チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

R.シュトラウス:皇紀2600年に寄せる「祝典音楽」レコード大ヒット(1940)とフェルマーのエピソード

2016-07-28 21:13:10 | メモ

昭和15年(1940年)12月に歌舞伎座における紀元2600年奉祝音楽会で初演されたR.シュトラウスの「祝典音楽」のレコードは大ヒットしたようですね。

「音楽新潮」昭和16年2月号より。作曲者自身の指揮、ミュンヘン国立歌劇場管弦楽団。歌舞伎座での指揮者、東京音楽学校のフェルマー氏(Helmut Fellmer, 1902-1977)の感想付きです。

 

↓ 洋楽レコードの最高記録を作ったようです。2万組追加募集(同誌4月号)。全部で何万組売れたんでしょうか?

 

↓ 『レコード音楽』1941年1月号より

いまやこの録音も、フェルマーの録音もNML等ネットで聴けるんですね。いい時代!

 

(追記)
文芸春秋漫画読本1961年1月号に、東京音楽学校教授で、紀元2600年奉祝音楽会で指揮をしたヘルムート・フェルマーのエピソードが載っていました。書いたのは漫画家の岡部冬彦氏(1922-2005)。東京美術学校(現東京芸術大学)卒だそうです。

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  当時【昭和16、7年頃】は、渡邉暁雄さんがコンサートマスターで、時々バトンを振ったり、森正さんがフルートの助手なんかで、やはり時々バトンを振ったりしていた頃で、主に作曲家のヘルムート・フェルマー氏が校内オーケストラの指揮をしていた。フェルマー氏はヒットラー・ユーゲントの日本支部長かなんかをしていた、若いいかにもドイツ人らしいパキパキした人だったが、その作曲科に、林という友人がいた。ヒゲダルマみたいな男で、勤労奉仕に行った茨城県の友部から東京まで、何を思い立ったか数日がかりで、ワラジばきで徒歩旅行するような快男子だったが、或る時、フェルマー教授が学割(教授にも学割があった)の紙を二枚もって来て、その林に片カナで名前を書きこんでくれという。二枚はおかしいので聞くと
「コレ、ワタシのオクサンのデス」
という。そこでよせばいいのに
「オクサンというのは日本では、下層階級でしか使わない言葉ですから、あまり使わない方が良いですよ」
「デハナントイイマスカ?」
「上流階級ではオッカアというんです」
 
 さて、当時の乗杉校長【乗杉嘉壽、1878-1947】のところへ行ったフェルマー教授が
「コレはワタシノ、コッチはワタシのオッカアのデス」といったので、校長はビックリ、ワケを聞いたフェルマー教授は烈火の如くなったそうである。

 それでどうなったと、後日当人に聞いたら
「ドイツ人というのはクシャミは失礼だけど、オナラは失礼じゃないもんだから、フェルマーがオレを叱るのに、興奮してオナラをしながら叱るんだナ。おかしくてたまらないからつい笑っちゃうと、ますますイカり、ますますオナラするんで、どうにも困ったよ。だけどあれがほんとのブーブーいうってヤツだとシミジミ思ったね。」

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「林という友人」って誰なんでしょうね?林光(1931-2012)は年代が合わないから違うだろうし。


新世界レコード「ソヴェト盤LP・SP」のカタログ(1955年)

2016-07-27 23:41:23 | メモ

「音楽之友」1955年9月号から、新世界レコードのソヴィエト盤の広告です。

↑ 東京の特約店は十字屋、コタニ、京橋堂。

 

↑ プロコフィエフ「平和の守り」サモスード指揮、カバレフスキーのチェロ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲(どちらも作曲者指揮)、あとミャス21(イワーノフ指揮)などを聴いてみたいです。

 

 

↑ 「78回転LP」というのがあったんですね。それと、この時代にまだSPレコードが発売されていたとは。

とにかくCD化されていない音源をレコードで再生してみたいきょうこの頃です。


日本最古(?)の洋楽の太鼓譜(ヤッパンマルス、1868年)

2016-07-22 22:56:47 | メモ

『音楽現代』1971年8月号に「慶応年間の太鼓譜見つかる」という記事がありました。

↑ 太鼓譜の表紙。

↑ 古代文字みたい。左下には「ヤッハンマルス」「ヤッハンヲワリ」というカタカナが見えます。



宗像喜代次氏による文章を要約します。

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日本で最も古いと思われる洋楽の太鼓譜が福島県史の編纂の過程で発見された。それは「ヤッパン・マルス」というもの。つまりこれは「日本行進曲」という意味であろうか。慶応4年のものである。

当時西洋式の軍隊がいかに合理的なものかと感じていた薩長の武士は、洋式軍事訓練を行う場合どうしても洋式の軍楽隊を必要としたし、行進曲も必要としたことは当然である。

ここに発見された太鼓譜は慶応3年1月から六ヶ月間、福島県の須賀川にあった横田藩の下級武士が江戸でヤッパン・マルスを習得し太鼓二つを持ち帰ったという記録である。この下級武士の名は「岩谷愛造朝明」といい、このヤッパン・マルスのことが出ている古文書は「岩谷愛造朝明横田領溝口家江被 召出侯次第」という。

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↑ よくわからないけど岩谷愛造(蔵?)さんがヤッパン・マルスを習ったということが書いてあるらしいです。

 

。。。上の太鼓譜は現在では解読されているんでしょうか?日本人初の洋楽パーカッショニストかもしれない岩谷さんがどんなふうに太鼓をたたいていたのか確かめたいです。


来日中のウィーン少年合唱団の発声練習(1956年、東京・駿河台)

2016-07-20 22:35:40 | 来日した演奏家

アサヒグラフ別冊「映画と演芸」1956年4月号から、その頃来日していたウィーン少年合唱団の練習の模様です。

声楽家の木下保氏(1903-1982)が東京・駿河台のホテルに宿泊中の合唱団を訪れました。

↑ 左がアルト、右がソプラノ。練習はまずこの二人から始まる。トラック氏は伴奏を弾きながらめいめいの発声法や一字一句の発音、表情などを訂正する。二人は注意深くその言葉を聞いて歌ってゆく。こうして約20分間で立派な独唱部ができあがる。

 

↑ 独唱の二人の練習が終るころ。いつの間に入ってきたが気がつかないほど静かにみんなが並んでいる。日本のように形式的な敬礼などは一切抜きで。トラック氏はすぐ練習についての説明を始める。

 

↑ 僅かのリズムのずれや音程の狂いも決してききのがされない。すぐ演奏は中止。悪い者は完全になるまで何度でも歌わされる。時には立ち上がって真剣に指揮者と意見をたたかわせる者もある。

 

↑ 創立以来450年。何百人が四組にわかれ、一組はウィーンに、他は各国を廻っている。ステージでは白いセーラー服に黒ズボン。両手を後に組んで歌う。

 

↑ 母音の「イ」の口のかたち。

 

↑ 独唱の部分を練習するソプラノとアルトを歌う少年の口の形。口が無理なく自然に開かれているので、声は口の中、上あご、鼻腔、前歯などにひびいて深いニュアンスのある柔らかい歌声になる。

上から、「ウ」「エ」「オ」「ア」の模範的な口の形。このように無理をしなければ高い声も出やすいわけである。日本の子供もこうした歌い方をさせれば美しい声が出る筈だ。

 

 ↑ 「日本では無理に大きく口を開く子供の声は扁平でうるおいのないものになってしまうのです。ウィーンの少年は一人一人に合った口の開き方を教えられているのです。」

 

。。。なるほど、自然な声を出すには人それぞれ口の開き方がちがってていいんですね。

↑ 1956年12月20日NHKホール。総勢21名。

【朝日新聞、船山克氏撮影】


大正時代のSPレコード製造現場(1924年)

2016-07-18 22:02:11 | オーディオ

『国際写真情報』大正13年(1924年)3月1日号に日本のSPレコード工場の写真と記事が掲載されています。

 



↑「発明王エヂソン氏が蓄音機を発明してから未だ幾年にもならないが」だって。

 



↑ 1.「オーケストラ、三味線を吹き込む時は室内の温度を適当にあたためて音波の伝播に都合のよいように調子をとるのがなかなかむずかしい。」

 



↑左 2「吹き込み機械で、蝋板の上に音波を刻んでゆく。」
↑右 3.「吹き込んだ蝋板を銅でメッキする。」

 

↑ 4.「メッキされた銅板を更に銀メッキして、レコード複製用とする。これに銅板(一分位の厚さ)のものをシンとしてハンダで貼りつける。」

 



↑ 5.「蝋板からレコードのできるまで。右より吹き込みの蝋板、銅メッキしたもの、それを銀でメッキしたもの、これを引き離したもの即ち精製用の原型。この原型に流し込んでいよいよ発売する。」

 



↑ 6.「こうして出来た原型に今度はレコードの原料になるラックを流し込む。このラックの質の良否は発声に際して影響があるから充分選択する。」(なぜか画像が上半分しか表示されないことがあります)

 



↑ 7.「6でラックを挿入したものを中央にある機械に入れて乾燥させる。そして取り出すとレコードが出来る。」

 



↑ 8.「出来たレコードは原型から離して仕上げをする。これでいよいよ発売の段取りとなる。」

 



↑ 9.「発売盤及び機械の製作。」


。。。どこの工場であるか判明せず残念ですが、SPとLPの違いだけで大正時代のレコードの製造過程が昭和とほとんど同じというのは意外でした。