チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

レニングラード音楽院で一緒に学んだ潮田益子と前橋汀子(1962年)

2025-02-20 18:53:21 | 日本の音楽家

『今日のソ連邦』1962年10月1日号より「レニングラードでバイオリンを学ぶ日本娘たち」です。

日本娘たち、というのは潮田益子さん(1942-2013)と前橋汀子さん(1943年生まれ)。

お二人はアウアー門下のアンナ・ブブノワ(Anna Bubnova・小野アンナ、1890-1979)の東京にあった教室で知り合いになったそうなんです。

彼女たちは1959年に来日したソ連のヴァイオリニスト、ミハイル・ヴァイマン(Mikhail Vaiman, 1926-1977)に演奏をきいてもらい、感心したヴァイマンが二人のレニングラード音楽院留学を援助することを約束。しかもヴァイマン自身が2人を教えることを喜んで了承。お二人のその後のご活躍にかんがみるにヴァイマンの目に狂いはなかったことになりますね。

その後、2年間は日本において音楽院への入学準備に費やされ、1961年8月に二人はいよいよレニングラードに到着しました。

二人がレニングラードで一緒に住んだのは音楽院の学生寄宿舎の3階、51号室。ラトビアの首都リガから来た2人とともに計4人。部屋がいつもきれいに掃除されていたので他の学生たちの手本として引き合いに出されていたというあたりさすがは日本娘。

彼女たちの日程は週に3回はヴァイマン先生のレッスン、さらに四重奏の練習、ロシア語の勉強、予習・復習でぎっしりつまっていたそうですが、わずかな余暇は仲のよい友だちとコンサートやオペラ、美術館に通ったらしいです。うらやましい~(とか気楽なものでは決してなかったということが現在日経に連載中の『私の履歴書』でわかりました)


↑ 音楽院に急ぐ潮田さんと前橋さん(下の写真と併せて考えると左が潮田さん??) 腕組んじゃって仲がいいですね。

 


↑ 今学年の最後の学習日が終って音楽院からうれしそうに出てくるお二人。

 


↑ 喫茶店「セーベル」で。カワイー。20歳前後

 


↑ この頃ソ連公演を行った「ジャズ・オーケストラ」渡辺弘(1912-1988)とスターダスターズのポスターを見つめる二人。

 


↑ 参考(渡辺弘とスターダスターズのモスクワ公演)

渡辺弘という人は日本ジャズ界ではすごい人だったんですね。昭和31(1956)年の産経ホールでのライブ録音をアマゾンで聴いたらこれが本当に約70年前の録音なのかとビビりました。

 


↑ ヴァイマンのレッスンを受ける潮田益子さん



。。。潮田さんと前橋さんがレニングラードで一緒の部屋に住み込んでいたとは知りませんでした。


【追悼】秋山和慶氏~桐朋学園高校時代のホルンの思い出

2025-01-27 21:51:00 | 日本の音楽家

【2025年1月26日秋山和慶氏はご逝去されました】

1971年の週刊誌から30歳の秋山和慶氏(1941年生まれ)が東京交響楽団を指揮するようすです(撮影・竹原伸治氏)。



記事のよると「目下、アメリカ交響楽団に招かれて、客演指揮中。昨年1月、ニューヨーク・カーネギーホールでの指揮ぶりにホレたアメリカ交響楽団が再び招いたものだ。」

若い頃から評価が高かったんですね。



さて秋山氏による、ブラスバンドで頑張る学生へのアドバイス、励ましの言葉が吹奏楽雑誌『バンドピープル』創刊号(1980年4月号)に載っていました。

その中から、秋山氏のホルンとの出会いについて書かれた部分です。

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ボク自身は、指揮者になろうと、桐朋学園高校に入学したんですが、井口基成先生から「指揮をやりたいなら、ピアノもやらなくちゃダメだし、オーケストラの楽器も何かマスターしろ!」と言われ、「弦楽器はもういっぱいだからダメだぞ。おまえ、何やりたい?」って聞かれたんですね。

前から音が柔らかくて、縁の下の力持ち的存在で、中音域で豊かな表現力があるホルンにあこがれていたから、すぐに「ホルンやります」って言ったんです。そのとき手にしたのは日管のピストンのFシングル・ホルンで、放課後毎日毎日、N響と芸術家協会のスタジオで、もう死にものぐるいになってレッスンしました。それでも1ヵ月ほどたつと、どうにか2オクターブは出るようになったかなあ。そしたらすぐ、オーケストラの練習に入れられちゃって、またまた必死になって......。でも、そうしてオーケストラの一員、100分の1にメンバーとして一緒にやれたことは、指揮者になった今でもずいぶん役に立ってますね。

ですから、桐朋学園大学に進んでからも指揮を勉強しながらホルンも続けました。小沢征爾さんなどと替る替る棒を振りながら、みんなで懸命に吹いていたことなんかを思い出します。
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。。。青春の思い出ですね。秋山さんはホルン相当ウマいんでしょうね!



「ボク自身は音楽に終点はない、死ぬまでやっていかなくちゃならないと思っています。アマチュアとはいえ、1度は音楽にふれたことがあるなら、どうにかしてそれを一生続けてほしい。なにもプロになることばかりが道じゃないし、ボクは指揮していてアマチュアもプロもなんら変わるところがないと感じます。『音楽する』意味ではなんでも全部同じなのです。」


バレエ振付家・佐多達枝(1954年)

2025-01-02 16:03:40 | バレエ

アサヒグラフ1954年6月2日号からバレエの佐多達枝さんです。



お母様は著名な作家・佐多稲子(1904-1998)さんなんですね。 「母の娘だといわれるとシャクだワ」。。。すみません

実は『芸能界七光り告知板』という記事からなのですが、七光りどころか佐多達枝さんは今の日本を代表するバレエ振付家の一人。以前はバレリーナとして第一線で活躍されていました。

以下、「現代日本の文学25」(学研、1971年)より


↑ お母様のひざにのる佐多達枝さん。

 


↑ 一番右。お母さん、ご兄さま、お姉さまと

 


↑ 新日本文学会の北多摩班ピクニック。中央が佐多さん。モテそう



。。。今年(2018年)6月16日に東京文化会館で佐多さんのカルミナ・ブラーナ(サタミナ)が再演されるんですね。

ただでさえ感動で観衆を唖然とさせたという前回の舞台がさらにシェイプアップされていると思われ。。絶対見に行かねば!

 

【佐多達枝先生は令和6年12月27日に永眠されたそうです。ご冥福をお祈りいたします】


シューマンの霊の願いにより発見されたヴァイオリン協奏曲

2024-11-06 15:04:19 | メモ

大作曲家の降霊術はローズマリー・ブラウンだけではありませんでした。



以下、『芸術生活』1969年6月号より(一部変更してあります)。

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ことの起こりは英国の作家、ジョゼフ・マクロード(Joseph MacLeod, 1903-1984)著の伝記『ダラーニ姉妹(The Sisters d'Aranyi)』が1969年に出版され、この中でシューマンのヴァイオリン協奏曲が死後世に出た不思議な物語を明らかにしたのが始まり。

シューマンは1856年に没したが、その3年前の1853年秋、ハンガリーのダラーニ姉妹【姉妹ともヴァイオリニスト】の大伯父に当たるヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim, 1831-1907)がベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を名演奏したのに感激して自分もヴァイオリン協奏曲を作曲した。しかし生前演奏される機会がなく、死後も関係者がその終楽章に難色を示したため、結局、彼の作品集には収められずに永久に闇に葬られる羽目になった。

1907年ヨアヒムが死んだとき、姉のアディラ(Adila d'Aranyi, 1889-1962)も妹のイェリー(Jelly d'Aranyi, 1893-1966)もこうした事情は少しも知らなかった。

ところが1933年、イェリーがコップで霊媒のお告げをいただくという、当時流行したゲームをしているうち、突然思いもよらぬシューマンからの伝言が届いたもの。自分のヴァイオリン協奏曲があるから、それを死蔵せず公開してほしい、とシューマンの霊はイェリーのコップを動かして、つぎつぎテーブルの上のアルファベット文字を示してハンガリー語まじりで自分の思いを訴えた。

シューマンのヴァイオリン協奏曲の楽譜は1937年にヨアヒムの蔵書から見つかり、同年初演された。

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。。。コックリさんみたいなもんだったんでしょうか。

Wikipediaの記述「アディラ・ファキーリは妹イェリー・ダラーニと同じく、心霊主義や交霊術に興味を持っていた。1933年3月にロンドンで交霊術に参加した際、ローベルト・シューマンの亡霊が現れ、『シューマン本人やヨアヒムの肉声』によって《ヴァイオリン協奏曲》が二人の姉妹に託されたという」とかなり違います。

この件、もう少し詳しく調べてみたくなりました。


NHKスタジオで演奏した来日演奏家(1936~37年)

2024-08-20 13:13:00 | 来日した演奏家

日本放送協会『ラヂオ年鑑』昭和11年及び12年版からNHKラジオのスタジオで演奏した際の来日演奏家の画像です。豪華な顔ぶれ。

 

1936年5月13日
エマーヌエル・フォイアーマン(Emanuel Feuermann, 1902-1942)

 

1936年5月31日
ジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880-1953)

 

1936年10月7日
グレゴール・ピアティゴルスキー(Gregor Piatigorsky, 1903-1976)

 

1937年1月29日
ミッシャ・エルマン(Mischa Elman, 1891-1967)

↑ ピアニストはVladimir Padwa (1900-1981)【matsumoさま、情報をありがとうございます】

 

【追加: 海外音楽家以外】

1936年1月3日
諏訪根自子(1920-2012)

 

1936年5月20日
ジャン・コクトー (Jean Cocteau, 1889-1963)
堀口大學(1892-1981)と

 

1937年2月11日
映画『新しき土』の監督アーノルト・ファンク(Arnold Fanck, 1889-1974)と原節子(1920-2015)

 

情報を追加修正していきます。