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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

天王寺七坂めぐり

2019-09-20 | 日記
季節はいよいよ秋になるのかな、涼しい。今朝、庭のトキワアケビの蔓にトンボを見つけた。ぐっすり眠っている様で物音を立てても動かない。胴の色は金色のような黄色のようなで、ちょっと珍しい。4枚の羽は透明だが胴体と同じ色の斑点が1つずつ有る。いったい何処から来たの?そして名前は何?

  9月20日(木)
四天王寺で所用を済ませ、参道を地下鉄夕陽ケ丘駅に向かって行くと左手にある「虹の仏」でカレーを食べてみたいと思っていたが、お休みで残念だった。折あれば次回の楽しみにしよう。今日は「天王寺七坂」を歩いた。

          (画像はクリックすると拡大する)  

午後1時、天王寺区逢阪の「一心寺」(いっしんじ)で「天王寺七坂 スタンプラリー」の台紙(100円)を買ってスタート。七坂は天王寺界隈の上町台地の西側に在ってそれぞれに歴史ある坂だという。天王寺区上汐町で生まれた彼には思い出の地で、「あの向こう側が上汐町になるんだ。」と指差しながら一人で懐かしがっていた。(笑)
本日中に完歩したいので、沢山あるお寺の参拝は省略し坂を下って上がって下って上がっての繰り返しで制覇を、と考えた。

先ず国道25号線「一心寺」側を下る。
逢坂(おうさか)
  昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。
へぇ~・・・国道になる迄も道幅はそれなりに広かったのかなぁ。逢坂の石標と説明板は公園北口交差点の歩道橋を渡り、松屋町筋を横切ってそのまま東へ50m程直進した所に有った。

       ←公園北口交差点の歩道橋から撮る。

天神坂(てんじんざか)
  「安居(やすい)の天神さん」の名で親しまれている安居神社北側の坂
安居神社は真田幸村陣没の旧跡として、境内には銅像と石碑が建っている。銅像幸村の右手甲に刻まれている六文銭の家紋が印象的だった。元和元年(1615年)大阪夏の陣で境内にある一本松の下にて討死したらしい。年齢49歳だったとか。
又、本堂の南側境内すぐ下には七名泉の1つとされる「かんしづめ(癇静め)の井」と呼ばれる井戸があるが、現在は枯れていた。
それから、石段を上がった所に逆さ文字(異体字)が彫られた石柱が立っている。昭和の和の漢字の編と旁が入れ替わっているのである。魔除けになるらしい。へぇ~初めて知ったよ。

                

天神坂の途中には、当時の名水を飲み水にする水場の様子を再現した所があった。
ちなみに「天王寺七名水」とは「亀井の水」、「逢坂の清水」、「玉手(たまで)の水」、「安居の清水」、「増井(ますい)の清水」、「有栖(ありす)の清水」、「金龍(きんりゅう)の水」である。名水跡巡りも良いかもな。

清水坂(きよみずざか)
  大阪星光学院の校地西に、昔、料亭浮瀬(うかせむ)があり芭蕉や蕪村も訪れたらしい。  
清水寺の境内南側の崖から流れ落ちる水は「玉手の滝」と呼ばれ、知る人ぞ知る大阪唯一の天然の滝だそうだ。
清水寺北側の坂、私達は下って来たわけだが写真は下から撮ったのも投稿しておこう。

      

愛染坂(あいぜんざか)
  石畳が特にが美しい坂で、坂を登りきった所に「大江神社」と「愛染さん」・愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)がある。かつて大阪湾が内陸へと食い込んでいた頃、この上町台地からは水平線に沈んでいく美しい夕陽を見る事が出来て、大江神社は夕陽の名所だったそうだ。
新古今和歌集の選者の一人、藤原家隆がこの辺りに「夕陽庵」という庵を結び、「契りあれば難波の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」と詠ったそうである。
一方、愛染堂勝鬘院にある市内最古(1594年)の重要文化財に指定されている多宝塔は工事中で見る事が出来なかった。良縁祈願の霊木「愛染かつらの木」なる樹齢100年の珍しい桂の木を見た。太い幹に確り巻き付いているのはノウゼンカズラとか。
ちなみに『愛染かつら』とは昔のラブストーリとして映画やテレビで繰り返し放映された、川口松太郎氏(第1回直木賞受賞作家)の小説の題名であるよな。

      

口縄坂(くちなわざか)
  坂の下から眺めると道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付いたという。  
私達は下るわけだが、織田作之助の文学碑「木の都」があり、その横に咲く芙蓉の花と目の前の緑にホッと癒され、、マンホールの蓋の絵(サクラと水流と大阪城)に「今、大阪に居るんだ。」と改めて認識した。途中で振り返って口縄(蛇)を確認した。(笑)
付近のお寺には江戸時代に活躍した著名な学者や文人達の墓や碑が沢山あるらしい。

         


源聖寺坂(げんしょうじざか)
  口縄坂を下って北へ進み源聖寺坂登り口手前右に「新選組 大阪旅宿跡」の石標を見た。時代が幕末に一瞬タイムスリップした気持ち。
坂の登り口手前(南側)の金台寺でスタンプをもらったが北側に源聖寺が在った。坂を見上げると石畳の模様が変化に富んでいて面白い。勾配はやや急で途中で右にカーブしていて先が見えず いったい何処まで続くの?・・・と覚悟を決めて進んでいくと途中で石段の部分もあり、また石畳が続いていた。
途中、植木鉢の世話をしておられた方から、カラーの苗を頂いた。大切にして七坂巡りの思い出にしようと思う。

          
  
真言坂(しんごんざか)
  生国魂(いくたま)神社の北側にあり、南北に走る短い坂で千日前通りに通じる。
かつて生国魂神社の周辺には真言宗の仏教寺院が十坊「生玉十坊」が栄えていたそうで、その六坊が神社の北側に在った事から名付けられたそうである。
スタンプは生国魂神社(本殿右側)で押すようになっていた。巫女さんから七坂完歩証をもらって最後の坂を締めくくる。

        
七坂歩きに掛かかった時間は3時間20分。標準の速さで歩けばそして長い休憩もしなければ2時間余りで完歩可能な散策だと思う。でも私の足にしてはよく頑張れたので、彼に感心してもらったよ。(笑)

歩きは終了したが折角の機会だったので、夕陽の名所で夕陽を見て帰ろうと決めた。「両彼岸の中日には四天王寺の石鳥居の真西に太陽が沈むのです。」とお坊様から聞いていたからである。
ちなみに西門の石鳥居は昔から西方極楽浄土の東門に当たると信じられ、この日に夕陽を拝して極楽浄土を観想する「日想観」(じっそうかん)という行事が行われてきたそうである。そう言えば、石鳥居の扁額(へんがく)に書かれている「釈迦如来 転法輪処 当極楽浄土 東門中心」は「四天王寺の西門は極楽浄土の東門である」を意味しているそうである。

          
  
彼岸中日の3日前であったが、夕陽に照らされた極楽門は素晴らしく綺麗に輝いて壮観だったし、私の影もグ~ンと伸びて随分背高になっていた。
心は達成感で満たされ二人は天王寺の居酒屋で乾杯!
今日は歩く事だけが目標であったが色いろ学び嬉しく楽しい日であった。   おつかれさま。

  
 


 

  
 

薬師寺慈恩殿 へ

2019-09-12 | 日記
9月1日から今日まで毎日の最高気温は30℃を超えていた。いつまで続くの?この暑さ!
団十郎朝顔も沢山咲いて毎朝随分楽しんだ。そして初めて知った事に、朝顔って葉が付くところ順番に花芽も付くんだよな。小学校で朝顔を植えつけて夏休みに家へ持ち帰る小学校生達は知っているんだろうなぁ~。否ひょっとして近頃、時代は変わって朝顔の栽培なんて事はしなくなっているかもな。。。(笑)
唐古・鍵遺跡史跡公園で作った土器(7/27)、焼成後の作品を唐古・鍵考古ミュージアムへ行って(9/5)貰ってきた。

  9月12日(木)
思い立って午後から、薬師寺慈恩殿に出かけた。萩がいっぱい咲いていた。
薬師寺創建当時から1300年を経て、なお現存する国宝東塔の大修理(平成21年から解体修理が始まっていた)がいよいよ完了に近づいて、来年令和2年4月に落慶法要が行われる予定。
その落慶慶賛行事の一つとして慈恩殿の障壁画が特別公開されている(9/7~9/15)。元首相の細川護熙(ほそかわ もりひろ)氏が6年かけて描いた障壁画が「慈恩殿」に奉納され、去る6日には絵に魂を入れる開眼入魂法要があったらしい。

ちなみに細川 護熙氏(第79代内閣総理大臣)は一年で退陣され、政治家としてのお顔しか知らなかったが、陶芸や茶道そして絵画にも憧憬が深い方のようだ。

慈恩殿の広間に一歩踏み入るとハッとして胸がドキドキする。
障壁画の画題は『東と西の融合』で、広間の正面にはお釈迦様の象徴である菩提樹(ぼだいじゅ)を中心に、左側には「衆人賛美」:釈迦を賛美する人々や動物の象、右側には「衆人奏楽」:音楽を奏でる人々や動物の虎の他、飛天、天女などが描かれている。
広間出入り口になる左側(東角)には慈恩大師、右側(西角)には無着・世親(むぢゃく・せしん)ら十大弟子が描かれている。
絵の背景は明るい黄色で統一されていて、慈恩殿の中は想像を越えて華やかで綺麗だった。

              (画像はクリックすると拡大する)

玄奘三蔵の姿を探したが描かれておらず、それは慈恩殿の手前に建つ玄奘三蔵院から全てを見守っておられるという発想で、実に素晴らしい世界観の表現かと感銘を受けた。
そうそう、慈恩殿という名称は法相宗の宗祖・慈恩大師に因むそうである。

ビデオで氏が語られているのはホームページに書かれている言葉通りで、引用させてもらうと、テーマの『東と西の融合』とは[ 釈迦にはじまり無着・世親によって深められ玄奘三蔵が大成し、その弟子の慈恩大師によって発展した法相宗(ほっそしゅう)に係わる人々を描き、その教えが西から東へと伝えられ、ここ薬師寺に帰結した。]との事。
余談ながら、運慶作の迫力ある感動的な木造無着・世親像が法相宗興福寺北円堂に安置されているのを思い出した。

話はあれこれバラバラになるが、障壁画は66場面(113枚)で構成されていて、全てを並べると総長157.72mになるとか。約100畳あるらしい広間は欄間と柱を除いて襖や壁がびっしりと絵画で埋め尽くされている。凄い!
写真撮影禁止だったので、あの綺麗な素晴らしい光景は今ココにホームページに載せられている写真を頂いておこう。来年4月東塔の落慶と同時に再び公開されるそうだから、塔と一緒に是非又見たい。

それから、境内で実が沢山生っている楷(かい)という樹を見た。説明板には「中国の聖人である孔子の墓所に実った楷の種子から育てた苗木を 楷の木を広める運動をしておられる山浦啓榮氏(栃木県在住)によって移植されたもの」と書かれていた。
        
唐招提寺鑑真和上の御影堂や墓所にある瓊花(けいか)と同様に珍しい貴重な樹なんだよな。

帰りがけ、白鳳伽藍の土塀の向こうに工事中の覆いが外されかけた東塔の屋根の先が見えた。水煙の透かし彫り飛天、特に笛を吹く天人は空を見ながら気持ち良く奏でていることだろう。
ふと、先ほど観てきた画の「衆人奏楽」で印象に残った楽器、この時代の琵琶と笙の音色はどのような響きだったのだろうと・・・・・

 


吉田寺「鳩にがし」

2019-09-03 | 日記
涼しくなってホッとしたのもつかの間、9月1日から30℃を超す暑さが戻ってきた。😢

生駒郡斑鳩町小吉田に呼称「ぽっくり寺」という吉田寺(きちでんじ)があって、年間行事に昔から「鳩にがし」と言われる放生会がある。
このお寺は天智天皇の勅願による創建とされ、平安時代の永延元年(987年)に天台僧・源信(恵心僧都)が開山したとも伝えられているそうだ。そして境内西側には天智天皇の妹・間人皇女(はしひとのひめみこ)を葬ると言われている古墳がある。

ご本尊は木造の丈六阿弥陀如来像(像高225.8㎝)で重要文化財に指定されている。金色に輝く優しいお顔の像は、「長患いをせずぽっくり往生できますように」とお願いすると、本当に聞き入れて下さるような気がする。

  2019年9月1日(日)
R25号、奈良交通龍田神社前バス停で降りて200mほど南に行くと、小じんまりした竹藪に囲まれた静かなお寺に到着する。
本堂の手前右手にこれも重文の多宝塔が有って大日如来像が祀られている。年に5日間( 9/1・2 と 11/1・2・3 )だけご開扉との事で幸いかな拝顔できた。有難くお写真を頂戴した。
そしてその南側には鐘楼が有って大きな梵鐘が釣り下がっていた。楼の脇には大小の鬼瓦が置かれていてちょっと面白い。

            
                                    (画像はクリックすると拡大する)
                 
   
以前友人Mさんと訪れた時はそれはそれは沢山な人達で混み合い、気持ちが落ち着かなかったが、今日は比較的少なくて良かった。
午後1時から、ご本尊の前に置かれている鳩や金魚に読経と授戒(南無阿弥陀仏)が成され、午後1時半が過ぎて境内に赤い毛氈が敷かれると、待機する皆んなに緊張が走る。お坊様がずらりと並ばれ、鳩の入っている箱が運ばれて、読経の内に儀式が始まった。

              
   
多宝塔をバックに鳩の飛び上がる瞬間を撮りたかったが、そう簡単にはいかなかった。(笑)
箱から出てちょっと試案をして飛び立つ鳩を見守る大人も子供達も皆一斉に歓声をあげて空を見る。
白い鳩、黒い鳩、奉納された鳩は役目を終えると間違いなく自分の家に帰って行くそうだ。

            
  
次は、お坊様方が方丈池に移動され、金魚の放流が行われた。私は撮影ポイントが分からずグズグズしていたので、近寄る事が出来ず残念だった。(笑)  
     こんな丁寧な儀式に、改めて生き物の命の大切さに心が動いた日であった。命に合掌。

10分程足をのばすと稲葉車瀬(いなばくるませ)と言う梨の産地があり、彼の好きな梨と私の好きな葡萄を買って帰った。