チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

伊豆の民宿のジャン=ピエール・ランパル(1983年)

2016-03-31 00:00:46 | 来日した演奏家

フランスの名フルーティスト、ジャン=ピエール・ランパル(Jean-Pierre Rampal, 1922-2000)は大の親日家だったんですね。

日本酒が大好きでアイスクリームにまでかけてしまうし、来日時はひとりで新橋の焼鳥屋に行ってサラリーマンと盛り上がっちゃったりしたそうです。

そんなランパルに心酔した赤星恵一氏ら50名ほどのフルーティストは「ランパル・ファンクラブ」を結成し、1981年の来日時に伊豆への一泊旅行を申し出たところランパルは快諾。伊豆の海はランパルが別荘を持っていたコルシカに似ているということでご満悦だったようです。

画像は1983年来日時(14度目!1964年初来日)における再度の伊豆合宿の模様です。夕食後のフルート教室。Wikipediaによると20世紀の最も偉大なフルート奏者なのにめっちゃフレンドリー!


↑ ゆかたでフルートを構えるとパンツ丸見え(黒のシルク)。

 


↑ 目のやり場に困った女性が「先生、見えてますよ」

 


↑ 前掛けかけましょねー

 


↑ フルート教室は無事終了

(フォーカス誌1983年11月11日号より)

 

【ご参考】 ランパル初来日直前の雑誌広告(1964年)より


音楽教科書のウィーン・フィル(いつの演奏会?)

2016-03-28 19:31:43 | どうでもいいコーナー

1983年・教育出版発行の音楽の教科書『音楽1』を眺めていたら、あまりの面白味のなさにみんなクラシックがキライになるわけだわ~と呆れたわけですが、カラーページに「オーケストラ(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)」とだけ書かれた画像が載っていました。不親切なことに他に説明は一切なし。

これは挑戦状ですね。年月日、演奏曲目を解明するしかないです!?



場所が東京文化会館であることは明白。

さらにこの教科書は昭和56年(1981年)3月31日に検定されているので、それ以前の撮影のはずですよね。



すばらしく簡潔にまとまった「ウィーン・フィル来日公演記録」によるとウィーン・フィルの1981年までの東京文化会館における演奏会は以下のとおりです。

1969年:ショルティ指揮

1973年:アバド指揮

1977年:ベーム、ドホナーニ指揮

1980年:マゼール指揮



指揮者の後ろ姿(特にヘアスタイル)からするとショルティかマゼールということになろうかと思います。



しかし上記リンク先で、オーケストラの編成(けっこう大きいです)がぴったり合う曲目が見つかりません。R.シュトラウスの「ティル」「死と変容」もちょっと違うし、もしかしてカラヤン/ベルリン・フィルみたいに楽器を倍増してたり?

いつの演奏会で何が演奏されているのかわかったら追記します。(勝手にしろって感じ?)


ベートーヴェンが書いた最後の音符?

2016-03-25 19:18:15 | メモ

新時代社『ベートーヴェン 偉大な創造の生涯』という気合の入った本を買いました。

「限定2000部のうち第674号」ということで値打ちもん!? 1500円も出費してしまいました。



中身を見ると「第10交響曲の自筆スケッチ」が目を引きました。



下に記されているのはアントン・シンドラー(Anton Schindler, 1795-1864)による覚え書きです。

Dies hier auf dieser Seite sind die letzten Noten,
die Beethoven ungefähr zehn bis zwölf Tage
vor seinem Tode in meinem Beiseyn geschrieben.
A. Schindler.

「このページの音符は、ベートーヴェンの死のおよそ10日から12日前、私の面前で書かれた最後の音符である。A.シンドラー」

ただし、いまではシンドラーは嘘つき呼ばわりされており、彼によるベートーヴェンの伝記もまったく信用されていないようなので、この記述も本当かどうかわかりませんけど。。

そもそもベートーヴェンの貴重な自筆譜に文字を直接書き込んじゃうっていう神経が理解できないです。


日本フィルを指揮した曽根すぐるという詐欺師(1983年)

2016-03-21 22:42:00 | どうでもいいコーナー

フォーカス誌1983年12月9日号から、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮する詐欺師・曽根すぐる(芸名)、当時53歳です。

↑ 詐欺で3000万円のカネをつくり、2度にわたるコンサートにつぎ込んで夢を実現。

ラブリーコンサート』。たしかにちょっとラブリー。1度目は1983年5月17日東京・新宿の日本青年館大ホール、2度目は6月7日東京・五反田。


曽根氏は鹿児島の公立高校で音楽教師をしたあと武蔵野音大の聴講生だったこともあるが、その後の経歴は不明で、本人作成の履歴書には「毎日音楽コンクール1位入賞」、「フランス、ドイツへ海外留学」、「カラヤンに師事」とデタラメが並べられていたそうです。

「中曽根首相は私のよき理解者であり、『曽根すぐる』の名付け親」だとテキトーなことを述べ、手当たり次第に政治家の名前を利用し、印刷業者には「政治家に政治献金すれば自民党にポスターの注文をとってやる」、別の人には「某大学の教授の椅子を世話するから」という調子でカネを集めていったようですが、コンサートや生活に使ってしまってスッカラカンになり雲隠れ、パチンコ屋に住み込んで働いているところを逮捕されました。

写真は6月7日の追加公演のほうで、曽根氏が自作の管弦楽組曲「聖女」を指揮している様子です。2000人近い観客は全部タダで切符を配られた人々で、「聖女」もどことなく幼稚で、名曲をつなぎ合わせたみたいだったにもかかわらず鳴り止まない拍手に曽根氏は涙を流して感激していたということです。コンサート後半は小林研一郎氏の指揮で「展覧会の絵」が演奏されたそうで、聴衆はオトクでしたね。(ちなみにこのスナップを撮影した写真家への支払いも踏み倒したまま)

だまされた人たちからしたらトンデモない奴なんでしょうけど、どこか憎みきれない。。


日本のストラディバリ~峰沢峯三のヴァイオリン製作現場(1959年)

2016-03-11 20:44:39 | 楽器

我が国に外国の名ヴァイオリニストたちに認められたヴァイオリン製作者がいた!

峰沢峯三(みねざわみねぞう、1899-1978)。

そのヴァイオリン製作現場の写真が『国際文化画報』1959年11月号に掲載されていました。

自分は全然知らなかったのですが、名器「日龍」「月龍」というのがあるそうです。かっこええ!


↑裏板の製作。欧米ではノミを使うところだが、峰沢さんはカンナを使う

 


↑このカンナはハンドルが付いている

 


↑手で板の厚みを計る。大切な仕事だ

 


↑横板に使う薄い木片を切る

 


↑先端の渦巻は丹念にノミで彫る

 


↑完成品は峰沢さんがまずテストをし、次に辻久子さんに依頼する。

 


↑作品を点検する峰沢さん。天井の木片は使用する材料、5年以上吊るして十分乾燥させる


以下、同じ雑誌の記事です。(「峯沢峯三」と表記されています)
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 ソ連文化省の招きでソ連各地を演奏旅行していた辻久子さんが、四月二十九日、ラトビア共和国の首都リガでの演奏のあと、ある提琴製作家の訪問をうけた。使用の提琴はストラディバリではないかと訊かれたので、日本の峯沢峯三という人の作だと答えると、「とび上がってびっくりしていた。空気が乾燥しているので、自分でも驚くほどよい音色と音量が出る」と朝日新聞へ伝えてきている。(五月十五日)

 オイストラフ氏もたいへん賞めたというこの提琴の製作家峯沢さんは、親子二代つづいいての提琴製作家である。峯沢さんのお父さんは「ストラディバリもグヮルネリも同じ人間だ、私にできないことはない」と、提琴製作の――いや西洋音楽の伝統さえない日本で製作を始めたのだが、道は思った以上に険しかった。つまずいたのはいくどあったか。あるときなど「もうやめた。おれは八百屋をやる、お前は洋服屋になれ」といったと峯沢さんは述懐している。(九月八日のNHK放送)

 峯沢さんは大正元年、十五歳でこのお父さんの仕事をついだ。神戸に住んだ(現在京都)が、それは神戸は開港場で外人も多く、提琴製作にはなにかと便宜があったからだ。大正十三年、峯沢さんがこの道に入って十二年目にハイフェッツがこの日本を訪れた。当時十九歳のこの天才提琴家は楽屋を訪れた峯沢さんの願いをいれたその提琴を試演したが「なかなかいい提琴だ。だが君が作ったのではないだろう」といったという。いらい日本へ演奏旅行に来た著名提琴家は、ジンバリストクライスラーティボーシゲッティもみな峯沢さんの提琴を試演して激励したが、峯沢さんが辻久子さんと親しくなってからは製作品は全部辻さんに見せることになっている。

 一たい提琴の形状や構造はストラディバリ以後ほとんど変わっていない(高音部を多く使用するため構造が多少頑丈になっている)が、しかし峯沢さんは製作技術については独自のものを生んでいる。峯沢さんはそれを弟子に教えたが、弟子の多くはのちにこの師匠から離れたばかりか、その技術は師匠に教えてやったのだ、といいふらされた苦い経験もなめている。

 ともあれ、峯沢さんの名声はすでに国際的になっている。この写真をとるときでも、フランスから五つも修繕が届けられていた。
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著名な来日ヴァイオリニストや辻久子さんに認められていたとは!
峰沢さんのヴァイオリンは今でも名演奏家によってすばらしい歌を歌っていることでしょうね。日龍、月龍はいまだれの手に!?


↑オイストラフ氏から「いただいたヴァイオリンのお礼に」と送ってきた手箱と手紙。(右は夫人とお嬢さん)

 

↑↓ 週刊新潮1959年6月1日号より。