チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

超話題作!? ブーレーズの「運命」(1971年)

2016-01-14 21:57:39 | 音楽史の疑問

『LP手帖』1971年5月号より、ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団による「運命」の宣伝広告です。




「164年後の今日、一人の天才が現われて彼の楽譜の「書落し」を指摘し第五交響曲の演奏に革命をもたらすなどとベートーヴェン自身想像しえただろうか!」

→当然そんなもん想像しえてないですよね!絶対聴きたくなります。


「第3楽章でブレーズは、スケルツォとトリオを繰り返すという全く異例の解釈を行い、ベートーヴェン自身が「繰り返し記号」を全くの不注意で書き落したのだと指摘。作曲以来164年間いかなる指揮者も、これに気付かなかった。」

→なんだー、第3楽章の繰り返しの問題かあ。ちょっとガッカリ。


「史上最長!実に38分35秒に及ぶ演奏」

→繰り返せば当然長くなりますよね。。大袈裟な広告でした。


本当にベートーヴェンの不注意で繰り返し記号が書き落とされたのかどうかはもうちょっと調べたいところです。

ちなみにアマゾンではこの録音のCDは「中古品の出品:8000円より」となっていて、気楽には買えません。

→ AppleMusic、Spotifyで聴けます。

(2016年1月5日にブーレーズ氏はお亡くなりになりました。)


ウェーベルンを撃ったアメリカ兵士(詳細)~三浦淳史「レコードのある部屋」より

2015-03-29 17:10:41 | 音楽史の疑問

1年以上前にこのブログに「ウェーベルンを撃ったアメリカ兵士(1945年9月15日)」というのをアップしたのですが、経緯についてモヤモヤ感が残るものだったので、もっと正確・詳細な情報を探していました。

そんな中、最近、三浦淳史(1913-1997)氏の『レコードのある部屋』(1979年湯川書房)という本に出会いました。

128ページからの「セプテンバー・ソング」。これはウェーベルンの死について自分が読んだ中では一番正確だと思いました。

ユダヤ系ドイツ人の音楽学者ハンス・モルデンハウアーという人の執念で謎の死が解明されていたということです。

Hans Moldenhauer, 1906-1987

以下、大切だと思うところを引用させていただきます。

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1950年代の末、オーストリアに遊んだモルデンハウアーはミッテルジルの近くまで来たことを知り、ウェーベルン終焉の地を訪ねてみたくなった。

モルデンハウアーが訪ねたころは、ウェーベルンが仮寓していた家の壁、つまり射殺のおこった場所には、まだ弾痕が残っていたという。

モルデンハウアーは実際に何が起こったのかを知りたいと思ったが、誰もなぜウェーベルンが射殺されたかについて妥当適正な説明をしてくれなかった。モルデンハウアーが自力でその究明に乗り出したのはそのへんであった。

モルデンハウアーは直接託宣所(オラクル)へ照会状を郵送した。この場合のオラクルは、国務長官と国防長官である。御宣託はあった。このへんが、アメリカはよくできている。
政府の公文書保管担当官の返書によると、ご希望の情報は、カンザス・シティ公文書センターの部隊・野戦司令部記録に当たってみたら、発見し得るかもしれないということであった。

数日後、夫の死の直後、ウェーベルン夫人によって述べられた宣誓口述書とその英訳のそれぞれの写しが送られてきた。調書は、米軍MPと軍属の通訳官によって作られたのである。


ストーリーはこうである。

悲劇は、1945年9月15日の宵、オーストリア・アルプスの寒村ミッテルジルで突発し、瞬間に終わった。ウェーベルンとその家族は終戦直後の不安な時期を過ごすため疎開していたのだった。

ウェーベルン夫妻は娘と娘婿のベンノ・マッテル(Benno Erwin Jose Mattel, 1917-?)の家に夕食に招かれていたのだった。マッテルの生活状態は一族の誰よりも良かった。世事に疎いウェーベルンは、娘婿の景気の良さが終戦後は当たり前のことだった闇商売のおかげだという事実に気づいていなかったのかもしれない。

ウェーベルン夫妻は、米軍が娘婿を罠にかけるためその晩を選んでいたことも知らなかった。

ウェーベルン夫人の供述は続く。

「わたしたちは20時ごろ娘夫婦の家に着きました。娘婿のベンノ・マッテルはその晩遅くアメリカ人が来るはずだと言っていました。彼らが21時頃来るとすぐ、夫と娘とわたしは、子供たちが眠っている次の間に行きました。」

そうこうしているうちに、マッテルはまんまと罠にかかり、アジャン・プロヴォカトゥール(agent provocateur、密偵、おとり捜査員)に逮捕される。密偵は軍曹とコックから成っていた。

密偵の計画によって、コックの兵卒はマッテルの逃亡を防ぐため家の外に回っていた。ウェーベルンが、娘婿からもらったばかりの、当時としては貴重品だったアメリカの葉巻を2、3服する衝動に抵抗しきれなくなったのは、まさしくこの瞬間だった。孫たちが眠っている空気を汚したくなかったので、ウェーベルンは家の外に出たのである。

暗闇の中で――まだ燈火管制がしかれていた――ウェーベルンとコックの兵卒との運命的な出会いが起こったのである。

ウェーベルンはたいへん小柄な人で、当時病後の回復期にあった彼の体重は50キロを割っていたという。誰からみても、ウェーベルンは心根の優しい人で、その晩、娘婿のキッチンで何が起こっていたかをまったく知らなかった。しかし、暗闇のなかで、ほんの2、3週間前には敵国だった土地で見知らぬ異邦人に囲まれていたコックは、いつも神経過敏になっていたので、自分が襲撃されるとカン違いした。彼は狼狽して、三発撃った。その一発がウェーベルンの胃に当たった。よろめきながら家の中に入ったウェーベルンは、あえぎあえぎ、苦しい息のなかから、"Es ist aus"(もうだめだ)といって、意識を失った。彼は間もなく死んだ。

実際ウェーベルンを射殺したのは、レイモンド・N・ベル(Raymond N. Bell)というコック兵だった。

やがて、ベルの未亡人から一通の手紙がモルデンハウアーに届いた。

『親愛なるドクター・モルデンハウアー:お手紙にもっと早くお返事すべきでしたが、わたくしは病気でした。それに、わたくしは学校の教師をしておりますので、教職に多くの時間をとられています。お手紙でお尋ねになられたことにお答え致します。わたくしの夫のミドル・ネームはノーウッド(Norwood)でした。誕生年月日は1914年8月16日でした。わたくしたちには6月に21になる一人息子がおります。わたくしの夫の職業はレストランのシェフでした。

 夫はアルコール中毒がもとで亡くなりました。わたくしはその事件についてほとんど何も存じておりません。夫が帰国したとき、夫は軍務中に人を一人殺したと申してました。夫がそのことでたいそうくよくよしていたことを知っております。酔っぱらう都度、夫は「あの人を殺さなければよかったのに」と言ってたものです。わたくしは、そのことが夫の病気を起こしたものと信じます。夫はみんなから愛されたたいへん親切な人でした。これもみんな戦争のせいです。

 以上のほかのことについては何も存じておりません。さらにわたくしでお役に立つことがございましたら、何なりとお申し越しください。かしこ (ミセス)ヘレン・S・ベル』

結びの句は「もう何も訊いてくれるな」を意味する社交辞令である。

ウェーベルン夫人は、「1949年、ミッテルジルで貧窮のうちに死んだ」とあるから、夫人は夫ウェーベルンの戦後における爆発的なリヴァイヴァルについに逢うことなく夫の後を追ったわけである。
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以上からわかったことは

・ウェーベルンの娘婿はアメリカ軍のワナにはめられた。
・ウェーベルンが撃たれたのは彼の煙草の火が何かの取引の合図だと勘違いされたためではなく、暗闇でウェーベルンに遭遇したコック兵が自分が襲撃されると勘違いしたための事故だった。
・ウェーベルンが息絶えたのは家の中だった。

ウェーベルン、ウェーベルンを射殺したコック、そしてそれぞれの家族も戦争の犠牲者なんですね。

「レコードのある部屋」は古本屋で税込500円で買ったのですが、サイン入り。比較的マニアックな三浦本のファンなので嬉しかったです!

音楽評論家の坂東清三氏が名付け親ってことですか。この本も興味深い情報が満載です。


ショパンの誕生日と懐中時計

2015-01-06 22:15:07 | 音楽史の疑問

 (↑ 小学館版学習まんが人物館より。市川能里さんの絵。)

ショパンの誕生日についてはハッキリせず、いろんなところに書かれていますが、大きく3つの説に分かれています(【 】内は主な根拠)


(1)1809年3月1日【1817年11月の処女出版『ポロネーズ』に「8歳の作品」と印刷されている(※の図)。また、1833年のポーランド文芸協会への入会申込書にショパン自身がこの日生まれと書いたらしい】
(2)1810年2月22日午後6時頃【ポーランド・ブロフフ教区の聖ロフ教会の洗礼簿】
(3)1810年3月1日【戦前の権威ある伝記のほとんどがこの日を誕生の日としている。上のマンガも】

ちなみにショパンの母が常に3月1日を誕生日として認めていたことから、(2)は旗色が悪いですね。

とにかく、どの説が正しいのかは、特に、誕生日が2月22日または3月1日のショパン命のピアニストや音楽好きにとっては一大事ですよね??

 

※ポロネーズト短調の表紙。一番下に8歳と書いてある。

 



ところで下の写真は1820年にワルシャワへ演奏旅行に来たイタリアの名歌手、アンジェリカ・カタラーニがショパンの演奏を聴いて感激して贈ったという金の懐中時計です。

↑ 恒文社『ショパンとその故郷』(ユゼフ・カンスキ著)78ページより

裏側の蓋を開けると。。


"Mme Catalani à Fréderic Chopin âgé de 10 Ans. À Varsovie le 3 Janvier 1820."
「カタラーニ夫人、10歳のフレデリック・ショパンにこれを贈る。ワルシャワにて、1820年1月3日

この文字が正しいとするならば、上記(2)と(3)の説では1820年1月3日時点ではまだ9歳なので、(2)(3)はすっ飛びます。

有名人で、しかも40歳で分別盛りのカタラーニさんが金時計に文字を彫らせたんだから念には念を入れて誕生日や年齢を確かめたハズだし、肖像画を見る限りドジっ娘ではなさそうなので自分は勝手に(1)の1809年3月1日説を支持します~

Angelika Catalani, 1780-1849



でもこの時計には誕生日自体は書かれておらず、単に、有力な説のうちでは1809年3月1日なんじゃない?ってだけなんですよね。

本当の誕生日は全然違う日なのかもしれません。音楽霊媒師ローズマリー・ブラウンさんには、まず誕生日をショパンの霊に質問してほしかったです。

(参考・『音楽の友』1969年9月号、『音楽現代』1979年6月号、音楽之友社『音楽家の足跡』1975年属啓成著←時計の写真も)


チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とアウアー

2014-12-04 22:43:28 | 音楽史の疑問

高名なヴァイオリニスト、レオポルト・アウアー(Leopold Auer, 1845-1930)です。

 

(↑ 昭和16年平原社版。阿部謙太郎訳)

彼の書いた『ヴァイオリン奏法』は今でも読まれている名著だそうです。この本の冒頭には、彼の弟子たちからのアウアーに対する感謝の言葉入り写真が9名分載っています(ヤッシャ・ハイフェッツ、エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、キャスリン・パーロウ、トーシャ・ザイデルなど)。

(9枚の写真のうちハイフェッツのもの。20歳前後)



ところでアウアーはチャイコフスキーからヴァイオリン協奏曲を献呈されたのにもかかわらず演奏を拒否したことでも有名ですよね。

さっそくこの著作を読んでみて、みんな大好きなチャイコフスキーの協奏曲をアウアーがバカにしているか無視していることを確かめようとしたんですが。。

意外にも240ページには「ベートーヴェンよりチャイコフスキーにわたる偉大なコンセルト」とあるし、〈私は生徒にどんなものを演奏させるか〉の章にもダメ押しっぽくベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの協奏曲と並べてチャイコフスキーのそれを挙げています。なんか、大人!

当初、演奏を拒否した理由が少々モヤモヤしますけど。。


アルマ・マーラーの修正写真

2014-10-20 22:30:25 | 音楽史の疑問

桜井健二氏の本を初めて読みましたが、何冊か読んだマーラー本の中でもかなり面白いほうですね!写真が多いし、あまり知られていないようなマニアックなことも書いてあります。




これらの本に何回か驚かされた中で、うわーって思ったのがアルマ・マーラー(Alma Maria Mahler-Werfel, 1879-1964)の写真についてです。

この有名な写真は1896年、アルマ・シントラー17歳のときに撮影されたものです。この写真で「アルマ・ファン」になられた方も多いのでは?

ところが桜井さんの『マーラー万華鏡』の143ページ「剥がされるミューズの仮面/アルマ・マーラーの虚と実」ではこの写真にはかなりの修正が施されていることが書いてあります。



左が修正前の写真で、右は上とほぼ同じ写真です。修正前でも十分美しいですが、それでもあら~って感じ。誰がどんな経緯で修正したんでしょうか?

修正前の写真はアルマの死後、フランスのマーラー研究家のグランジュ【Henri-Louis de La Grange(1924年生まれ)】の本で初めて公開されたものだということです。見栄っ張りのアルマが生きている間は怖くて出せなかった??



桜井氏はさらに、アルマの相次ぐ不倫や、交響曲第10番をマーラーの願いを裏切ってファクシミリ版を出版したことなどをあげ、「はたして、アルマは本当にマーラーを愛していたのだろうか?」と疑問を呈しています。

。。。アルマって本当に魅力的かつ謎すぎる女性ですね。10番の出版に関しては、むしろクラシック・ファンはアルマに感謝すべきだと思います~