1年以上前にこのブログに「ウェーベルンを撃ったアメリカ兵士(1945年9月15日)」というのをアップしたのですが、経緯についてモヤモヤ感が残るものだったので、もっと正確・詳細な情報を探していました。
そんな中、最近、三浦淳史(1913-1997)氏の『レコードのある部屋』(1979年湯川書房)という本に出会いました。
128ページからの「セプテンバー・ソング」。これはウェーベルンの死について自分が読んだ中では一番正確だと思いました。
ユダヤ系ドイツ人の音楽学者ハンス・モルデンハウアーという人の執念で謎の死が解明されていたということです。
Hans Moldenhauer, 1906-1987
以下、大切だと思うところを引用させていただきます。
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1950年代の末、オーストリアに遊んだモルデンハウアーはミッテルジルの近くまで来たことを知り、ウェーベルン終焉の地を訪ねてみたくなった。
モルデンハウアーが訪ねたころは、ウェーベルンが仮寓していた家の壁、つまり射殺のおこった場所には、まだ弾痕が残っていたという。
モルデンハウアーは実際に何が起こったのかを知りたいと思ったが、誰もなぜウェーベルンが射殺されたかについて妥当適正な説明をしてくれなかった。モルデンハウアーが自力でその究明に乗り出したのはそのへんであった。
モルデンハウアーは直接託宣所(オラクル)へ照会状を郵送した。この場合のオラクルは、国務長官と国防長官である。御宣託はあった。このへんが、アメリカはよくできている。
政府の公文書保管担当官の返書によると、ご希望の情報は、カンザス・シティ公文書センターの部隊・野戦司令部記録に当たってみたら、発見し得るかもしれないということであった。
数日後、夫の死の直後、ウェーベルン夫人によって述べられた宣誓口述書とその英訳のそれぞれの写しが送られてきた。調書は、米軍MPと軍属の通訳官によって作られたのである。
ストーリーはこうである。
悲劇は、1945年9月15日の宵、オーストリア・アルプスの寒村ミッテルジルで突発し、瞬間に終わった。ウェーベルンとその家族は終戦直後の不安な時期を過ごすため疎開していたのだった。
ウェーベルン夫妻は娘と娘婿のベンノ・マッテル(Benno Erwin Jose Mattel, 1917-?)の家に夕食に招かれていたのだった。マッテルの生活状態は一族の誰よりも良かった。世事に疎いウェーベルンは、娘婿の景気の良さが終戦後は当たり前のことだった闇商売のおかげだという事実に気づいていなかったのかもしれない。
ウェーベルン夫妻は、米軍が娘婿を罠にかけるためその晩を選んでいたことも知らなかった。
ウェーベルン夫人の供述は続く。
「わたしたちは20時ごろ娘夫婦の家に着きました。娘婿のベンノ・マッテルはその晩遅くアメリカ人が来るはずだと言っていました。彼らが21時頃来るとすぐ、夫と娘とわたしは、子供たちが眠っている次の間に行きました。」
そうこうしているうちに、マッテルはまんまと罠にかかり、アジャン・プロヴォカトゥール(agent provocateur、密偵、おとり捜査員)に逮捕される。密偵は軍曹とコックから成っていた。
密偵の計画によって、コックの兵卒はマッテルの逃亡を防ぐため家の外に回っていた。ウェーベルンが、娘婿からもらったばかりの、当時としては貴重品だったアメリカの葉巻を2、3服する衝動に抵抗しきれなくなったのは、まさしくこの瞬間だった。孫たちが眠っている空気を汚したくなかったので、ウェーベルンは家の外に出たのである。
暗闇の中で――まだ燈火管制がしかれていた――ウェーベルンとコックの兵卒との運命的な出会いが起こったのである。
ウェーベルンはたいへん小柄な人で、当時病後の回復期にあった彼の体重は50キロを割っていたという。誰からみても、ウェーベルンは心根の優しい人で、その晩、娘婿のキッチンで何が起こっていたかをまったく知らなかった。しかし、暗闇のなかで、ほんの2、3週間前には敵国だった土地で見知らぬ異邦人に囲まれていたコックは、いつも神経過敏になっていたので、自分が襲撃されるとカン違いした。彼は狼狽して、三発撃った。その一発がウェーベルンの胃に当たった。よろめきながら家の中に入ったウェーベルンは、あえぎあえぎ、苦しい息のなかから、"Es ist aus"(もうだめだ)といって、意識を失った。彼は間もなく死んだ。
実際ウェーベルンを射殺したのは、レイモンド・N・ベル(Raymond N. Bell)というコック兵だった。
やがて、ベルの未亡人から一通の手紙がモルデンハウアーに届いた。
『親愛なるドクター・モルデンハウアー:お手紙にもっと早くお返事すべきでしたが、わたくしは病気でした。それに、わたくしは学校の教師をしておりますので、教職に多くの時間をとられています。お手紙でお尋ねになられたことにお答え致します。わたくしの夫のミドル・ネームはノーウッド(Norwood)でした。誕生年月日は1914年8月16日でした。わたくしたちには6月に21になる一人息子がおります。わたくしの夫の職業はレストランのシェフでした。
夫はアルコール中毒がもとで亡くなりました。わたくしはその事件についてほとんど何も存じておりません。夫が帰国したとき、夫は軍務中に人を一人殺したと申してました。夫がそのことでたいそうくよくよしていたことを知っております。酔っぱらう都度、夫は「あの人を殺さなければよかったのに」と言ってたものです。わたくしは、そのことが夫の病気を起こしたものと信じます。夫はみんなから愛されたたいへん親切な人でした。これもみんな戦争のせいです。
以上のほかのことについては何も存じておりません。さらにわたくしでお役に立つことがございましたら、何なりとお申し越しください。かしこ (ミセス)ヘレン・S・ベル』
結びの句は「もう何も訊いてくれるな」を意味する社交辞令である。
ウェーベルン夫人は、「1949年、ミッテルジルで貧窮のうちに死んだ」とあるから、夫人は夫ウェーベルンの戦後における爆発的なリヴァイヴァルについに逢うことなく夫の後を追ったわけである。
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以上からわかったことは
・ウェーベルンの娘婿はアメリカ軍のワナにはめられた。
・ウェーベルンが撃たれたのは彼の煙草の火が何かの取引の合図だと勘違いされたためではなく、暗闇でウェーベルンに遭遇したコック兵が自分が襲撃されると勘違いしたための事故だった。
・ウェーベルンが息絶えたのは家の中だった。
ウェーベルン、ウェーベルンを射殺したコック、そしてそれぞれの家族も戦争の犠牲者なんですね。
「レコードのある部屋」は古本屋で税込500円で買ったのですが、サイン入り。比較的マニアックな三浦本のファンなので嬉しかったです!
音楽評論家の坂東清三氏が名付け親ってことですか。この本も興味深い情報が満載です。