記紀・万葉ウォーク「聖徳太子の足跡をたどる」歩きで、コース「法貴寺を訪ねる」に参加した。
【今里の浜・蛇巻き(じゃまき)→鍵の蛇巻き→法貴寺(千万院)・池神社(山車展示)→津島神社(「十六市」開催中)】、観光パンフレットの案内に興味津々出かけてきた。
近鉄線石見駅(いわみえき)に下車して案内板を見ていると、昨日知ったばかりの忍生菩薩の碑・「忍生菩薩御誕生之地石碑」(にんしょうぼさつごたんじょうのちせきひ)が三宅町屏風の杵築神社近くに記載されていた。私を呼んでいるような気がしたよ。(笑)
10月18日(日)
集合した広場から田原本のボランティアさんの案内で、9時40分スタート。
石見の「鏡作神社」はすぐ近くに在った。お祭り日で境内には子どもみこしが置かれ、はっぴ姿の大人の人達が色んな準備に忙しそうだった。
鏡作神社は磯城郡に5つもあるそうだが、神社の由来は古事記の『天の岩戸』神話にあるらしい。天照大神が天の岩戸にこもられ困った神々が相談し、天の香久山の榊の中枝に吊り下げたという八尺鏡(やたのかがみ)を造ったのが、この神社の祭神・石凝姥命(いしこりどめのみこと)であったという。へぇ~この辺りが歴史的にそんなに大切な所だったのかと新発見であった。
(画像はクリックすると拡大する)
10分程歩くと新池の傍に比較的新しい祠が在って真新しい「おうてくれ地蔵」が祀られていた。奈良に伝わる昔話にでてくるお地蔵さまで、古像に模して平成23年に新造されたばかりのようだ。《奈良のむかしばなし第44話》
「これからは、日が暮れるまでに家に帰るか」「はい。南無阿弥陀仏」「親に心配かけないか」「はい。南無阿弥陀仏」、先日も起きたばかりの真夜中の悲惨な事件から子ども達を守るには小さい頃からこうした教訓が自然に身に付くといいなぁ~・・・と、なにかしらホッとする昔話である。
更に歩いて寺川に来ると案内板があった。「今里の浜」らしい。鉄道交通が発達する明治25年頃までの大阪と大和を結ぶ水運の港で、問屋町田原本の外港として栄えていたそうである。
更に進んで今里の「杵築神社」に来た。
6月の第1日曜日午後中学生以上の男子が麦わら(ハダカムギ)を束ねて、全長18mの蛇を作り、蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめでとう」と言いながら練り歩くそうだ。巡行中「それ」と掛け声とともに、道行く人の誰彼の区別なく蛇体に巻き込んで歓声を上げて楽しむという。蛇綱に巻かれた人は一年間無病息災で居られるという。蛇は再び杵築神社に戻ると、神社の鳥居の傍にある大樹(榎)に頭を上に巻き付けられ、それが『昇り龍』となるらしい。そしてその樹の根元には、手作り絵馬や農具のミニチュアや御神水や洗米などを供えられる小さな祠(八代龍王の祠)があった。
5月の端午の節句にちなむ男の子の行事であり男子成人を祝うと共に農作物の豊作を祈って、6月の田植え期に雨が降りますようにという雨ごいのお祭りでもあるらしい。
麦わらの茎は中が空洞になっているので18mの長い蛇でも軽く、樹に巻き付けて上へ引き上げる事が可能なのだそうだ。
午前10時20分、北中学校の前「ハッタはん」「野神さん」と呼ばれる場所に来た.
目の前に『降り龍』を見る。鍵でも、今里と同じ日の午前中に「八坂神社」で稲わらで蛇を作り、午後からはその一年間に鍵大字内で祝い事のあった家々を蛇を担いで訪ねるそうだ。200キロ近い頭を17歳の少年と当屋(世話役)が一緒に担ぎ、後ろの綱を参加した少年達が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいくらしい。最後に、ここの大樹・榎(えのき)の根元に頭がおかれ、胴体が樹の上へと吊るされ、「降り龍」になるわけで、大きな龍の頭がどっかりと地面に置かれていた。稲わらは麦わらとは違って扱うには重いそうだ。
それにしても今里と鍵の野神行事は国指定無形文化財というから、子どもの数がどんどん減ってきた昨今、大切な農耕儀式として伝統を守り続ける為に村の大人年寄りが一生懸命協力されるそうである。。。。。
国道24号線の歩道橋の上に立つと左手前方に「唐古・鍵遺跡」が見えた。今日のコースではないので私達は直進したのだが、こちらは弥生時代の環濠集落だったそうで、銅鐸の製造地であったと考えられている。見える建物はここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣を復元したものらしい。
橋を渡り終えて左手に視角は変っても、刈り取りの済んだ稲田の向こうに見える楼閣の景色はなかなか良かった。
午前11時40分、「池坐朝霧黄幡比売神社」(いけにますあさぎりきはたひめじんじゃ)に来た。石の鳥居には「池坐神社」(いけにいますじんじゃ)の扁額が掛かっていた。通称「池神社」であり「法貴寺天満宮」でもあるようだ。
お祀り日で境内には5台の〝だんじり”がずらりと置かれ、元気な子ども達がドンドコ ドンドコ太鼓をたたいて私達を歓迎してくれた。
2月19日には御田植祭が行われるという。こちらの行事も来年は是非是非見に来ようと思った。
さて、法貴寺は仏法を起こす意味から法起寺と言われていたそうで、聖徳太子によって創立され法隆寺より古く、かつては七堂伽藍を構えた大きなお寺であったそうだが、今に残るのは山門と鐘楼そして法貴寺の塔頭の1つであった「千万院」(薬師堂)だけである。池神社の隅、法貴寺山門に向かう場所に「法貴寺」と刻んだ石碑も在った。
「池神社」の境内から気持ちを改めて山門をくぐり、千万院へ。(写真は採光の加減で千万院側から撮ったもの。)
平素は閉ざされ一般公開されていない千万院だそうだが、今日は特別に開けて下さり拝観が許され、写真撮影も許可が下りた。なんとラッキーな事!
写真の像は、左から十一面観音菩薩立像(室町時代)、国重文 不動明王立像(平安時代)、薬師如来坐像(室町時代)、薬師如来坐像(鎌倉時代)。
賓頭盧尊座像(室町時代)と聖徳太子像(南北朝時代)と弘法大師像を含めてUPしてみようかな。
特に私は十二神将が薬師如来の御膝元に侍るのがとても気に入ってしまった。聖徳太子像(2歳)は右から2枚目の写真を見てほしい。
いずれの像も埃をかぶりお気の毒な気がしたが、いつかお身拭いされる日が来るまでの歴史の重みかな。
午前11時、お寺を後にした。
稲刈りの済んでいない稲田には金色の稲穂が頭を垂れて、その日を待っている様に見えた。誰かが「稲穂の匂いがするネ。」と言った。ふぅ~ん・・・これが稲穂の匂いなんだ、と胸いっぱいに吸い込み新米の美味しさを想像してお腹を膨らませてみたよ。(笑)
「田原本青垣生涯学習センター」で小休憩。ここは田原本町の公民館、ホール、図書館、唐古・鍵考古学ミュージアムだそうだ。
小一時間ほど歩いて田原本町役場まで来た。町役場に隣接の空き地に「平野氏陣屋跡」の案内板があった。なんでも賤ヶ岳の合戦七本槍の一人として軍功を収めた平野権兵衛長泰が豊臣秀吉からこの地を拝領したとかである。遺構となる物は何も残っていないが田原本の文化財の1つらしい。
すぐ近くに田原本聖救主教会があって、この教会は平成18年のNHK朝ドラ「芋たこなんきん」や平成26年NHK朝ドラ「マッサン」のロケに使われた教会だそうである。朝ドラや教会に無関心な私であるが1枚残しておこう。
いよいよゴールの「津島神社」で解散となった。。
神仏分離以前は「祇園社」と言われていたようで、毎年七月(第三金曜日~3日間)には江戸時代から続く祇園祭(ぎおんさん)が今も受け継がれているようである。
そして今日は「十六市」開催中で仮設舞台で楽団演奏があり、沢山のフリーマーケットや模擬店が並び、家族連れで大変賑わっていた。
昔、毎月16日に清照寺前で市が開かれていたのに由来し、地域活性化のイベントとして時々催されるようである。
田原本が桃太郎誕生の地としてのアピールであろう、舞台の前に桃から生まれた元気な桃太郎が居たよ。(笑)そういえば先月「大和鉄道」の歩きで通りかかった黒田駅近くの法楽寺を思い出した。
豚汁最後の1杯をご馳走になり美味しかった。あれほど大きな釜で炊き上げるのは大変な労力が要るだろうなぁ~。。。。。
12時半こうして3時間の歩きは終了。距離にして8.8km、五感大活躍の楽しい歩きであった。
【今里の浜・蛇巻き(じゃまき)→鍵の蛇巻き→法貴寺(千万院)・池神社(山車展示)→津島神社(「十六市」開催中)】、観光パンフレットの案内に興味津々出かけてきた。
近鉄線石見駅(いわみえき)に下車して案内板を見ていると、昨日知ったばかりの忍生菩薩の碑・「忍生菩薩御誕生之地石碑」(にんしょうぼさつごたんじょうのちせきひ)が三宅町屏風の杵築神社近くに記載されていた。私を呼んでいるような気がしたよ。(笑)
10月18日(日)
集合した広場から田原本のボランティアさんの案内で、9時40分スタート。
石見の「鏡作神社」はすぐ近くに在った。お祭り日で境内には子どもみこしが置かれ、はっぴ姿の大人の人達が色んな準備に忙しそうだった。
鏡作神社は磯城郡に5つもあるそうだが、神社の由来は古事記の『天の岩戸』神話にあるらしい。天照大神が天の岩戸にこもられ困った神々が相談し、天の香久山の榊の中枝に吊り下げたという八尺鏡(やたのかがみ)を造ったのが、この神社の祭神・石凝姥命(いしこりどめのみこと)であったという。へぇ~この辺りが歴史的にそんなに大切な所だったのかと新発見であった。
(画像はクリックすると拡大する)
10分程歩くと新池の傍に比較的新しい祠が在って真新しい「おうてくれ地蔵」が祀られていた。奈良に伝わる昔話にでてくるお地蔵さまで、古像に模して平成23年に新造されたばかりのようだ。《奈良のむかしばなし第44話》
「これからは、日が暮れるまでに家に帰るか」「はい。南無阿弥陀仏」「親に心配かけないか」「はい。南無阿弥陀仏」、先日も起きたばかりの真夜中の悲惨な事件から子ども達を守るには小さい頃からこうした教訓が自然に身に付くといいなぁ~・・・と、なにかしらホッとする昔話である。
更に歩いて寺川に来ると案内板があった。「今里の浜」らしい。鉄道交通が発達する明治25年頃までの大阪と大和を結ぶ水運の港で、問屋町田原本の外港として栄えていたそうである。
更に進んで今里の「杵築神社」に来た。
6月の第1日曜日午後中学生以上の男子が麦わら(ハダカムギ)を束ねて、全長18mの蛇を作り、蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめでとう」と言いながら練り歩くそうだ。巡行中「それ」と掛け声とともに、道行く人の誰彼の区別なく蛇体に巻き込んで歓声を上げて楽しむという。蛇綱に巻かれた人は一年間無病息災で居られるという。蛇は再び杵築神社に戻ると、神社の鳥居の傍にある大樹(榎)に頭を上に巻き付けられ、それが『昇り龍』となるらしい。そしてその樹の根元には、手作り絵馬や農具のミニチュアや御神水や洗米などを供えられる小さな祠(八代龍王の祠)があった。
5月の端午の節句にちなむ男の子の行事であり男子成人を祝うと共に農作物の豊作を祈って、6月の田植え期に雨が降りますようにという雨ごいのお祭りでもあるらしい。
麦わらの茎は中が空洞になっているので18mの長い蛇でも軽く、樹に巻き付けて上へ引き上げる事が可能なのだそうだ。
午前10時20分、北中学校の前「ハッタはん」「野神さん」と呼ばれる場所に来た.
目の前に『降り龍』を見る。鍵でも、今里と同じ日の午前中に「八坂神社」で稲わらで蛇を作り、午後からはその一年間に鍵大字内で祝い事のあった家々を蛇を担いで訪ねるそうだ。200キロ近い頭を17歳の少年と当屋(世話役)が一緒に担ぎ、後ろの綱を参加した少年達が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいくらしい。最後に、ここの大樹・榎(えのき)の根元に頭がおかれ、胴体が樹の上へと吊るされ、「降り龍」になるわけで、大きな龍の頭がどっかりと地面に置かれていた。稲わらは麦わらとは違って扱うには重いそうだ。
それにしても今里と鍵の野神行事は国指定無形文化財というから、子どもの数がどんどん減ってきた昨今、大切な農耕儀式として伝統を守り続ける為に村の大人年寄りが一生懸命協力されるそうである。。。。。
国道24号線の歩道橋の上に立つと左手前方に「唐古・鍵遺跡」が見えた。今日のコースではないので私達は直進したのだが、こちらは弥生時代の環濠集落だったそうで、銅鐸の製造地であったと考えられている。見える建物はここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣を復元したものらしい。
橋を渡り終えて左手に視角は変っても、刈り取りの済んだ稲田の向こうに見える楼閣の景色はなかなか良かった。
午前11時40分、「池坐朝霧黄幡比売神社」(いけにますあさぎりきはたひめじんじゃ)に来た。石の鳥居には「池坐神社」(いけにいますじんじゃ)の扁額が掛かっていた。通称「池神社」であり「法貴寺天満宮」でもあるようだ。
お祀り日で境内には5台の〝だんじり”がずらりと置かれ、元気な子ども達がドンドコ ドンドコ太鼓をたたいて私達を歓迎してくれた。
2月19日には御田植祭が行われるという。こちらの行事も来年は是非是非見に来ようと思った。
さて、法貴寺は仏法を起こす意味から法起寺と言われていたそうで、聖徳太子によって創立され法隆寺より古く、かつては七堂伽藍を構えた大きなお寺であったそうだが、今に残るのは山門と鐘楼そして法貴寺の塔頭の1つであった「千万院」(薬師堂)だけである。池神社の隅、法貴寺山門に向かう場所に「法貴寺」と刻んだ石碑も在った。
「池神社」の境内から気持ちを改めて山門をくぐり、千万院へ。(写真は採光の加減で千万院側から撮ったもの。)
平素は閉ざされ一般公開されていない千万院だそうだが、今日は特別に開けて下さり拝観が許され、写真撮影も許可が下りた。なんとラッキーな事!
写真の像は、左から十一面観音菩薩立像(室町時代)、国重文 不動明王立像(平安時代)、薬師如来坐像(室町時代)、薬師如来坐像(鎌倉時代)。
賓頭盧尊座像(室町時代)と聖徳太子像(南北朝時代)と弘法大師像を含めてUPしてみようかな。
特に私は十二神将が薬師如来の御膝元に侍るのがとても気に入ってしまった。聖徳太子像(2歳)は右から2枚目の写真を見てほしい。
いずれの像も埃をかぶりお気の毒な気がしたが、いつかお身拭いされる日が来るまでの歴史の重みかな。
午前11時、お寺を後にした。
稲刈りの済んでいない稲田には金色の稲穂が頭を垂れて、その日を待っている様に見えた。誰かが「稲穂の匂いがするネ。」と言った。ふぅ~ん・・・これが稲穂の匂いなんだ、と胸いっぱいに吸い込み新米の美味しさを想像してお腹を膨らませてみたよ。(笑)
「田原本青垣生涯学習センター」で小休憩。ここは田原本町の公民館、ホール、図書館、唐古・鍵考古学ミュージアムだそうだ。
小一時間ほど歩いて田原本町役場まで来た。町役場に隣接の空き地に「平野氏陣屋跡」の案内板があった。なんでも賤ヶ岳の合戦七本槍の一人として軍功を収めた平野権兵衛長泰が豊臣秀吉からこの地を拝領したとかである。遺構となる物は何も残っていないが田原本の文化財の1つらしい。
すぐ近くに田原本聖救主教会があって、この教会は平成18年のNHK朝ドラ「芋たこなんきん」や平成26年NHK朝ドラ「マッサン」のロケに使われた教会だそうである。朝ドラや教会に無関心な私であるが1枚残しておこう。
いよいよゴールの「津島神社」で解散となった。。
神仏分離以前は「祇園社」と言われていたようで、毎年七月(第三金曜日~3日間)には江戸時代から続く祇園祭(ぎおんさん)が今も受け継がれているようである。
そして今日は「十六市」開催中で仮設舞台で楽団演奏があり、沢山のフリーマーケットや模擬店が並び、家族連れで大変賑わっていた。
昔、毎月16日に清照寺前で市が開かれていたのに由来し、地域活性化のイベントとして時々催されるようである。
田原本が桃太郎誕生の地としてのアピールであろう、舞台の前に桃から生まれた元気な桃太郎が居たよ。(笑)そういえば先月「大和鉄道」の歩きで通りかかった黒田駅近くの法楽寺を思い出した。
豚汁最後の1杯をご馳走になり美味しかった。あれほど大きな釜で炊き上げるのは大変な労力が要るだろうなぁ~。。。。。
12時半こうして3時間の歩きは終了。距離にして8.8km、五感大活躍の楽しい歩きであった。