チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

大正時代に来日したヴァイオリニスト~エフレム・ジンバリスト

2014-07-28 22:34:49 | 来日した演奏家

大正時代は、多くの世界的ヴァイオリニストが来日し始めた時代だったんですね。
フリッツ・クライスラー(1875-1962, 1921年来日)、ミシャ・エルマン(1891-1967, 1921年来日)、ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987, 1923年来日)、アレクサンドル・モギレフスキー(1885-1953, 1929年(?)来日)などなど。。大正は平和な時代だったんですねー。

エフレム・ジンバリストもその一人。1922年(大正11年)5月の初来日から1935年(昭和10年)まで6回も日本を訪れています(※↓公演スケジュール参照 Wikipedia、1回足りてないっすよー)。正直、ジンバリストってあまり知りませんでしたが当時これだけ日本に来るということは何か特別な事情があったのでしょうね。調べたくなりました。(情報追加していきます)

Efrem Zimbalist (1889-1985) 初来日の頃?当時独特の写真と絵の中間画像。

 

↑ 1932年(昭和7年)、5度目の来日時の広告。

 

↑ ビクターレコード総目録昭和7年(1932年)より。1930年には奥さまと一緒に来日してたんですね。

 

この際だからその奥さま、アルマ・グルック(Alma Gluck, 1884-1938)の情報も同誌から。ジンバリストはピアノも弾けたようで、奥さんのリサイタルでは自ら伴奏したそうです。

※ジンバリスト来日公演スケジュール(音楽之友?年4月号別冊付録より)

【第1回】1922年(大正11年)
5月1日から5日間

【第2回】1924年(大正13年)
12月帝国劇場

【第3回】1927(昭和2年)
11月帝国劇場

【第4回】1930年(昭和5年)ピアノ:ハリー・カウフマン(Harry Kaufman)
9月26日~30日帝国劇場

【第5回】1932年(昭和7年)ピアノ:テオドール・ザイデンベルク(Theodore Seidenberg)
9月26日から30日東京劇場
関西等日本各地演奏旅行後 10月12日新響に客演
再び日本各地演奏旅行後 10月18日 日比谷公会堂
 
【第6回】1935(昭和10年) ザイデンベルク(pf)
5月8,9,10,13,14 日比谷公会堂
関西方面演奏会後 5月24日新響に客演
東北~北海道地方演奏旅行後 6月19日日本青年館

。。。なんで昔の来日公演はこんなにハードスケジュールだったんでしょうか?

ちなみに昭和13年頃の東京劇場の内部は映画「愛染かつら」の最後のほうで見れます。田中絹代熱唱!

 

(追記)東京朝日新聞(1930年8月27日水曜日)にジンバリストの奥さんとお子さんの神戸で撮られた写真が載っていました。

この子供こそ、俳優のエフレム・ジンバリスト・ジュニア(1918-2014)なんでしょうか。ちょうど12歳くらいに見えます。


グレツキ来日、特別講演会『わが生涯と音楽』(1996)

2014-07-26 17:08:37 | 来日した作曲家

ポーランドのヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki, 1933-2010)の交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」(1976)は本当にイイですよね。時々聴きたくなってはその優しさに深く癒されます。

そのグレツキが、日本に来てトークショーを開いたという貴重な情報を「閑人の王」さんのブログで得ました。ありがとうございました!

そのトークショーの時期と内容が知りたくて、当時の雑誌に載っていないか調べたところ、音楽之友社『音楽芸術』1997年1月号で松平頼暁氏による記事を見つけました。

以下、その記事からです。



ポーランドのシレジア・フィルハーモニー交響楽団と一緒に、ヘンリク・ミコワイ・グレツキが来日して、1996年(平成8年)11月11日(月)、19時から毎日ホールで特別講演会「わが生涯と音楽」が開かれた。

講演会のタイトルは素晴らしい、「わが生涯」と「音楽」を切り離すことはできない、と言って、講演は始まった。続けて、人は生まれてくる時代や場所を選ぶことはできない、と言う。彼が生まれ、育った時代は、劇的で悲劇的でさえあった。それはこちらから影響を与えるには、強過ぎて、それらは彼に影響を与えた。もっと穏やかな時代に生まれていたなら、別の人間になっていただろう。音楽は彼の職業だが、別の職業の方が適していたかもしれない。(後で、フロアからの質問に関連して、半ば冗談で民族楽器制作のために大工になっていたら良かったかもしれない、と語った)。音楽は、彼が見てきたことへのコメントである、という。

彼は1933年、ポーランドという美しい国に生まれた。ポーランドは今も、過去にも、そして今後も彼の祖国である。しかし当時、西にヒットラー、東にスターリンがいた。グレツキは二歳で母を亡くした。二十六歳だった。彼女は職業としてではなく、ピアノを弾いていた。父も同様にさまざまな楽器を演奏していた。その後、グレツキは病んだ。建築現場で事故に遭ったのだ。治療レベルは低く、包帯とメスがあるだけだった。戦争が始まったが、その間、彼は病院にいた。ドイツ人の医者が数回に亘って手術した。彼は良い人で、シレジア地方のある町で整形外科医をしていた。病院で演奏していたオーケストラと教会のオルガンが当時の彼にとっての音楽だった。楽器に触れる機会はなかった。1945年、十二歳の時、戦争は終わった。ピアニストになりたかったが、先生はいなかった。先ず、病院の学校、ドイツの学校、ポーランドの学校で一般の教育を受けなければならなかった。十七歳で高校卒業試験を受けた。しかし音楽学校では受け入れてくれなかった。第二の母がピアノを止めるように言った。ギナジウムの作文でショパンのピアノ協奏曲が弾けたら死んでもよい、と書いたが、まだ弾いたことはない。だからこうして生きている-二年間小学校の教師をやった。三年間中等音楽学校でピアノと理論を学び、1955年に、カトヴィツェの国立音楽院に入学、シャベルスキ(Bolesław Szabelski, 1896–1979)に学んだ。それまで系統立った勉強はしていなかった。「狼は森に帰る」のだ。ここを五年で卒業した。

彼はこうした時代を生き抜いた。ソ連では、書いた物だけでシベリア送りになった。彼はアウシュヴィッツから比較的近い所に住んでいたが、1939年にポーランド人、41年にユダヤ人、そしてその後、ジブシー、捕虜、オランダ人が収容された。彼の親族も何人か収容所で死んだ。戦争と関わりのなかったポーランド人はいない。ポーランド人であるために、ユダヤ人であるために、パルチザンであるために人々は死んだ。それらの情景が彼の眼前を通り過ぎる。彼の近所の収容所にいたソ連の捕虜が彼のために作ってくれたブリキの箱が大切な思い出になっている。妻はピアニストだが、当時はパルチザンだった。戦後も何度か、ポーランドやハンガリーで事件が起こった。死が離れられないテーマとなった。しかし、そうした時代にも、ベートーヴェン、ショパン、シマノフスキが彼の傍にあった。悲劇的な時代は彼にとっての悲劇ではない。それは素晴らしい人生の学校だった。


ここから長い質疑応答の時間になった。そして彼が予告していた、後半部のメシアン、ショスタコーヴィチとの出会いについては聞くことはできなくなった。

皆さんが、音楽を聴いて、人生に安らぎを見付けたり、新しい価値を見出したりすることができるように、この世において、異常なテンポで生活していても楽観的な光を見付けることができれば良しとしよう、与えられた人生が美しいものと実感できるように、と彼は結語を述べた。

 

 

。。。メシアン、ショスタコーヴィチとの出会いも語ってもらいたかったですが、質疑応答が盛り上がっちゃったんですね。慈しみに満ちた「悲歌のシンフォニー」はとてもつらい思いをしたグレツキでなければ書けなかったのかもしれません。


諸井三郎・誠 親子

2014-07-24 21:57:08 | 日本の音楽家

昨年9月にお亡くなりになった作曲家、諸井誠(1930-2013、モンロイ氏)の最後の著作『ブラームスの協奏曲と交響曲』(音楽之友社)を買って今読んでいます。マニアックでありながら読み物として楽しく、その音楽を是が非でも聴きたくなるというのは他にもたくさんある諸井氏の著作に共通する特長だと思います。



自分がマーラー10番の補筆完成版が大好きになったのも、当初は眉唾ものだと半信半疑でクック版の録音を聴き始めたというモンロイ氏の、フィナーレのフルート・ソロでとうとう「落涙する始末」という著述を読んだからに違いないです。

そこにおいて、さらにモンロイ氏は「10番の終わりと1番の開始が繋がって、やっとマーラーの交響曲のでっかい輪が完成した」というようなことも書かれていて目からウロコでした。


そんなモンロイ氏に偉大な作曲家のお父さん、諸井三郎(1903-1977)氏がいるということ自体は知っていましたが、肝心の曲は聴いたことがありませんでした。

しかし、やはり近年のゲルハルト・オピッツの録音「日本のピアノ作品集」の存在が大きいですね!CDの最後に三郎氏のピアノ・ソナタ第2番変イ短調(1927)が収録されていて、すばらしい曲だと思いました。自ら秀でたピアニストだったという作曲家の、キビシー内容のソナタですが、その反面音楽そのものの楽しさに溢れていて、さすが親子、血は争えないなーって感想です。



それに、ドイツの有名ピアニストによって日本人作家の曲が「逆輸入」されてしまうと日本人の聴き手としては弱いです。良い曲なんだって思ってしまう。こんな逆輸入ならどんどんやっていただきたいですけど。

来年の5月エストニアでネーメ・ヤルヴィが、「事件」の一部始終を知った上で佐村河内さん&新垣さんの"HIROSHIMA"を振るそうですが、あっちの聴衆にめっちゃウケて高く評価されちゃったりしたら面白いっすよね!

( ↑ 音楽之友昭和28年4月号より)

"I regret very much that I was unable to meet this master. He died in 1977, one year after I went to Japan for the first time. "
オピッツさんが諸井三郎さんに会えず残念!ってCDの解説書に書いていますが、息子モンロイ氏には会えたんでしょうか?


スクリャービン, J.の前奏曲はヤバイ

2014-07-22 22:22:56 | メモ

最近、スクリャービン後期のソナタ6~10番(作品番号は62,64,66,68,70と何故か一つおきの偶数)にハマってます。あんまり好きじゃなかったんですけど。

夜、ウォークマンで聴きながら意識的に半覚醒状態に入ると、トリルのくすぐり地獄の快感に浸れること請け合い!(だから男性ピアニストの演奏は絶対イヤです。変態?)

繰り返し聴かざるを得なくなります。まさに麻薬的。寝不足で目つきがヘンになる自覚症状アリ。危険ソナタに指定すべきです。



そんななか、悪魔的であることは変わりないけど、妙にヤバイ感じの、少々毛色の違う短い音楽があったので、いつ頃の曲?って疑問が生じて改めて解説書を見てみたんです。

そしたら、あらー、アレクサンドルの息子・ジュリアン(ユリアン)による「前奏曲」(4曲)だっていうじゃないですか。息子の書いた曲があったなんて知りませんでした。

ジュリアンは、スクリャービンの愛人タチアナとの間にできた3人の子供(娘2人と息子1人)のうちの一人。ちなみにその子供達が公式にスクリャービン姓を名乗ることができたのは、つまりスクリャービンとタチアナが正式に夫婦として認められたのは、スクリャービンが死の床についた時だったそうです。

ジュリアンは3人の子供のうち唯一音楽の才能をあらわした。合計で7分くらいにしかなりませんが、残した曲はスエおそロシア~。。

運命のいたずらか、1919年、11歳になったばかりのジュリアンは乗った船がドニエプル河で転覆し溺死してしまった!

人生の前奏曲だけで逝ってしまうとは。。。

【ジュリアン・スクリャービンの4曲の前奏曲】
・プレリュードハ長調作品2(1914)←5歳?
・プレリュード作品3(2曲、1918)
・プレリュード変ニ長調(1919)

 

Julian Scriabin (1909-1919)

参考:フォービオン・バウアーズ、佐藤泰一訳「アレクサンドル・スクリャービン -生涯と作品-」泰流社


古い音楽雑誌の『音楽家住所録』って?

2014-07-20 21:50:17 | どうでもいいコーナー

古い音楽雑誌を読んでいたら「音楽家住所録」というのが掲載されてるじゃないですか。

↑昭和20年、終戦直後の某雑誌。300人以上の演奏家、作曲家、評論家等の住所が載っています。個人情報保護の観点から多少違和感を感じます。誰のための情報?「戦災疎開等で音楽家が四散し連絡上困却されているので本社はかねて調査を進めここの住所録を掲載するに到った。」ってことで仕方なかったんですかね。。

 

。。とか思っていたら昭和27年になってもまだやっていました。↓

暑中見舞出したくなっちゃいますよ。電話番号まで載っちゃてるかたも結構いますね。

著名人だけでなく、読者の投稿にも住所が見事に書かれている時代。大らかだったんですね~