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トスカニーニの指揮で第九を歌った日本人合唱団員(1939年)

2021-01-28 22:33:53 | 日本の音楽家

山野楽器店の音楽雑誌『月間楽譜』昭和15年(1940年)7月号です。

 

この号にトスカニーニの指揮で合唱団員として第九を歌った日本人女性の手記が載っています。

松岡宏子さん

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トスカニーニの指揮で歌ふ

          松岡宏子


ある晴れた朝でした。

合唱の何時ものような練習時間に、私達は「トスカニーニが学校を訪問される」という一大事件を耳にして、学校はひっくり返るような騒ぎになりました。

「私達の合唱を試験しにいらっしゃるんですよ、良ければカーネギーホールでベートーヴェンの第九を歌えるんですから皆さんしっかり歌ってください」との校長の話!!喜びと驚きとで生徒達の緊張ぶりと意気込みとは大したものでした。すぐに我々のバッハのロ短調ミサの練習が始まったのです。

ゆっくりと落ち付いてトスカニーニはやってきました。マネージャーらしい人と二人で。そして我々の合唱をじっと聞いていました。

私はこの偉大なる指揮者の一挙一動を見逃すまじと歌うのを忘れ、ただ夢中でじっと彼の姿をみつめておりました。勿論この小さな東洋人の存在なんて判る筈がありません。真っ白い特徴のあるピンとはね上がった髭を生やした背の低い風采の上がらないお爺さんが、そんな有名な、偉大なトスカニーニかと疑いたくなるくらいです。でも、あの物凄い人を射るような眼光、この人の人生を物語っているような額の皺、それらが彼の偉大さを物語っているようです。


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「トスカニーニの試験に及第したんですよ、我々が第九を歌うことになりました」
との発表があったのは数日後のことでした。

「トスカニーニの訪問」それだけでも我々にとっては大事件でした。その上第九を歌うことになったのです。生徒一同の感激は全くすごいものでした。それから第九の練習がはじまりました。毎日毎日コーラスの時間は全部そのために使われました。

校長の得意さと熱心さもまたすばらしいものでした。

12月1日(金)練習 午後4時~6時
12月2日(土)練習 午前10時~12時
12月2日(土)演奏 午後10時
(以上カーネギーホールに於て)

とのプログラムが発表されました。

いよいよ待望のニューヨーク行のバスは発車致しました。ニューヨーク着、ホテル行、予定通りの行動をとっていよいよ感激のトスカニーニの第一回リハーサルです。

はじめて見るカーネギーホールの大きさに膽(きも)を奪われているうちに、我々の席は決まりました。

オーケストラのメンバー達もぞくぞくと這り込んでまいりました。最後にトスカニーニは出てまいりました。彼の一挙一動も見逃すまいと身体が緊張でこわばっていくのが感じられます。彼は真っ黒いつめえりの服装で小刻みに出てまいりました。

ギーギー、プープーというメンバー達の調子を揃えている音も間もなくやんで、トスカニーニは壇の上に立ちました。あのものすごい眼光で一目見廻しますとあたりはしんとしてしまいました。

さあ、いよいよ練習です。

トスカニーニは眼前に立っております。そして我々は今、彼の指揮の下に歌おうとしているのです。全く夢としか思われない事実だったのでした。指揮棒は取り上げられて、最初のピアノのためのコーラス・ファンタジーがはじまりました。

無我夢中、ただ無我夢中でした。

その時のピアニストは女の人でした。とてもすばらしかったのです。実によく歌って、ものすごく音楽的なのです。中程からピアノのパートに来ますとトスカニーニはさも満足しているというように指揮棒を休めて、にこにこしながら聞いておりました。

ああ、トスカニーニにあんなに満足されるピアニストは何と何と幸福なことでしょう。ピアノと管弦楽の調和!!全く感激でした。

いよいよ第九です。

最初の一音から肺腑をえぐるベートーヴェンの感情が押し迫って来るのです。

私はあまりのすばらしさに身動きすら忘れて、ただ呆然として彼の姿を凝視しているばかりでした。手には汗が一杯滲んでまいります。

いよいよ我々の合唱すべき第四楽章にやってまいりました。


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ただただ夢中で歌いました。いつの間にか終わっていました。

この小さな存在の価値もない東洋人の女の子の感激は、ただ偉大さに打たれ、全く呆然自失!!そして溜息ばかりでるのです。そしていつまでもいつまでもあの雰囲気に浸っていたく物言うのさえ忘れ、人から言葉をかけられるのさえ癪にさわりました。これこそ、真の音楽、真の芸術、私は本当の音楽を知りました。

第二回目の練習。例のごとく感激、ただ感激の一語ではじまりました。

無事にピアノのためのコーラル・ファンタジーを済ませ、第九の練習がはじまりました。

 

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トスカニーニの合図をまって太鼓が這入りました。彼はもう少し弱くと注意致しました。再びやりなおし、わけのわからないイタリー語でトスカニーニはどなりはじめました。ゆでだこのように真っ赤になって、ああその時の顔、そして声、私達は全くちぢみ上がってしまったのです。五分間位、彼はものすごく、どなっていました。私達は言葉はわからないし、何だかものすごくこわくて、すっかり度膽を抜かれてしまいました。またやりなおし、今度は彼の気に入ったらしく、彼はにこっと笑いました。これで我々もやっと安心したわけです。第二回目の練習もどうやらこれで無事に済みました。

第一回目の時にも、そして今度も、練習が了えた時に、トスカニーニは丁重に「有難う」とこの我々合唱団にも心から云ってくれました。

世界一のトスカニーニから礼を云われた。それも感謝を込めて、何となく心の中に熱いものが湧いて来るようでした。


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演奏!!

この日のトスカニーニの出来栄えはそれは大したもので、練習の十数倍の良さ、全く想像におまかせします。あまりの感激で云う言葉を知りません。コーラスの一員として座っていて何遍も何遍も気が遠くなりそうでした。私のようなものには、ただ感激というより他に方法がないのが口惜しくなってきます。あの背の低い風采のあまり上らぬ彼が一度指揮棒を振ったら、全く人間技とは思われません。

その棒の先からほとばしり出る感情の泉、全くベートーヴェンの深刻な芸術上の悩みが押し迫って来ます。白人の云うWonderful、全くそうです。全くこのまま死んでも惜しくはない、私は全くあのまま死んでも悔いはしなかっただろうと思います。

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。。。松岡さんの感激が時空を超えて伝わってきました。

編集後記によると、このカーネギーホールでの第九コンサートは1939年の年末に開かれ、松岡宏子さんは翌年5月に日本に帰って来られたそうです。

松岡さんは東京の大井基督教会の牧師を父とし、かねてアメリカに留学、ウェストミンスター・クワイア・スクールに学ばれ、手記が書かれた頃は津川主一氏のシンフォニック・コーラスのメンバーとして活躍されていました。