何かもう、激ウマ!! 「極濃、めんたいマヨ味」
先ほど、「石垣島に同窓会で50年ぶりに帰った」~~ 治療中、男性患者さんとの会話に沖縄が出ました。 時々、お見えになりますが、沖縄のなまり(失礼!?)もなく、今日言われるまで、沖縄ご出身とはわかりませんでした。 首里城の話に少し触れたので、雑感をしたためてみます。 首里城は、軍事目的の城ではなく、政治・文化の中心でして、いわば、沖縄の方々の精神の拠り所として存在し続けてきました。 確か、先の大戦末期、旧日本軍が、沖縄戦で、首里城の地下に司令本部を築いたため、アメリカ軍の猛攻で、城は焼き尽くされたと思います。 戦後、沖縄の人が何十年もかけて復元したのです。( どうなのでしょうか? 戦後、日本に返還されるまで、30年近くかかっておりますから、その間、日本からの援助はできなかったと考えます。ましてや、アメリカが出してくれるはずもありません~違うかもしれません~💦) ダブって思い起こすのが、パリ・ノートルダム寺院の火災・消失。キリスト教信者に限らず、世界の人々が祈りを捧げてきた同寺院、以前、ニュースで、日本円にして1000億円以上の寄付が集まっていると聞きました。 沖縄の人々の心の寄りどころに、日本中の人々が心を寄せる。寄付をする。そんな風にならないかな、とふと思いました。
BSのある番組で(忘れました~💦)、現在、本をインテリアにしたカフェ、バー、が流行っていることを知りました。 もちろん手にして読んでも構わないようで、まあ、本だって元々は木からできておりますから、アナログ感、安堵感、癒され感に浸れるのかもしれません。 もしくは、本離れ、本を普段目にしない生活の中で、その空間が異質なもの、でもどこか、太古の自分に帰ったような居心地の良さを感じられるのかもしれません。 本~~ 本のない人生は単なる生存であり、生活ではないような気がします。(少々、大袈裟ですが~~💦) 人間は地球という惑星に奇しくも生を受け、言葉を発明し、言葉の交換によって文化・文明が生まれました。 言葉がなければ自分一人の経験によって生きてゆく他はありません。これは、生活ではなく生存でしょう。 おそらくは、自分の近くに居合わせる友人や隣人、親類などと一緒に辛うじて経験を交換し合うだけになるでしょう。 わずかな人数の間で言葉が発明されたとしても、口で交換し合える知識は、たかが知れております。 知識を交換するためには、お互いに、接触できるほどの近距離に居合わせなければなりませんね。 遠距離にいる未知の人間から、知識を伝えられるのが本であることに間違いはありません。(インターネット時代とはいえ、本の役割は変わらないと思います。 また、人間は二次元的なものより、三次元的なものからのインプットの方が、はるかに効率が良いようです) 本が多くなればなるほど、自分の知識は拡大され、わずかな本の代金で、時間、空間共に、世界的な知識を得ることができます。 文化という巨大な倉庫にほとんど無料で入り、人間としての生活の知恵を蓄積することができるのです。 グローバルな文化、文明を一冊の本の代金で手に入れられますし、生存から生活を、人間は本によって獲得できるのです。 とまあ、知った風なことを、月曜の朝からゴチャゴチャと書いてきましたが、気づくと、週刊誌の飛ばし読みしかしていない自分がいました~~💦