1960年9月から11月にかけて、NHK交響楽団はNHK放送開始35周年記念行事の一つとして、初の海外公演を成し遂げました。(但し1939年及び1940年にはソウル公演を行っています。)
指揮は岩城宏之、外山雄三のほかにイギリス、アメリカではシュヒター、独奏者は堤剛、中村紘子、そしてヨーロッパでは園田高弘、松浦豊明の参加がありました。さらに、パリでの10月24日の国連デー演奏会ではパウル・クレツキ指揮のもとで、ピアニストのウニンスキー、そしてなんとフィッシャー=ディースカウとの共演があったそうです。
この初の海外演奏旅行は大成功だったようです。日本の楽壇にとっても歴史的なイベントですね。
『NHK放送文化』1960年12月号には、帰国後の座談会記事「NHK交響楽団海外公演から帰って」が載っています。とくに前半はけっこう面白いです。
出席者は写真右から
吉川義雄(NHK芸能局長)
安藤膺(NHK芸能局次長)
吉田雅夫(NHK交響楽団フルート奏者)
岩城宏之(NHK交響楽団指揮者)
松島通夫(NHK交響楽団事務長)
福原信夫(NHK芸能局音楽部副部長)
司会・中山卯郎(NHK芸能局音楽部副部長)
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《12カ国、24都市で30回の公演》
司会 NHKの放送開始35周年記念行事の一つとして、NHK交響楽団が、海外に派遣され、8月29日出発、11月4日帰国まで、12カ国、24都市をめぐり、30回の公演をして大きな成果を収めてきました。おつかれさまでしたと申し上げるとともに、成功を祝福したいと存じます......。そもそもこの計画はいつごろから具体的な話になったのでしょうか。
吉川 N響海外派遣ということは、古垣さんや永田さんがNHKの会長であった時代からずっと言われていた抱負で、それが具体化するきっかけがなかったため、のびのびになっていたのです。去年、ウィーンの音楽祭に来ないかという話があったことと、イギリスのBBC会長が日本を訪ね、野村前NHK会長に会ったとき、「交響楽団の受け入れ体制があるが......」と打診があり、その二つがきっかけになり、35周年記念事業としてやろうということになったわけです。はじめはヨーロッパを中心にやるつもりで、フランス、ドイツその他の国に対する照会、連絡が開始されました。外務省から文化使節として行ってくれないかとの話もあり、さらにソビエトにおける日本の見本市の関係で、ソビエトにも来てくれないかという要請があったので、行く範囲が広がり、ソビエトに行くなら、アメリカにも行こうとなり、いっそのこと世界旅行にしたほうがよい......とだんだん行く範囲が大きくなったことは事実です。
司会 ヨーロッパの古い伝統ある都市での演奏......その都市のもっている雰囲気をどう感じ取られましたか。
岩城 モスコーでチャイコフスキー、ベルリンでベートーヴェン、パリーでラベル......というように、音楽の本場に行って、しかもその十八番を演奏する、という大事業をしてきたのですけれども、別に精神的な圧迫感はなく、割合に楽な気持ちで演奏することができました。というのは、その都市に着いたとたん、ああ総本山に着いたのだなあ、という喜びが先で、そのわりに硬くなったりせず、非常にのびのびと演奏しました。あとから考えるとおかしいくらいです.......。
司会 西洋との精神的、音楽的交流は、最近非常に緊密になってきているとはいうものの、現地に実際に行ってみて、いままでと違った感懐があったのではないか、と思われますが......。
岩城 私は、オーケストラとともに、スケジュールを無事に終えれば......という責任感、緊張感が先で、そういうことを味わっている暇がなかったというのが本当のところです。そういう意味では無我夢中だったのです。ただ、ヨーロッパは、そのどこかにいさえすれば、すべて音楽の中心地に浸っているのだという安心感.....自分の家にいるような気安さを感じました。音楽の国ヨーロッパという気分......ちょっとバスで一時間も行けば、違った国に行ける......それがうらやましかった。
司会 その土地土地のオーケストラのメンバーが、N響の公演をどう受けとっていたかについて......
松島 NHKがかつて招へいしたウィーン・フィル、ベルリン・フィルの人たちが日本に対してとてもよい印象をもって帰国したということが、われわれの旅行に有形無形の力になったことと思いますね。われわれの音楽会の成功を、わがことのように喜んでくれ、なにくれとなく世話して下さった点、本当に感謝しています。演奏上の問題ばかりでなく、個人的なつきあいでも、短い時間ながら、大いに交歓し合えたことは、すぐにわれわれにプラスの面となって現れるかどうかは別として、長い目で見れば、非常に大きなプラスになってかえってくると思います。
福原 ベルリンでの演奏が成功を収めた裏面には、ベルリン・フィルの人々の暖かい厚意が、大きな力をいたしたと言えましょうね。
吉田 ぼくは前から考えているのですけれども、日本のオーケストラは、決して外国のまねをする必要はないと思うのです。われわれの演奏スタイルを、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルの人に見てもらいたい、という誇らしい気持で、日比谷公会堂でやっているときよりずっと気楽に演奏しました。演奏会が終わると、ウィーン・フィルも、ベルリン・フィルも、各セクションに分かれて、個人的に迎えにくる。フルートはフルート、ヴァイオリンはヴァイオリンというふうに......。すっかり歓待され、ホテルに帰ったのが午前4時(笑)ということもありました。みんな酔っぱらって、お互いに言いたい放題を言いました。外交辞令を抜きにして、お互いに演奏上のことを議論し合ったのは、大変な収穫です。ウィーン・フィルの人たちには、弟分のオーケストラが来たような気持だったかもしれない。御愛嬌に”ブルー・ダニューブ”をやったら、ボスコフスキーが、客席で涙を流していました。......ウィーンでは、「われわれはフランス・スタイルだから、そのつもりで聞いてもらいたい」といい、パリーへ行っては、「われわれはパリーのスタイルより重い。少しウィーンが入っている。パリーのオーケストラにはこういう音は出ないだろう......」と、日本のスタイルで堂々と押し通しました。やはり、それが一応、世界で通用したのではないかと思います。......ドイツ人が「ベートーヴェンをやらせたら、アメリカよりも日本のほうがうまい」と言う。酔っぱらって言うのだから、うそじゃないと思う。(笑)
《ジンギスカンの襲来以来じゃないかと》
司会 演奏旅行中、各地の批評家と直接にメンバーの方々とが話し合われたケースは......?
吉川 演奏が終わってから、廊下で話しをしたり、楽屋に訪ねてきたのと話したり......。本格的な話し合いは、旅行日程がいそがしいから、あまりできなかった......。パリーのように多少ゆとりのあったところでは、先方から申し入れしてきたのでやりましたが......。イギリスの新聞は、ふつうは外国のオーケストラのために、そんなに紙面をさかないのに、日本のオーケストラがはじめて世界旅行をしてきたというので、大変大きくスペースをさいて報道していました。向こうとしても珍しいらしく、記者会見の席上でも「日本のオーケストラはどんな構成か。ヨーロッパのオーケストラと同じ楽器の構成か」という質問が出たほどです。三味線かなにかが入ってるのじゃないか、ということなんでしょう......。
福原 それが実状でしょうね......。それだけに、今回の演奏旅行の成果が大きい、と言えます。
吉田 町に着くと、二十人くらいずつホテルに分宿する。ホテルの連中が「お前たちはなんだ?」「シンホニーオーケストラだ」「日本の楽器を扱うのか」「西洋の楽器だ」......。わきで聞いていたボーイが、「フン」という。(笑)ところが、そういう連中も、音楽会が終って、翌日の新聞を見てからは、ガラッと態度が変る。(笑)
吉川 新聞記者の中には、雅楽を知っているのがいて、「雅楽もとり入れているんだろう......」という質問も出た。......録音や本などの交流で、ある程度分かっているだろうと思っても、このようなわけで、ナマで向こうで演奏したのが、大変な意味をもつことになりました。
福原 雅楽を知っているといっても、非常に概念的なんです。
吉田 向こうとしては、どれだけの技術があるのか分からなかったでしょうし、演奏会場でやるとしても、果たしてどれだけ演奏できるか、という気持があったのでしょう。「日本にオーケストラはいくつあるか」と岩城君にきく。岩城君が「東京にだけでも六つある」といばっていた。(笑)演奏が終ると、「日本人はどうしてこんなに早くマスターできたのだろうか」と不思議がっている。「日本の音楽教育は百年、親子三代にわたっているから、このくらいは当然だ」と答える。(笑)
安藤 向こうの関係者も、こちらが送った録音テープあるいはNHK国際局のトランスクリプションを通じて、一応N響の演奏を聞いてはいたのですが、それでも気になるとみえて、フランスのマネージャーなどは、ルツェルンやらスイスの先にやる演奏会場にわざわざ様子を見に、聞きにきていました。ところが、ルツェルンでもウィーンでも非常によかったので、大変気をよくして帰ったようです。全般的に言って、演奏してから、NHK交響楽団はこうだということが分ったのが本当のところで、実際に聞くまでは、全部の人が疑っていたのじゃないかと思います。
吉川 ベルリン・フィル、ウィーン・フィルの人たちは別ですがね。
岩城 それ以外の土地で、演奏前レセプションに行くと、一応表面的には紳士的に「みなさんの演奏を聞くのがたのしみだ」と言ってはくれるのですが、(笑)本心はどうもそうではなさそうだ、ということがなんとなく態度に現われている。演奏会が終ると、同じ人が、掌をかえすように、大事にしてくれたり、率直に喜んでくれる。
吉川 演奏会が終ってからはじめて日本を認識する......。無理な日程だったので、指揮者、楽団員にはお気の毒でしたが、世界中にこちらの感じを、じかに与えたのは、なによりもよかったと思います。
司会 メンバーは何人でしたか。
松島 百二十五人。これは、一行に加わった延人員です。
安藤 堤剛(チェロ)君と中村紘子(ピアノ)さんが入れかわったり、現地で、園田高弘(ピアノ)、松浦豊明(ピアノ)の両君が入ったり、出入りはありました。
松島 帰国したときは百二十一人です。
司会 大変な人数でしたね。
吉川 だから、向うでは、ジンギスカンの襲来以来じゃないかと......。(笑)
吉田 スカラ座では、まさにそういう感じがしました。東洋人が百二十数名。ワッと押しかけて、スカラ座をひっかきまわした。(笑)
福原 イタリアの新聞も、「スカラ座における日本人の勝利......」と大きく見出しに書いていましたね。
↑ ミラノ・スカラ座公演。指揮・岩城宏之。1960年9月28、29日(『NHK交響楽団五十年史』より)
↑ ミラノ・スカラ座で熱狂する聴衆
司会 N響は、日本人だけで構成されている交響楽団で、このように一つの人種だけの楽団は、外国にも例がないのではないでしょうかね。いわば、大和民族のオーケストラですものね。......これだけの大世帯の楽団ですから、楽器の数も多く、N響事務局のご苦労も大変だったでしょうね。
松島 なんと言っても、はじめての海外演奏旅行ですから、かなり前から、楽器の輸送ケースを作る準備をしました。いままでに日本にきた外国のオーケストラのものも参考にしましたが、実際に作る段になるといろいろの困難にであいました。そういうものを専門に作る業者がいない、航空機で運ぶ関係で、荷物の目方とともに容積の制約をうける......あれやこれやで、梱包屋さん、家具屋さん、トランク屋さんなどの力を借りてでき上がりました。大体において、輸送上の大きな事故もなく帰ってくることができましたが、もしも、トラックや汽車による輸送がもっと多い場合だったら......と思いますね。よい経験を得ました。
《フルトヴェングラーもカラヤンも......》
司会 はじめて海外に行かれた方が大部分じゃなかったかと思うのですが、見物や見学やらの収穫は、いかがでしたか。
安藤 そういう気持はみんなもっていたし、また余暇を見つけてはしたに違いないのですが、それも練習のために、思うようには果たされなかったのです。着いたところでは必ず午前中練習して夜の演奏会にそなえる。演奏会のはじまるのは、八時とか八時半、ときには九時。午前練習して夜の八時すぎまで遊んだら、疲れてしまうわけでめいめい自制して、休養をとってました。そのおかげで、最後までもったのですね。
吉田 ぼくは、午後はほとんど昼寝でした。それに、どうしても毎日洗濯しなければならない。(笑)
岩城 僕も、暇な時間は寝てました。ウィーンは音楽の故里で、いっぱい名所があるのに、一つも見ませんでした。
吉田 演奏会をすませて、夜に帰って、ごそごそとしていると、寝るのは一時か二時になる。残念ながら、あまりほうぼう見れませんでした。
司会 面白い話は?
吉田 小遣いが少ないので、床屋に行くのがこたえたね.....。
岩城 床屋はとても高いんです。
吉田 だから、仲間で全部やっちゃった。(笑)器用な人がたくさんいて......。
岩城 ちゃんとスケジュールを作って、誰さんは何日の何時にきてくれ......(笑)
吉田 部屋で毛を散らかしてはまずいので、バス・ルームの中で、やるほうもやられるほうも素っ裸で......(笑)
吉川 私は行く前に、いちばん短かく刈ってもらった。(笑)ロンドンで一回しか床屋に行かない......。福原君は、ミラノの床屋に行って、うっかり眠っちゃって、四千リラ取られた。(笑)
福原 疲れているので、ついウトウトとしちゃったのですね、ふと顔があついので眼をあけてみると、吸入器がかかってる。「しまった、こいつは高いぞ」と思いましたね。(笑)前車の轍を踏まぬように、恥をしのんで、団員の人々に注意してもらいました。
岩城 演奏会場には、どこでも指揮室があり、それにトイレがついている。それが大抵お粗末で、とくにウィーンのフェラインザールのは、水を出すとき一メートルくらい、ある方向にはね返って飛ぶ。よほど用心しながら紐を引かなければならない。フルトヴェングラーやカラヤンが、みなそういう姿勢で紐を引っぱっていたのかと思うと、おかしくてたまらなかった。(笑)
↑ ウィーン・ムジークフェラインザール。9月13、14日
司会 そういうホールは、みな構造が古いのでしょう。
吉田 ワルシャワなんかは新しい。ベルリンは仮りのじゃないですか。
福原 あまり知られていないが、ポーランドのビドゴシッチのホールはよかったですね。あそこは、大統領をやったピアニストのパデレフスキーの生まれた所で、その記念ホールなのです。内部はコペンハーゲン式の木製の壁ですが、とても音がよい。数年前の建物だそうです。
岩城 世界の音響科学の粋を集めたのがロンドンのロイヤル・フェスティバルホールです。そのほかのは、音響のことを特別に考えず、ただ箱みたいなものを建てたにすぎない。古いところは大抵そうです。ところが、そういうところでは、すべていい音がしている。ぼくたちはそのほうが好きですね。
司会 残響が少し延びるのですか。
吉田 すごい残響です。
岩城 残響が何秒だというのでなく、音の溶け具合がいいですね。
吉田 ホールそのものが弦楽器の胴体みたいな感じがする。
安藤 放送屋としては、あんなに残響が大きかったら、どうにもならないですよ。
↑ こちらは、10月19日イギリス・BBCテレビスタジオにおけるレコーディング・セッション。シュヒター、中村紘子。ショパンの1番、外山のラプソディー。録音は残ってるのか?
→ このときの動画がYouTubeで見られます。(沼辺様のコメント↓参照。ありがとうございました。)
福原 プラーハのスメタナ・ホールなどは、こだまが返ってくる。それに過渡特性がわるく、ピークの出るところもあるくらいです。実際マイクを通して聞いてみるとお風呂屋のような感じで、よろしくない。その点、ステージ上の演奏家の立場とは違いますね。ステージまで返ってくるほうが演奏者はやり易いが、マイクを通すと必ずしもそうではない。けれども、ブラームスなんかは、残響のある程度長いほうが、立派に聞こえますね。
岩城 古いホールは、ブラームス、ベートーヴェンのようなロマンチック以前の曲には適しています。
《応援団をうしろにして演奏しているような気持》
司会 空気が乾燥しているので音が延びるということを、身をもって体験されたと思うのですが、日本と非常に違いますか。
岩城 非常に違います。ことに弦楽器の音は全く違います。信じられないくらい艶が出て鳴るのです。......日本に帰ってきてNHKホールで演奏したら、気のせいでなく、実際に楽器の鳴りは悪くなっている。......パリー、ロンドンは、霧があるし、雨がしょっちゅう降る、湿気が少ないとは思えないのに、よい音がする。お客さんが、どこも大変素晴らしかったんです。ぼくなんかお辞儀下手です。それが、なんの抵抗もなく大変しやすい。あのくらいお客が暖かく迎えてくれるとお辞儀も自然に出ます。それと同じ感情が、オーケストラと客席との間の交流にある。そのため、演奏もどんどんよくなっちゃうということは考えられます。
吉田 応援団をうしろにしてやっているような気がする。(笑)少なくとも、敵のまっただ中に乗りこんでやるという感じはありません。
司会 持って行ったレパートリーの中には、外山雄三、高田三郎さんの作曲された作品がありましたが、聴衆のそういうものの受けとり方はどうでしたか。
吉田 ナポリで外山君の『ラプソディ』をやったらお客さんが廊下で踊り出した。
岩城 直接的なんですね。
福原 ミュンヘンでも、総立ちの聴衆の中で手を振って踊っている人がいた......。
↑ 9月26日、ミュンヘンドイツ博物館コングレスザール。総立ちの聴衆
岩城 プラーハでは「自分はハンガリヤ人だ。あのメロディには感激した」と、手をさし出しながら、涙をポロポロ流している人もいました。『えんぶり』『まんだら』(註:黛敏郎の曼荼羅交響曲)はベルリンで好評で、ベルリン・フィルのメンバーも、もう一度聞きたいと言っていました。だから、それはそれ、これはこれ、といった感じです。
司会 『えんぶり』『まんだら』の系統の作品と、『五つ木の子守唄』『ラプソディ』の系統の作品とでは、向うの受けとり方は相当違うのではないか......。
吉田 ベルリンのような進取の気性に富んだところに行くと、モダンな音楽は相当に受けるし、そうでないところに行くと、なかなか理解しにくいようで......。
岩城 一般のお客さんはそのとおりですが、『まんだら』をやったおかげで、その土地の音楽の専門家、オーケストラのメンバー、批評家には、大変いい影響があったのじゃないですか。
吉田 演奏会が終って街に出たら、急にある人が近づいてきて、「素晴らしい......お前、笛吹きだろう?」「そうだ」「お前の笛は、フランスでもドイツでもイタリアでもない、まさに日本だ」と大変な感激なんです。このおじさんずいぶん熱狂的だなと思って、握手して別れたら、そのおじさんに女の子がワーッとたかっている。あとで、それが有名な指揮者チェリビダッケと知ってびっくりした。そのときぼくは、俺はこれでいいんだと思いましたね。
福原 チェリビダッケは、打楽器もとてもほめていましたね。世界一流だって。
司会 よそのと較べて、N響のオーケストラとしての特性について......。
吉田 ぼくの感じでは、まだ弱いと思うのです。弱いというのは、日本のオーケストラの性質からくる積極性の不足ということです。......アンサンブルをよくやる、ミスをしない、けれども、もう一歩進歩するためには、各プレーヤーが積極的に演奏しなければならない。味をつけるというか、個性を出さなければいかんのじゃないでしょうか......。一応われわれの技術は外国に行っても恥ずかしくないし、通用する。しかし、それだけではいけない。世界中には自分らよりも下手な者がたくさんいて、結構それで飯を食っている。ところがパリーで、コンセルヴァトアールに見学に行きましたが、あそこには、われわれから見ると、神様クラスの先生がいる。世間は広いなと思い、やるべきことはたくさんあるなと思いました。
岩城 ザグレブ(ユーゴ)のフィルハーモニーが、素晴らしいオーケストラだったり、そうかと思うと、評判のものが案外だったり、いろいろなことがわかりました。
吉田 いろんなのを見ているうちに、自分たちが、世界の楽団でどのくらいの技術をもち、どのくらいのことができるかということがわかって、みな自信をもったと思います。
《芸術作品として昇華している日本人の作品を》
司会 長い間たくさんの公演を続けられたのですが、健康はどうでしたか。
松島 その点は行く前に野村前会長も非常にご心配になって、結団式のときも、健康にはくれぐれも注意するようにとのごあいさつがありました。そして楽員の方たちも自重して、体だけは気をつけたようです。それに今度の旅行には、特に医師の古館先生に同行願えて、これは本当に助かりました。ふつうの場合だったら、先生の御厄介にならないような小さな病気のときでも、先生のところにかけつけて、先生を煩わすということのなきにしも非ずでしたが......。(笑)おかげ様で大きな故障者も出ず、入院したり、怪我したりで、とり残されることもなく、みな顔を揃えて帰れたのは、大変よかったと思います。
安藤 みなが自重したということももちろんです。しかし古館先生の非常な努力があったからこそ、とり残されるかも知れない人間も、とり残されずにすんだのです。
司会 今回の海外公演は、簡単な言葉でいえば「成果があがった」ですんじゃうかも知れませんが、それを分析すれば、非常に多種多様な意味が含まれていることと思います。それを今後の日本における演奏活動にどう役立ててゆくかということは、これからのN響の定期その他の演奏活動で、実際に聴衆に聞いていただくのがいちばん早道ですが、仮にこういうことを再挙する場合、今度はこういうふうにしたいということがあるでしょう。
吉川 具体的な計画、日程表の交渉に入るのは少なくとも二年前でなければいけない。そうして演奏旅行に行く一年前には、劇場、音楽堂が確保され、題目がきまる。それくらいの準備があったらよいと思います。今回は世界を一周したことが大きな成果ですが、この次はある方面をきめて仕上げをしたい、そういう機会に恵まれれば......と考えています。
司会 日本の曲目をもっと豊富に作ってもってゆきたいかといった、演奏上の曲目についてはどういうお考えですか。
安藤 いますんだばかりでがっかりしている。次のことまで考えるゆとりはない、というのが正直なところです。(笑)今回の結果を勘案して、この次、日本の曲目をもってゆくとき、どこに狙いをつけるかは、これから額を集めて考えなければならない大きなテーマだと思います。ただ今回と同じものをもっていってすむかというとどっこいそうはゆかないでしょう。
岩城 音楽会に序曲、協奏曲、交響曲という順序があるとすれば、今回の日本人の曲は序曲と考えられます。今度行くときも、スタンダードのベートーヴェン、チャイコフスキーを持ってゆくことは必要です。あれはドイツの曲とか、ソビエトの曲というより、世界の曲ですから。同時に日本の曲を序曲ではく、交響曲のところに据えて、中心的なものにしたい。外人に直接魅力をもったもの......レスピーギの『ローマの松』のような音楽が、中心を飾るようになればいい。それには、作曲家にたくさん書いてもらって、どんどんそれを広めなければならんと思います。
安藤 日本から持っていく以上は、あくまでも国籍が日本とわかるものでありたい。そしてそれが芸術作品として昇華しているものならいいと思います。
司会 最後にとっておきの話を伺いましょうか。
吉川 みなと一緒に歩いたから、私の個人芸である脱線のできなかったことが、最大の残念なことです。(笑)その代わりしょっちゅう日本語が喋れたことは幸いでした。
《「ここはニューヨークじゃありません」》
岩城 ベオグラードでぼくがユーゴの笛を、海野(良夫・第一ヴァイオリン)がユーゴの胡弓みたいなものを貰いました。そのときホテルでお酒がなかったから、その楽器を持って、上着を逆に着、帽子を反対にかぶり、面々を引きつれ、吉川団長の部屋を襲って、ずいぶんお酒を儲けました。(笑)艶歌師よろしく『アリラン』かなにかをやり、お金を入れてもらうために灰皿を持って行った。そうしたら、通過した国のお金を入れるので、あまり効果なかった。(笑)
吉田 ホテルで非常ベルが鳴って仕様がない。ボーイさんが飛び歩いていろいろ調べるが、どうしてもわからない。「おかしい。どこかが故障しているに違いないが......」とぼやいている。お風呂に入った人が、洗濯ものをひっかける場所がないものだから、非常ベルの紐にみな結びつける。そのため、あちこちでビーと鳴る。(笑)その原因をつかまえるまでに、ずいぶん時間がかかりました。(笑)
安藤 一行はみなカメラを持っていて、持って行かなかったのは、有馬(大五郎)さん、松島さん、あと一人の三人だけです。だから百十八名はみな持っていて、それも一人が一つならまだしも、35ミリの白黒、8ミリのカラーと、それぞれ二つないし三つ持っている。そしてどこでも着くと、パラパラ散らばって、みな中腰にかまえる。写される人間も、はじめはつっ立っているが、そのうちそこら辺の大きな植木鉢の間に首をつっ込んでみたり、いろいろのポーズをとる。だから現地の人間はみなびっくりしてました。
吉川 ロンドンで記者会見が終わったあと、「お前たちの持っているカメラは、総数で幾つか」という質問があった。(笑)
福原 予定されたニュース・カメラマンが来ないので仕方なしにアイモを回しましたが、あとで数えたら百本をこえている。そのほかに新聞発表用の35ミリと自分の8ミリがあるのでひと仕事でしたが、これからの編集整理が大変だ。しかしこれだけの大事業の記録を残したいばっかりに苦になりませんでしたね。それに、ウィーンで団長と見たウィーン・フィルの世界一周旅行のフィルムにもハッパをかけられた。なんとかしなきゃいかんと思ってです。もっともウィーン・フィルのときは本職のカメラマンとプロデューサーが、オーケストラと不即不離の格好で平行して行動していた......。
吉田 ローマでは集団で百人くらい一カ所に泊まった。だからホテルの中は全部日本語で用が足りました。こっちが外国語を覚えるより、そこらにいるおばさんに日本語を教える。お風呂に入りたいときは、手拭と石鹸を挙げて「おばさあーん、......」と怒鳴ると、「シー、シー」とちゃんとわかる。(笑)心臓は強いですよ。(笑)
安藤 はじめはみな旅行馴れしていないので、インドのホテルでは割合慎ましやかでした。だんだん旅行馴れして、どこかに着くとパッと散っちゃって、銘々三十分、一時間その辺をうろつく。飯の時間になって帰って来ると、それぞれみな情報を持っている。どこの靴がいちばん安いとか、どこでなにを売っているという情報交換は実に早いもので、日本を旅行しているのと同じでした。
岩城 二~三日もいるとどこのパチンコ屋では、何台新しい機械を入れたということまで、ちゃんと調べて来る。(笑)
司会 あれだけのスケールですから、汽車、飛行機から見た景色、歩きながらの景色の印象は相当チグハグでしょう。
吉田 わからなくなっていますね。
安藤 写真を整理して、アルバムで思い出す程度だな。
岩城 誰か、東京に着いて一晩寝て、翌る朝起きてみたらあまり天気がよくない。しかしこのくらいなら大丈夫だから、見物に行こう、と思ったそうですよ。(笑)
吉川 着いた翌る日、久しぶりに日本のお酒をたっぷり飲んで、酔っぱらって車に乗った。そうしたら、車の中で記憶が中断しているんです。車が止まったので、降りてひょっと見たら、漢字で「吉川義雄」の標札が目に止まった。「ニューヨークにこんなところがあってたまるか!」運転手が「ニューヨークじゃありません、あなたの家ですよ」(爆笑)
吉田 これは最高だ。恐れ入りました。
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↓ NHK交響楽団帰国記念演奏会(1960年11月10日)NHKホール 指揮は外山雄三、岩城宏之、シュヒター。曲目は「五つ木の子守唄」ほか2曲