季節はいよいよ秋になるのかな、涼しい。今朝、庭のトキワアケビの蔓にトンボを見つけた。ぐっすり眠っている様で物音を立てても動かない。胴の色は金色のような黄色のようなで、ちょっと珍しい。4枚の羽は透明だが胴体と同じ色の斑点が1つずつ有る。いったい何処から来たの?そして名前は何?
9月20日(木)
四天王寺で所用を済ませ、参道を地下鉄夕陽ケ丘駅に向かって行くと左手にある「虹の仏」でカレーを食べてみたいと思っていたが、お休みで残念だった。折あれば次回の楽しみにしよう。今日は「天王寺七坂」を歩いた。
(画像はクリックすると拡大する)
午後1時、天王寺区逢阪の「一心寺」(いっしんじ)で「天王寺七坂 スタンプラリー」の台紙(100円)を買ってスタート。七坂は天王寺界隈の上町台地の西側に在ってそれぞれに歴史ある坂だという。天王寺区上汐町で生まれた彼には思い出の地で、「あの向こう側が上汐町になるんだ。」と指差しながら一人で懐かしがっていた。(笑)
本日中に完歩したいので、沢山あるお寺の参拝は省略し坂を下って上がって下って上がっての繰り返しで制覇を、と考えた。
先ず国道25号線「一心寺」側を下る。
逢坂(おうさか)
昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。
へぇ~・・・国道になる迄も道幅はそれなりに広かったのかなぁ。逢坂の石標と説明板は公園北口交差点の歩道橋を渡り、松屋町筋を横切ってそのまま東へ50m程直進した所に有った。
←公園北口交差点の歩道橋から撮る。
天神坂(てんじんざか)
「安居(やすい)の天神さん」の名で親しまれている安居神社北側の坂
安居神社は真田幸村陣没の旧跡として、境内には銅像と石碑が建っている。銅像幸村の右手甲に刻まれている六文銭の家紋が印象的だった。元和元年(1615年)大阪夏の陣で境内にある一本松の下にて討死したらしい。年齢49歳だったとか。
又、本堂の南側境内すぐ下には七名泉の1つとされる「かんしづめ(癇静め)の井」と呼ばれる井戸があるが、現在は枯れていた。
それから、石段を上がった所に逆さ文字(異体字)が彫られた石柱が立っている。昭和の和の漢字の編と旁が入れ替わっているのである。魔除けになるらしい。へぇ~初めて知ったよ。
天神坂の途中には、当時の名水を飲み水にする水場の様子を再現した所があった。
ちなみに「天王寺七名水」とは「亀井の水」、「逢坂の清水」、「玉手(たまで)の水」、「安居の清水」、「増井(ますい)の清水」、「有栖(ありす)の清水」、「金龍(きんりゅう)の水」である。名水跡巡りも良いかもな。
清水坂(きよみずざか)
大阪星光学院の校地西に、昔、料亭浮瀬(うかせむ)があり芭蕉や蕪村も訪れたらしい。
清水寺の境内南側の崖から流れ落ちる水は「玉手の滝」と呼ばれ、知る人ぞ知る大阪唯一の天然の滝だそうだ。
清水寺北側の坂、私達は下って来たわけだが写真は下から撮ったのも投稿しておこう。
愛染坂(あいぜんざか)
石畳が特にが美しい坂で、坂を登りきった所に「大江神社」と「愛染さん」・愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)がある。かつて大阪湾が内陸へと食い込んでいた頃、この上町台地からは水平線に沈んでいく美しい夕陽を見る事が出来て、大江神社は夕陽の名所だったそうだ。
新古今和歌集の選者の一人、藤原家隆がこの辺りに「夕陽庵」という庵を結び、「契りあれば難波の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」と詠ったそうである。
一方、愛染堂勝鬘院にある市内最古(1594年)の重要文化財に指定されている多宝塔は工事中で見る事が出来なかった。良縁祈願の霊木「愛染かつらの木」なる樹齢100年の珍しい桂の木を見た。太い幹に確り巻き付いているのはノウゼンカズラとか。
ちなみに『愛染かつら』とは昔のラブストーリとして映画やテレビで繰り返し放映された、川口松太郎氏(第1回直木賞受賞作家)の小説の題名であるよな。
口縄坂(くちなわざか)
坂の下から眺めると道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付いたという。
私達は下るわけだが、織田作之助の文学碑「木の都」があり、その横に咲く芙蓉の花と目の前の緑にホッと癒され、、マンホールの蓋の絵(サクラと水流と大阪城)に「今、大阪に居るんだ。」と改めて認識した。途中で振り返って口縄(蛇)を確認した。(笑)
付近のお寺には江戸時代に活躍した著名な学者や文人達の墓や碑が沢山あるらしい。
源聖寺坂(げんしょうじざか)
口縄坂を下って北へ進み源聖寺坂登り口手前右に「新選組 大阪旅宿跡」の石標を見た。時代が幕末に一瞬タイムスリップした気持ち。
坂の登り口手前(南側)の金台寺でスタンプをもらったが北側に源聖寺が在った。坂を見上げると石畳の模様が変化に富んでいて面白い。勾配はやや急で途中で右にカーブしていて先が見えず いったい何処まで続くの?・・・と覚悟を決めて進んでいくと途中で石段の部分もあり、また石畳が続いていた。
途中、植木鉢の世話をしておられた方から、カラーの苗を頂いた。大切にして七坂巡りの思い出にしようと思う。
真言坂(しんごんざか)
生国魂(いくたま)神社の北側にあり、南北に走る短い坂で千日前通りに通じる。
かつて生国魂神社の周辺には真言宗の仏教寺院が十坊「生玉十坊」が栄えていたそうで、その六坊が神社の北側に在った事から名付けられたそうである。
スタンプは生国魂神社(本殿右側)で押すようになっていた。巫女さんから七坂完歩証をもらって最後の坂を締めくくる。
七坂歩きに掛かかった時間は3時間20分。標準の速さで歩けばそして長い休憩もしなければ2時間余りで完歩可能な散策だと思う。でも私の足にしてはよく頑張れたので、彼に感心してもらったよ。(笑)
歩きは終了したが折角の機会だったので、夕陽の名所で夕陽を見て帰ろうと決めた。「両彼岸の中日には四天王寺の石鳥居の真西に太陽が沈むのです。」とお坊様から聞いていたからである。
ちなみに西門の石鳥居は昔から西方極楽浄土の東門に当たると信じられ、この日に夕陽を拝して極楽浄土を観想する「日想観」(じっそうかん)という行事が行われてきたそうである。そう言えば、石鳥居の扁額(へんがく)に書かれている「釈迦如来 転法輪処 当極楽浄土 東門中心」は「四天王寺の西門は極楽浄土の東門である」を意味しているそうである。
彼岸中日の3日前であったが、夕陽に照らされた極楽門は素晴らしく綺麗に輝いて壮観だったし、私の影もグ~ンと伸びて随分背高になっていた。
心は達成感で満たされ二人は天王寺の居酒屋で乾杯!
今日は歩く事だけが目標であったが色いろ学び嬉しく楽しい日であった。 おつかれさま。
9月20日(木)
四天王寺で所用を済ませ、参道を地下鉄夕陽ケ丘駅に向かって行くと左手にある「虹の仏」でカレーを食べてみたいと思っていたが、お休みで残念だった。折あれば次回の楽しみにしよう。今日は「天王寺七坂」を歩いた。
(画像はクリックすると拡大する)
午後1時、天王寺区逢阪の「一心寺」(いっしんじ)で「天王寺七坂 スタンプラリー」の台紙(100円)を買ってスタート。七坂は天王寺界隈の上町台地の西側に在ってそれぞれに歴史ある坂だという。天王寺区上汐町で生まれた彼には思い出の地で、「あの向こう側が上汐町になるんだ。」と指差しながら一人で懐かしがっていた。(笑)
本日中に完歩したいので、沢山あるお寺の参拝は省略し坂を下って上がって下って上がっての繰り返しで制覇を、と考えた。
先ず国道25号線「一心寺」側を下る。
逢坂(おうさか)
昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。
へぇ~・・・国道になる迄も道幅はそれなりに広かったのかなぁ。逢坂の石標と説明板は公園北口交差点の歩道橋を渡り、松屋町筋を横切ってそのまま東へ50m程直進した所に有った。
←公園北口交差点の歩道橋から撮る。
天神坂(てんじんざか)
「安居(やすい)の天神さん」の名で親しまれている安居神社北側の坂
安居神社は真田幸村陣没の旧跡として、境内には銅像と石碑が建っている。銅像幸村の右手甲に刻まれている六文銭の家紋が印象的だった。元和元年(1615年)大阪夏の陣で境内にある一本松の下にて討死したらしい。年齢49歳だったとか。
又、本堂の南側境内すぐ下には七名泉の1つとされる「かんしづめ(癇静め)の井」と呼ばれる井戸があるが、現在は枯れていた。
それから、石段を上がった所に逆さ文字(異体字)が彫られた石柱が立っている。昭和の和の漢字の編と旁が入れ替わっているのである。魔除けになるらしい。へぇ~初めて知ったよ。
天神坂の途中には、当時の名水を飲み水にする水場の様子を再現した所があった。
ちなみに「天王寺七名水」とは「亀井の水」、「逢坂の清水」、「玉手(たまで)の水」、「安居の清水」、「増井(ますい)の清水」、「有栖(ありす)の清水」、「金龍(きんりゅう)の水」である。名水跡巡りも良いかもな。
清水坂(きよみずざか)
大阪星光学院の校地西に、昔、料亭浮瀬(うかせむ)があり芭蕉や蕪村も訪れたらしい。
清水寺の境内南側の崖から流れ落ちる水は「玉手の滝」と呼ばれ、知る人ぞ知る大阪唯一の天然の滝だそうだ。
清水寺北側の坂、私達は下って来たわけだが写真は下から撮ったのも投稿しておこう。
愛染坂(あいぜんざか)
石畳が特にが美しい坂で、坂を登りきった所に「大江神社」と「愛染さん」・愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)がある。かつて大阪湾が内陸へと食い込んでいた頃、この上町台地からは水平線に沈んでいく美しい夕陽を見る事が出来て、大江神社は夕陽の名所だったそうだ。
新古今和歌集の選者の一人、藤原家隆がこの辺りに「夕陽庵」という庵を結び、「契りあれば難波の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」と詠ったそうである。
一方、愛染堂勝鬘院にある市内最古(1594年)の重要文化財に指定されている多宝塔は工事中で見る事が出来なかった。良縁祈願の霊木「愛染かつらの木」なる樹齢100年の珍しい桂の木を見た。太い幹に確り巻き付いているのはノウゼンカズラとか。
ちなみに『愛染かつら』とは昔のラブストーリとして映画やテレビで繰り返し放映された、川口松太郎氏(第1回直木賞受賞作家)の小説の題名であるよな。
口縄坂(くちなわざか)
坂の下から眺めると道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付いたという。
私達は下るわけだが、織田作之助の文学碑「木の都」があり、その横に咲く芙蓉の花と目の前の緑にホッと癒され、、マンホールの蓋の絵(サクラと水流と大阪城)に「今、大阪に居るんだ。」と改めて認識した。途中で振り返って口縄(蛇)を確認した。(笑)
付近のお寺には江戸時代に活躍した著名な学者や文人達の墓や碑が沢山あるらしい。
源聖寺坂(げんしょうじざか)
口縄坂を下って北へ進み源聖寺坂登り口手前右に「新選組 大阪旅宿跡」の石標を見た。時代が幕末に一瞬タイムスリップした気持ち。
坂の登り口手前(南側)の金台寺でスタンプをもらったが北側に源聖寺が在った。坂を見上げると石畳の模様が変化に富んでいて面白い。勾配はやや急で途中で右にカーブしていて先が見えず いったい何処まで続くの?・・・と覚悟を決めて進んでいくと途中で石段の部分もあり、また石畳が続いていた。
途中、植木鉢の世話をしておられた方から、カラーの苗を頂いた。大切にして七坂巡りの思い出にしようと思う。
真言坂(しんごんざか)
生国魂(いくたま)神社の北側にあり、南北に走る短い坂で千日前通りに通じる。
かつて生国魂神社の周辺には真言宗の仏教寺院が十坊「生玉十坊」が栄えていたそうで、その六坊が神社の北側に在った事から名付けられたそうである。
スタンプは生国魂神社(本殿右側)で押すようになっていた。巫女さんから七坂完歩証をもらって最後の坂を締めくくる。
七坂歩きに掛かかった時間は3時間20分。標準の速さで歩けばそして長い休憩もしなければ2時間余りで完歩可能な散策だと思う。でも私の足にしてはよく頑張れたので、彼に感心してもらったよ。(笑)
歩きは終了したが折角の機会だったので、夕陽の名所で夕陽を見て帰ろうと決めた。「両彼岸の中日には四天王寺の石鳥居の真西に太陽が沈むのです。」とお坊様から聞いていたからである。
ちなみに西門の石鳥居は昔から西方極楽浄土の東門に当たると信じられ、この日に夕陽を拝して極楽浄土を観想する「日想観」(じっそうかん)という行事が行われてきたそうである。そう言えば、石鳥居の扁額(へんがく)に書かれている「釈迦如来 転法輪処 当極楽浄土 東門中心」は「四天王寺の西門は極楽浄土の東門である」を意味しているそうである。
彼岸中日の3日前であったが、夕陽に照らされた極楽門は素晴らしく綺麗に輝いて壮観だったし、私の影もグ~ンと伸びて随分背高になっていた。
心は達成感で満たされ二人は天王寺の居酒屋で乾杯!
今日は歩く事だけが目標であったが色いろ学び嬉しく楽しい日であった。 おつかれさま。