チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

1970年万博・フェスティバルホールでのクラシックの催し物

2016-01-30 20:43:44 | 来日した演奏家

【2015年3月24日の記事にコンサートの客の入りについて情報を追加しました。】

 

1970年(昭和45年)と言えば万博(日本万国博覧会)!

その公式ガイドの「フェスティバルホールの催し物」を見たら、すごく豪華な出演者なんでビックリしてしまいました。



音楽ファンとしては万博見学してる場合じゃね~ぞって感じだったことでしょうね。

以下、その出演者と曲目です。
(1970年2月15日現在の「予定」なので本番は変更がいろいろあったと思いますので情報追加・訂正していきます)

3月15日
開幕演奏会
NHK交響楽団
岩城宏之指揮
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
黛敏郎「BUGAKU(舞楽)」
三善晃「祝典序曲」

3月16日~22日
ベルリン・ドイツ・オペラ
ロリン・マゼール、ブルーノ・マデルナ指揮
ワーグナー「ローエングリン」
シェーンベルク「モーゼとアロン」
ブラームス「ドイツ・レクイエム」

4月14日~20日
パリ管弦楽団
ジョルジュ・プレートル、セルジュ・ボド指揮
ピアノ:アレクシス・ワイセンベルク
マーラー 交響曲第1番「巨人」
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ほか

4月18日
ワイセンベルク ピアノ・リサイタル
ラヴェル「クープランの墓」
ラフマニノフ 前奏曲
シューマン「交響的練習曲」より5曲

4月24日、25日
スイスの夕べ
読売日本交響楽団
シャルル・デュトワ指揮
ソプラノ:リーザ・デラ・カーザ
フルート:オーレル・ニコレ
オネゲル 交響曲第3番「典礼風」
オトマール・シェック 歌曲集【なかなかマニアックですな】
フランク・マルタン 「フルートと弦のためのバラード」

4月27日、29日
二期会によるワーグナー「ラインの黄金」
二期会(大橋国一、栗林義信、中沢桂ほか)
読売日本交響楽団
若杉弘指揮

5月8日~14日
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベートーヴェン交響曲ツィクルス

5月15日~18日
クリーヴランド管弦楽団
ジョージ・セル、ピエール・ブーレーズ指揮
ヴァイオリン:ダニエル・マジェスケ
ピアノ:ゲイリー・グラフマン
モーツァルト 交響曲第40番
バルトーク ヴァイオリン協奏曲
シベリウス 交響曲第2番 ほか

5月24日~29日
カナダ国立バレエ団
大阪フィルハーモニー管弦楽団
プロコフィエフ 「ロメオとジュリエット」
ヒンデミット 「四つの気質」ほか現代バレエ3曲

6月4日
読売日本交響楽団
若杉弘指揮

6月6日、7日
パイヤール室内管弦楽団
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮

6月12日
日本フィルハーモニー交響楽団
小澤征爾指揮

6月19日、21日
ローマ室内歌劇団
ローマ合奏団
レナード・ファザーノ指揮
ロッシーニ「結婚手形」
ジョヴァンニ・パイジエッロ「セヴィリアの理髪師」【なかなか!】
チマローザ「宮廷学士長」

6月22日
ローマ室内合奏団
レナード・ファザーノ指揮

6月24日
NHK交響楽団
岩城宏之指揮
ヴァイオリン:海野義雄
武満徹「テクスチュアズ」
チャイコフスキー 交響曲第5番
モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番

6月25日~27日
モントリオール交響楽団
フランツ=パウル・デッカー指揮
アルト:モーリン・フォレスター
ピアノ:フィリップ・アントルモン
モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
ワーグナー「ヴェーゼンドンクの5つの歌」

6月29日、30日
團伊玖磨 歌劇「夕鶴」
大阪フィルハーモニー交響楽団
團伊玖磨指揮
伊藤京子、栗林義信、宮本正ほか

7月1日~5日
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
エフゲニー・ムラヴィンスキー(※1)、アルヴィド・ヤンソンス指揮

7月8日
大栗裕 歌劇「地獄変」
大阪フィルハーモニー交響楽団
朝比奈隆指揮
桐絃社社中、関西歌劇団、樋本栄ほか

7月14日
京都市交響楽団

7月20日
大阪フィルハーモニー交響楽団
朝比奈隆指揮
ヴァイオリン:辻久子
ハチャトゥリアン ヴァイオリン協奏曲ほか

8月6日~11日
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
サー・ジョン・バルビローリ(来日直前に亡くなったためジョン・プリッチャードが来日)、エドワード・ダウンズ指揮
アルト:ジャネット・ベイカー
ピアノ:ジョン・オグドン
アラン・ロースソーン「ストリート・コーナー」
ラヴェル ピアノ協奏曲 ほか

8月16日~26日
ボリショイ・オペラ
ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」
ロジェストヴェンスキー、ハイキン指揮

チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」
ロストロポーヴィチ、ハイキン指揮

ボロディン「イーゴリ公」
シモノフ、エルムレル指揮

主な出演者:ペトロフ、オグニフツェフ、ヴィシネフスカヤ

8月29日~9月1日
ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン、小澤征爾指揮
武満徹「ノヴェンバー・ステップス」
マーラー 交響曲第9番
ベートーヴェン 交響曲第4番、運命ほか

9月3日、5日
スヴャトスラフ・リヒテル演奏会(※1)

9月7日、8日
イギリス室内管弦楽団
レイモンド・レッパード指揮
テノール:ロバート・ティアー
ハイドン 交響曲第34番
バッハ ブランデンブルク協奏曲第3番 ほか

9月12日
閉幕演奏会
NHK交響楽団
朝比奈隆指揮
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱つき」

※1 Wikipediaによるとムラヴィンスキーにはこのとき何故か出国許可が下りず、代役でリヒテルが初来日したということです。

(追記:1970年2月15日の予定にそう書いてあるのだから代役のワケないですよね。バルビローリの件とともに沼辺様、ご指摘ありがとうございました。)

 

 

(追記)『コンフィデンス年鑑1971年』(オリジナル コンフィデンス発行)に大阪万博関係のクラシック・コンサートの客数の情報が掲載されていました。



万博協会主催のコンサートについて1回あたりの平均客数が多い順から並べてみます。(単位:人 / 回)

カラヤン指揮ベルリン・フィル 3,400
リヒテル・リサイタル 3,000
朝比奈隆指揮N響(フェアウェル・コンサート) 3,000
レニングラード・フィル 2,575
岩城宏之指揮N響 2,500
岩城宏之指揮N響(オープニング・コンサート) 2,200
プレートル、ボド指揮パリ管弦楽団 2,050
セル、ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団 1,875
ベルリン・ドイツ・オペラ 1,650
ニュー・フィルハーモニア管 1,600
モントリオール交響楽団 1,433
パイヤール室内管弦楽団 1,400
小澤征爾指揮日本フィル 1,300
バーンスタイン、小澤征爾指揮ニューヨーク・フィル 700


・カラヤン/ベルリン・フィルがダントツで3,400人。旧フェスティバルホールは2,700席だということなので、臨時で座席を追加したということでしょうか。

・リヒテルも人気が高かったんですね。

・レニングラード・フィルはムラヴィンスキーが来れなかったのに健闘しています。

・クリーヴランド管弦楽団はセル、ブーレーズだからもうちょっと客が入ってもよかったのでは?

・ニューヨーク・フィルがドベ。700人!?バーンスタインって当時はあまり知名度が高くなかったんでしょうか?(そんなワケないですね。きっと集計ミスか何かでしょう。)


ストラヴィンスキーが述べた「五つの現代作品」に対する評価(1966年)~その2

2016-01-27 20:37:06 | メモ

1966年の著作の中でストラヴィンスキーが述べた、当時の「5つの現代作品」に関する好き嫌いの続きです。

 

3.メシアン《トゥーランガリラ》

 メシアンの《トゥーランガリラ》も「豊かさよりも人を困惑させるような要素が多い」もう一つの例である。だが私は審査官としては不適格かもしれない。というのは私は鳥類学者ではないし、この作曲家のよいといわれる後期の作品を知らないから初期の作品の方向もわからないし、またガムランとレハールの混合と思われるようなものに対しては偏見をいだいているからである。これは《戦争レクイエム》と同様、すぐれた映画音楽的部分も(《インドシナのチャーリー・シーン》)あり、我が身のかつての日の名残りも見出される(9と17のにせペトルーシュカや11のピアノ・カデンツァなど)。だが私としてはご好意よりも印税の方がありがたい。もっと根本的かつ遺憾な類似点は、両者とも小さな非弾力的なパターンをひきのばしすぎることだ。最初メシアンのアイデア、ことにリズムは感興をそえる。だがそれからあとが問題だ。くり返しまたくり返し、オクターブがますます拡大されてゆく。このような薄められた挿入部は、最初のうちうまくかくされたナイーブさをあからさまにしてしまう。というよりむしろ、導入部は比較的高度なソフィスティケーションに対する偽りの約束を与えるというべきかもしれない。しかし《トゥーランガリラ》が必要としているのは最も深刻な自意識という冷たいシャワーの一浴びである。

 

4.アイヴズ《デコレーション・デイ》

 それなら傑作とはどんなものだろう。私にはただ例をあげることしかできないが、アイヴズの《デコレーション・デイ》はその一つの小さい例だ。なぜだろう。フィーリングの純粋さのためではないし数知れぬ非傑作も純粋だ――そのフィーリングが高級なためでもない(数知れぬ非傑作もそうだ)。またリズムとハーモニーのイマジネーション(例えばDのハーモニー)が彼と同時代の作曲家たちより先に進んでいるためでもない。(この場合の「先に進む」は)それだけではなんの意味もない。アイヴズの《期待》はあまり誇大に重要視されすぎているから、そんなことやロマンチックな人生観などは早く卒業してしまった方がよい。 

 とにかくアルカン(Charles Valentin Alkan, 1813-1888)のアイヴズに対する期待とはなんだったのだろう。二つの同時性テンポによるピアノ曲や十二の拍のなかに十三、十四、十五も押しこむリズムなど1850年代まで遡ってみられるのに!さらに、《デコレーション・デイ》は、それがお仕着せの工夫をさしひかえてその代りに、Cの二小節前にトロンボーンとバスーンの和音をひびかせるといった、驚嘆に値する独創性を発揮しているからでもない。HのところとHの三小節前の遠いクラリネットの響き、Iの弦楽器のトレモロと二つのフルートのオブリガート、Mの五小節前のトロンボーン、それから《神よみもとに》、《タップス・アデステ・フィデリス》(もっともチューン探しは退屈なスポーツだと告白せねばならぬが)などの設定のたくみさ、そしてまた、あの人の意表をつく(とはいってもそれに対する伏線はアイヴズのいわゆる「シャドー・ヴァイオリン」が前まえから奏でている)終局は私が知っている中で最ももの寂しい、人の心に深くくいこんでくるものだが、こういったもろもろのために《デコレーション・デイ》を傑作というのではない。 

 つまるところ私は、なぜこれが傑作かという自分の問いに答えられないのだ。私のいえることはただ、《デコレーション・デイ》は傑作だ、アイヴズの作品の中でも最高のものの一つだということだけである。

 というのは私は差別的な賛美者だからなのだ。私に関する限り、「答えのない質問 The Unanswered Question」は演奏しなくてもかまわないし、この《デコレーション・デイ》にしろ、普遍的なアピールがあるかどうかは疑問である。つまり、このアメリカの祭日のパレード音楽がブルガリア人にはどう受けとられるだろうかという問題である。

 

5.ブーレーズ《エクラ》

 

 ピアノと室内アンサンブルのためのブーレーズの《エクラ》も小傑作である。これはタイム・コントロールの新しい技法を紹介している。そのスコアには指揮者のパートをほかの奏者のと並記していない。だが彼のパートはほかの器楽の部分と同じように構成されているのであり、事実その中でも最も興味ある部分なのである。したがって巨匠ブーレーズ自身は半分ほどもうまく指揮することができるものがあるなどとはなかなか考えられない。まったく彼がタクトを振るのを見ることは――私はごく最近それを経験したのだが――音楽そのものと切りはなせないことだ。なんと彼のタイミングのすばらしいことよ。スコアの上ではテンポに関してはただ「きわめて急速に」、「もっとゆるやかに」、「きわめて長く」などの言葉で指示してあるだけで、その意味は機械的にきっちりと組立てた私の《ヴァリエーション》などとは対角線の反対側の頂点に位置するものである。すべての動きはキューによってきめられる。そのキューは概して一般的なものだが時には偶発的でもある。このアイデアは別に新しいとは言えない――すべての演奏者が楽器の上に身をかがめ、巨匠ブーレーズの指の動きにしたがって彼のパートを奏しようと待ち構えている。――そかしその効果は魅惑的だ。この曲の音のひびきが美しいことを見過ごすものではない。ほかのブーレーズの作品すべてがそうであるように音がきわめて女性的でデリケートだ。しかし私は、この作品のよりすぐれた特性としてあげるべき点はそのタイム・コントロールにあると思う。《エクラ》はクリエーティブな音楽であるのみならずクリエーティブな指揮だ。これはめったにないことである。

 

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ストラヴィンスキーはなぜか、5曲のなかで現在でも知名度が高い「戦争レクイエム」と「トゥーランガリラ」がお気に召さなかったようですね。ちなみに自分はアイヴズのデコレーション・デイという曲は今回初めて聴いたけど、結構ヨイと思いました。

 

デニス・ストック(Dennis Stock, 1928–2010) が撮ったストラヴィンスキー


ストラヴィンスキーが述べた「五つの現代作品」に対する評価(1966年)~その1

2016-01-26 22:56:26 | メモ

ストラヴィンスキーは、ロバート・クラフトと共著で数冊のエッセイを出版しているそうです。そのうちの一冊にThemes and Episodes (1966)というのがあって、その抄訳が『藝術新潮』1967年3月号に掲載されています。「五つの現代作品」という章は結構ストラヴィンスキーの皮肉がきいていて面白いと思いました。


以下、その5つの作品のうち、シュトックハウゼンの「カレ」とブリテンの「戦争レクイエム」に対するストラヴィンスキーの所感です。

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  過去の平均から見積って、今日の作品の半分ほどは、明日になってみると私を困惑させるであろうし、それ以上の数の作品が一ヶ月と私の評価を保持しえないだろう。またもっと生きのびたとしてもたいした重要性は期待できないし、さらに悪いことには、ここにも悪貨は良貨を駆逐するという法則が働くので明らさまな大ぼらが最も消え去りにくいということだ。それでいったいなぜこんなことを書きつづったのだろう。

  それはつまり、失策や当惑は、(暫定的、仮定的ではあろうが)起りうる真実の偶然にくらべればなんでもないからでである。口をとじていればあやまちもおかさず、愚かさもさらけださずにすむだろう。だがそうすれば正しいことを言う可能性をも奪われてしまうわけだ。


1.シュトックハウゼン 《カレ》 Carré、4群のオーケストラと4群の合唱のための



  シュトックハウゼンの《カレ》は、スコアを追ってみるといかにもおもしろい。だが目でなく耳できくと、退屈で(わるい意味で)長たらしくきこえる。それは彼のほかの表意文字でかかれた打楽器のためのスコアについても言えることだ。私がそれらに興味をひかれるのは主として目新しさのためであるが、それはおそらく彼の意図したところではなかったにちがいない。ほかのいわゆるグラフィックな作曲家の作品もそうだ。まるでロールシャッハの心理テストの図を見るようで、おそらく目で見るためにかかれたにちがいない。そうはいっても《カレ》は立派なものである。だが私の賛辞は皮相な点にのみ向けられているようだ。

  まず第一にシュトックハウゼンのオーケストラの使用は魅力的である。そして彼の流派に通弊の、エキゾチズムをふりかけすぎた香水のようにまた散らすことがないところがよい。練習番号39のアチェレランド・リタルダンド後のカブキ太鼓をのぞいては。67のグリッサンドやピアノの役割も気に入っているがそれより変化にとんだコーラスや、囁きや呟き(一冬中の不満をかためたようだ)、さまざまな効果の電子的な方法によるねじまげ、そしてステレオ的な処置により音が巫女ジャンヌ・ダルクか詩人ウィリアム・ブレーク(多分)のようにきこえるところなど特に心をひかれる。

 シュトックハウゼンは十年ほど前、彼の《グルッペン》の練習の時、私との初対面で「お気に召さないところをお教え下さい」と申しでた。よろしい。《カレ》はペダル・ポイントに依存しすぎている。69XのDや80の9Cがそうだ(ただしこの楽器のコンビネーションはすぐれている)。はじめと76小節のEフラット(それは時にワーグナーの《ラインの黄金》のレコードがまちがってかかったかと錯覚させるが)、74のはじめの5小節はおどけた低音があまり長く続くので、おくれて入ってきた者はプログラムが変更されてペタロンの当世風演奏になったかと思ってしまう。シュトックハウゼンは82Xのあとのように多忙なときが一番おもしろい。《カレ》を前の《グルッペン》と比べてみると新作はずっと進んでいる。だが半面いくつかの特徴的なずれがあらわれてきているのに気がつく。また《カレ》はもう一つ、この種の音楽に通有の欠点がある。密集から単純に、動から静へ、強から弱、高音部から低音部、トゥッティ(全員演奏)からソロへの変化が往復ともにあまりにも単純なことだ。だが気に入らぬ点をならべ立てるのはもうよそう。《カレ》は私の嫌いな点より好きな点の方が多いのだから。


2.ブリテン《戦争レクイエム》

  《戦争レクイエム》には拍手喝采がいつもつきまとっているし、バトル・オブ・ブリテン(訳注・英国空中戦~ナチス空襲の際の迎撃戦)の感傷もまた大へんなものだし、(訳注・イギリス人のブリテンびいきを皮肉って)さらにそれには彼らの音楽分野における国民的な劣等感がさらけだされていることも加わって、この音楽は、こうした意味でも格好の研究対象となる。自国生れの天才の前に互いに競って身を低めている批評家たちを見るがよい。

  例えば『タイムズ』はこうだ。「ベンジャミン・ブリテンの《戦争レクイエム》のようにこれほど多数の人びとからこれほど熱心に待ち望まれたレコードは少ない」「それをきいたものはほとんどすべての者が即座にこれは傑作だと認めた」...こんなことでバーナード・ショウをひきあいに出すのはすまないが、ショウはヘルマン・ゲーツという音楽家を過大評価していた。「シューベルト、メンデルスゾーン、そしてゲーツ」と彼はいった。読者の多くはゲーツをゲーテのミスプリントと思っただろう。だが「《ヘ長調のシンフォニー》と《じゃじゃ馬ならし》の序曲でのゲーツは過去百年のドイツ作曲家の中で、モーツァルトおよびベートーヴェンとならぶ最高位の作曲家となった」とショウはいった。今日この言葉をきくと妙な気がする。ブリテンの《レクイエム》に捧げられた賛辞ももしかしたら...?そこでチリ紙を用意し「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」の国歌に起立そこなったような気分で曲そのものに目を向ける。すると、a.ブーランジェ時代のストラヴィンスキーから部分的に借りたイディオムでのオネゲル風のシネマスコープ的叙事詩、b.着想というよりパターンだ、(例えば49のティンパニはよい着想だがパターンとしてはまずい)c.効果的でドラマティックなのは、コーラスにはラテン語で、男声ソリストには英語で歌わせた点、d.真の対位法の欠如、e.詩句通りの音が多すぎる(例えばバリトンが「時の太鼓が」と歌うと、間髪を入れずティンパニがトーン、トーン、トーンとうける)、映画音楽的だ、など。

  つまり、一言でいえば、「ほとんどすべての者が」なんといおうと、少なくともこの気のよい聞き手にとっては、桂冠作曲家の保証済みの傑作もやわらかい爆弾に思えるのだ。「圧倒的な成功」と賞賛者はほめそやす。だが、成功より失敗しやすいものはないのである。

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。。。ストラヴィンスキーはブリテンがあまりお好きでなかったようですが、いまのところ戦争レクイエムは一定の評価をキープしていると思われます。


フォーレの後期室内楽曲 (弦楽四重奏曲)

2016-01-25 20:32:01 | 何様クラシック

【2013年9月11日の記事にフォーレの交響曲ニ短調に関するみみっちー怒りを追加しました】

 

電車に乗ってiPodでフォーレのピアノ五重奏曲第2番を何気なく聴いてたんですが、むっちゃ後悔しました。

こんな泣かせ王の心のこもった音楽を人前で聴いちゃいけなかった!第三楽章はその悲しみとやさしさに涙を堪えられないです

 

作品番号100番台の室内楽を聴いてる間はボクのような性格ヒン曲がった人間でも気持ちよく素直な人格になれる気がしますね~!

しぬ前は時間とお金をかけて地球上のいろんなところを見てまわるよりこれらの哀しくも美しく前向きな音楽たちのうち一曲だけを聴くだけで十分。。

 

後期室内楽曲は全部好きだけど、今の自分が特に気に入っているのがこのピアノ五重奏曲第2番と、ヴァイオリン・ソナタ第2番、それと弦楽四重奏曲です。

 

このうち弦楽四重奏曲はフォーレ最後の、なんと79歳のときの作品!噛めば噛むほど味が出る、スルメ音楽の代表格かも。

この曲も雑念捨てて集中して聴いたら泣くなっていうほうが無理。

ドビュッシー(ラヴェルでしたっけ?)に「フォーレ先生、弦楽四重奏曲を書いておいたほうがいいですよ」って後輩にすすめられて作られたこの曲の、特に中間楽章を聴いているときはベートーヴェン後期を含めたあらゆる弦楽四重奏曲の中でもしかしたら最高かもって。フォーレの室内楽ではベートーヴェンみたいに独りぼっちでなく、つねにフォーレが誰かと対話しているような気が。。フォーレ以外の誰かが確実にいる。

だからかもしれないけどいかに自分が日常のストレスに無意識に悩んでるかに気付かせてくれて、つらかったねって優しく癒してくれます。

本当に良い曲というのは自己主張するだけでなく、聞き手一人ひとりの心の声にも耳を傾けてくれるものなのか。

 

でも最初で最後のピアノなしの室内楽なもんだから、何となくピアノ欠乏感があるんですよね。いつもは当たり前のようにいた大切な人がいないっていうか。。もしかしてフォーレ自身?

実は地上の弦楽四重奏に合わせ天国でフォーレがピアノを弾く図式の五重奏曲第3番なのでは?なんて

 

それにしても70歳台のフランス大作曲家爺と極東のアホな若造が時空を越えてちょっとでも心が通じるなんて、音楽ってすごい~

自分もいつまでも若々しい感性のジジーになりたい!

。。。とか自己満足の世界に浸っていたら

 

ヴァイオリン・ソナタ第2番の第2楽章のテーマは1884年の交響曲ニ短調作品40(廃棄されちゃった、残念!)からの転用だし(チェロ・ソナタ第1番Op. 109のどこかの部分もその交響曲からの転用だそうです)、弦楽四重奏曲第1楽章はヴァイオリン協奏曲ニ短調作品14から取られたものだったんですね。知らないで初めてコンチェルトを聴いたときはビックリ!

これって有名な話らしいけど、ボクは迂闊にも知りませんでした。

なるほど爺さんの割には青春っぽいはずや。。ってか俗物の発想だと良き青春時代を回想してるわけやね。

他の室内楽曲にも若書きの引用があんのかな?

 

でもそんなことに関係なくボクにとって泣かせ王であることには絶対変わりないのです。

Gabriel Fauré (1845-1924) マルセル・プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の写真コレクションより

 

【追記】2016年1月25日夜7時30分からのNHK-FM「ベストオブクラシック」でヤノフスキ/クリーヴランドによる、廃棄されたはずのフォーレ交響曲ニ短調が放送されるんですね。必ず聴かねば!

 

【さらに追記:2016年1月25日20時30分】

怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒

なんか普通にフランクの交響曲が始まったけど!? 早めに帰宅して録音態勢万全で待機してたのに。。。


ルドルフ・ゼルキン初来日時の公開レッスン(1965年)

2016-01-20 20:14:19 | 来日した演奏家

ピアニスト、ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin, 1903-1991)は1965年に初来日しています。

そのときの演奏会については詳しくはわからなかったのですが、東京文化会館アーカイブによると、少なくとも5月18日にはペーター・マーク指揮読売日本交響楽団とモーツァルトの協奏曲第27番を、5月24日にはケネス・オルウィン指揮同オケとベートーヴェンの協奏曲第3番及び皇帝を弾いています(パワフルですね)。ちなみにN響とはやっていません。

ところで『藝術新潮』1965年7月号によるとこの来日時にゼルキンは5人のピアニストに公開ピアノレッスンを行ったそうです。



レッスンを受けているのは江部公子さんというかた(場所、日付不明)。ゼルキン、やさしそう。純真無垢な音楽青年のまま年齢を重ねたって感じがいいですね。

 

↓ 若い頃のゼルキン(『レコード音楽』1940年7月号より)



(来日公演や公開レッスンについて情報を追加していきます。)