に「御三家」と呼ばれ、8代吉宗と14代家茂(いえもち)は紀州徳川家の出身らしい。

秀長創建当初の和歌山城大手門であった「岡口門」(国重文)や浅野幸長の時代に場所が変更され徳川の元和7年(1622年)に拡張された「一の橋大手門」の石垣も見学。後者は大きな六角形切込み剥ぎの石垣で、ちょっとビックリした。

        

護国神社前の松並木のある新裏坂の石垣には刻印の有る石が沢山(854 / 2110個)使われていて、見学に来た皆は見つけては童心にかえって喜んだ。(笑)
いったい誰が何の為にと思うが、学者さんの見解では浅野家が城主だった時代(1600~1619年)に修築された石垣にしか使われていないことから、浅野家の家臣が主家の城普請に協力した印として刻印したとされているとか。刻印のデザインは多種多様で40種以上(案内板に表示)も有り、材質は和泉砂岩に限られているそうだ。和歌山県友ケ島からの採石か?

      

築城の石切り場となった御作事所(おさくじしょ)跡では岩肌に楔を打ち込む為の矢穴がくっきりと残っていた。
石材として「紀州の青石」と呼ばれる結晶片岩「緑色片岩(りょくしょくへんがん)」が切り出され、天守閣や本丸周辺の石垣に用いられていて今も見る事が出来た。私は今まで花崗岩しか分からなかったが、今日一つ新しく覚えたよ。(笑)
歴史ある広大な和歌山城では、時代を違えて色々な積み方の石垣を見ることが出来る。孕んできて崩壊するのを防ぐ修復も大変だなぁ~。
              
  
楠門(くすのきもん)と呼ばれる天守二の門をくぐると小天守の入り口へ通じる白砂の道がある。和歌山城の天守閣は大天守と小天守が多門櫓(たもんやぐら)で繋がっていて、連立式天守と言うらしい。
風格ある白亜の3層大天守閣から眺めた紀の川の流れる市街の風景もなかなか良かった。

             

それから、二の丸と西の丸を結ぶ廊下橋『御橋廊下』(おはしろうか)は江戸時代藩主と側近だけが渡れる、屋根付きの外からは見えない構造で二の丸側から11度の角度で架けられていて、珍しい。(平成18年に復元)滑り止めに床板が鋸歯状に段差がつけられているので靴を脱いで渡るには足裏がとても痛かった。渡り切って紅葉渓庭園に出ると真っ盛りの紅葉に感動!和歌山の紅葉は少し遅いようだ。
そうそう藩主の隠居所であり、能楽や茶道それに自然の風流を楽しむ場所であった西の丸には大奥が在ったんだよな。

        

巨大な伏虎(ふっこ)像も在った。これは和歌山城の建つ山が海上から見ると虎の伏した姿に似ているので虎伏山と呼ばれ、城の別名「虎伏竹垣城」にちなんで昭和34年に作られたそうだ。現在のは2代目であり、初代の像は銅製だった故に第二次世界大戦中の金属回収令で失われたとか。


最後に「毬と殿様」の歌(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)を思い出したい。
「わかやま歴史館」の化粧室にこの歌が流れていた。そしてマンホールカードの絵柄が手毬である。実際のマンホールにも出合ったので物好きな私、撮ったよ。(笑)